風がまだ冷たい4月上旬。長野県塩尻市の松本歯科大で、新人歯科医師の杉野凜太郎さん(28)は臨床研修のオリエンテーションに参加した。講師の姿を真剣な表情で見つめつつ、話した内容は同席する手話通訳士の手の動きで理解する。
生まれつき重度の難聴で、音のない世界に生きてきた。今年3月、6年間の大学での勉強を終え、歯科医師国家試験に合格。重度難聴の歯科医師は「全国でも聞いたことがない」(同大)という。
患者や同僚とコミュニケーションをとる場面も多くなる。「『聞こえない歯科医師』という自分のスタイルを追求したい」と意気込む。難題を克服し、道を開いてきた自負がある。
生まれて間もない頃、声をかけてもハイハイで突き進む姿に母の美左子さんは一抹の不安を感じた。少しは聞こえていると思ったが、医師の診断にがくぜんとした。
親の声が聞こえぬ我が子とコミュニケーションをどう取るか、試行錯誤の日々が始まった。
補聴器を付けてわずかな音から日本語を習得する「聴覚口話法」はなじめず、通じない思いに杉野さんがかんしゃくを起こしたこともあった。手話を学び意思疎通ができるようになると、徐々に穏やかさを取り戻した。手話が家族のもう一つの言語になった。
ろう学校に進学すると、障害の程度は生徒によって様々だった。
「先生の中にも『耳が少し聞こえる子のほうが勉強はできる』という風潮があった。認めてもらうためには努力しなければならないと学んだ」
日本語と手話は語順などが異なるため「国語は苦手だった」と振り返る。中学生になっても小説の1ページに数カ所分からない言葉がある時があった。電子辞書をひいて表現を覚え、高校時代には試験でトップになった。
医療を志した原点には、病に倒れた祖母が歯科治療の痛みに苦しんだ姿がある。「健康な時から口腔(こうくう)ケアをする大切さを感じた」。文系志望だったが、浪人生活中に理系に転じ、歯学部を目指した。
医療はスタッフらとのチームワークで成り立つ。母がある大学から「耳が聞こえないと難しい」と言われたこともあった。不安がなかったと言えば噓になるが、あきらめないという気持ちの方が強かった。
念願かなって松本歯科大に合格。高校まではろう学校にいたため、難聴ではない友人に囲まれる生活は初めてだった。
「同級生も先生も当初はどう接していいかお互いとまどっていた」
思ってもいなかった「話し言葉」の壁にも突き当たった。
大学はタブレットで授業内容を字幕で表示するシステムを導入。ただ講義の重要部分に差し掛かって先生が声のトーンを強めても、字幕だけでは伝わらないこともあった。「世の中の人が思った以上に音で雰囲気を判断していたことに驚いた。共有できない世界があった」
学習のポイントが他の人とズレていたことに後から気付き、悔しさやさみしさを感じたこともあったが、コミュニケーションの可能性を見いだしたのもこの頃だ。
自ら筆談で語りかけ、仲良くなるにつれて手話に興味を持ち、学んでくれる友人が出てきた。大学には留学生も多く、異国の言語に悩む姿は自分と重なった。台湾出身の友人とは今では手話だけで意思疎通する。
「自然体で互いに認め合えば、聞こえる人とも深い信頼関係をつくれることがわかった。達成感は大きかった」と振り返る。
1年間の研修医を終えると、歯科医師としての本格的なスタートが待ち構える。新たな課題も出てくるだろう。自分だからこそ寄り添い、築ける関係があると信じる。
臨床実習で診察した難聴の患者に治療内容を手話で説明すると「今まで歯医者に行っても何をしているのか分からなかった」と笑顔を見せた。
他の障害がある人も、それぞれが診察の時に抱える悩みがあると思う。
発話だけでなく、手話や筆談、映像などツールは色々ある。「障害のある人も、ない人も順風満帆な人生はない」。これまでもこれからも、挑戦することで道を切り開いていく。
文 堀越正喜
写真 宮口穣