<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(5)日本橋 華のメディア街 今は「夢の跡」(2024年5月19日『東京新聞』)

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蔦屋重三郎の「耕書堂」があった地域で街を見る田中優子さん=中央区日本橋大伝馬町
 江戸時代、日本橋には巨大百万都市の胃袋を担う魚市場があった。また、東海道中山道など五街道の起点でもあった。人と物が集まれば情報の発信地となる。浮世絵や団扇(うちわ)の版元などが軒を連ねるメディアシティーでもあったのだ。
 今は首都高速の下にある日本橋から歩き始めよう。北詰交差点の一角に、魚河岸跡の碑があった。江戸時代、日本橋川を利用して集められた魚介類がこの河岸の桟橋に横付けされた船の上で売買された。一日千両の取引があったとされ、ここで財を築いた旦那衆がスポンサーとなり、江戸歌舞伎や浮世絵などの華やかな文化が一帯で花開くことになる。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的被害を受けて魚河岸が築地に移転するまで、日本橋は江戸・東京の台所であり続けた。
 ここから北へ中央通りを進む。左手に日本橋三越本店、三井本館などが並ぶ。
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 99年、約200年前のこの通りを描いた長大な絵巻がドイツで発見された。「熈代勝覧(きだいしょうらん)」という名で絵師不明のこの絵巻には、当時の問屋街や行き交う人々の姿が詳細に描かれている。発見されたのは通りの西側を描いた「天」だけで、別巻が存在した可能性が高いが消息不明。見つかれば大発見だそうだ。「熈代勝覧」のレプリカは今、東京メトロ三越前駅の地下コンコースに展示されている。
 コレド室町瀟洒(しょうしゃ)なビルを見て、東に曲がる。300メートルほど進むと左手にあるのが、江戸団扇の老舗「伊場仙」だ。
 初代の伊場屋勘左衛門は、徳川家康の江戸入府に伴って現在の浜松市中央区東伊場から移り住んだと伝えられる。当初は和紙、竹などを扱う御用商人だったが、1700年ごろに江戸団扇を考案し、江戸後期には浮世絵を張り付けるように。一流の絵師を使った団扇、扇子は売れに売れ、320年も商いを続けている。店の横に「伊場仙浮世絵ミュージアム」があり、歌川国芳らの絵のレプリカを無料で鑑賞できる。
 かつて蔦屋重三郎による版元「耕書堂」などがあり、田中優子さんが「日本の出版史上、浮世絵史上、最重要の通りです」と話す大伝馬本町通りは、この北側。現在はオフィスビルやホテルが立ち並ぶビジネス街となっている。出版文化の発信に命を燃やした「兵(つわもの)どもが夢の跡」だ。
◆「発禁」守り抜いた蔦屋 田中優子
 前回は吉原大門前の蔦屋重三郎の店の跡に立った。今回は、蔦屋が吉原に店を開いて約10年後に移転した、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)の蔦屋耕書堂の跡に立った。現在、そこは中央区日本橋大伝馬町13あたりになり、耕書堂があったことを示すパネルが立っている。ただし、はっきり店の場所がわかっているわけではない。
 この地に来るまでの間、重三郎は「吉原細見」の版元株を独占し、山東京伝大田南畝(なんぽ)、喜多川歌麿などとつながりを持った。日本橋移転後、彼らとの連携による狂歌集、狂詩集、洒落(しゃれ)本、黄表紙、浮世絵が次々と出版され、蔦屋耕書堂は全盛期を迎えるのである。
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葛飾北斎の「画本東都遊」に「絵草紙店」として描かれた「耕書堂」(中央区立郷土資料館所蔵)
 同じ通りに鶴屋喜右衛門という版元もあった。京都から来た老舗で、山東京伝が当時の出版界事情を描いて評判をとった黄表紙「御存商売物」の版元である。
 しかし、この日本橋で蔦屋が刊行した山東京伝の洒落本が処罰の対象となり、店舗は半減させられる。その半減後の店を、北斎が描いている。それでも蔦屋は諦めなかった。その後ここで、蔦屋の発案になると思われる歌麿の大首絵と、蔦屋が見いだした東洲斎写楽の役者絵が、生まれたのだ。
 江戸時代からある版元「伊場仙」にも立ち寄った。14代当主の吉田誠男さんには、学生たちに講義をしてもらったことがある。伊場仙の団扇絵は浮世絵の転用ではない。団扇絵用のオリジナルだ。版元3カ所の当時を想像するうち、この辺りが江戸に見えてきた。 (江戸学者・法政大前総長)
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田中優子さんに団扇の説明をする伊場仙の吉田誠男社長(右)=中央区日本橋小舟町
 文・坂本充孝/写真・田中健
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