あすからのNHK連続テレビ小説「虎に翼」は法律家を志す女性が主人公だ。モデルは日本初の女性弁護士で、後に裁判官になった三淵嘉子さんである
▼現在の司法試験に当たる高等文官試験司法科に合格したのは1938(昭和13)年。戦後は女性初の裁判官になり、72年にはこれまた女性初の裁判所長として新潟家裁に赴任した。本人が望んだことではないはずだが、何かと「女性初」がついて回った時代である
▼新潟家裁の所長就任に当たり、東京で開かれた記者会見を報じた記事が本紙に載った。原稿にも見出しにも「おばさん所長」という文言がある。ずいぶん無神経な言い草で、今なら問題になりそうだ
▼戦前、女性には裁判官の道が閉ざされていた。新憲法下でようやく念願がかない、女性法律家としての道を切り開いた。就任会見では「最高裁が女性の採用に消極的なことは確か」と指摘した。一方で「裁判所は本来自分の正しいと思う信念を貫くことができる職場」とも述べている
▼それから半世紀。英誌が先日発表した、女性の働きやすさランキングでは、日本は先進国を中心とした29カ国のうち27位にとどまった。企業の管理職に占める女性の割合は最下位である。英誌は「依然として職場で最大の障害に直面している」と評した
▼「女性初の○○」は今もある。県警には初の女性本部長が就任した。政府が唱える「女性活躍」は道半ばだ。新潟ゆかりの法律家を描くドラマが、真の女性活躍を考える契機になるといい。
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三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—
明治大学史資料センター所長
村上一博(法学部教授)
去る2月22日、来たる2024(令和6)年4月から放送が始まるNHK連続テレビ小説(いわゆる朝ドラ)の主人公のモデルとして、本学女子部出身で、女性として初めて弁護士・判事・裁判所所長となった《三淵嘉子》を採用することに決定したと報じられた(ドラマの名称は「虎に翼」、主演女優は伊藤沙莉さん)。三淵嘉子とは、どのような人物なのか。その人となりを簡単に紹介しよう。
☆ ☆ ☆ ☆
三淵(旧姓武藤)嘉子は、1914(大正3)年11月13日、台湾銀行に勤務していた武藤貞雄(旧姓宮武、明治19年生まれ、丸亀中学から一高を経て東京帝大卒)の長女として、シンガポールに生まれた。その後父親は、ニューヨーク勤務を経て、1920(大正9)年に帰国(その間、嘉子らは丸亀で生活した)、一家は揃って東京渋谷区に住まいした。父親は、当時としては男女に分け隔てのない非常に民主的な考えを持ち、幼い嘉子に「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」と語っていたという。いわゆる良妻賢母ではなく、職業婦人として自立する女性となるよう諭していたのである。
嘉子は、東京府青山師範学校附属小学校から、1932(昭和7)年3月に東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)を卒業した後、法律を勉強しようと決意した。
ちょうどこの頃、1933(昭和8)年5月の弁護士法改正(法律第53号、昭和11年4月施行)によって、それまで弁護士資格について「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」(第2条第一)とされていた規定が、「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と改められたことで、女性も弁護士となることが認められた。もっとも、弁護士になるには、高等試験令による司法科試験に合格し、その後1年半弁護士試補として修習を受ける必要があり、司法科試験を受けるには、高等学校または文部省が特に指定した専門学校の卒業生あるいは大学の学部在学中か卒業生でなければならなかった(ただし予備試験に合格すれば学歴は不要であった)。女子専門学校で文部省から指定を受けた学校は皆無であったから、大学学部在学中か卒業生になる以外に道はなかった。しかし、当時女性に門戸を開いていた大学は九州帝大・東北帝大など、ごく僅かしかなく、それも理系学部が中心であった。前述の弁護士法改正を見越して1929(昭和4)年に創設された明治大学専門部女子部法科(3年制)が、唯一、その卒業生に対して明治大学法学部への編入を認めており、女性が弁護士を目指して法律を学べる学校だったのである。
嘉子は、女学校卒業後、1932(昭和7)年4月、第4期生として明治大学専門部女子部法科に入学した(入学する際、母親のノブは法律等を勉強しては嫁の貰い手がなくなると泣きながら猛反対したという)。1935(昭和10)年3月に卒業した後、さらに明治大学法学部に編入、1938(昭和13)年3月に卒業した(卒業式で総代を務めた由)。当時の勉学の様子については、
小学校卒業以来異性とは全く交渉のない当時の学生にとっては、お互いに関心はあっても口を利く勇気はなく、女子学生は常に教室の前の方に集団で席を取って授業を受け、授業外でも女子だけで行動する有様で、やはり女子学生は男子学生の勉学の場を拝借させて頂いているという感じだった。しかし・・・成績に関しては本家の男子学生を凌ぐものがあり、当時の明大の男子学生にとって女子学生の存在は競争刺激剤としての存在意義があったのではなかろうか。
と語っている。
嘉子が卒業した年の11月1日、司法省は、嘉子および同級の中田正子、そして1学年下の久米愛の3人の女性が、高等文官試験司法科に合格したと発表した(合格者総数242名)。女性初の快挙であった。『東京朝日新聞』(第18884号、11月2日)は第二面で「法服を彩る紅三点、女性の法律問題は女性が—、弁護士試験・初の栄冠」と3人を称賛し、『法律新聞』(第4339号、11月8日)は、第一面に「女弁護士登場」として、3人の写真と談話を掲載した。嘉子はインタビューに応えて言う。
之から先の方針も未だ決まって居りません状態です。仮令若し弁護士になるに致しましても職業として立って行くと云ふよりは、只管不幸な方々の御相談相手として少しでも御力になりたいと思って居ります。それには余りにも世間知らずの無力な、空虚な自分を感じます。晩成を期して、学問の上でも、社会の事に就いてももっともっと勉強し、経験を積んでその上での事でございます。そこ迄自分がやって行けますか何うか・・・・・・。只私の望みは仮令何の道を歩むに致しましても夫々の道に応じて、世の為、人の為、自己の最善を尽したいと思ふのみでございます。
嘉子も他の2人も、男女差別の時代風潮に配慮しながら、あくまでも謙虚に、女性のための弁護士、不幸な人々の相談相手という点を強調したコメントを残している。
その後、第二東京弁護士会での1年半の弁護士試補の修習を終え、1940(昭和15)年6月弁護士登録(第二東京弁護士会所属)した。女性弁護士がいよいよ誕生したのである。もっとも、第二次世界大戦に突入した1941(昭和16)年になると、民事事件の数は大きく減少して、弁護士としての活動はほとんどできなかったようであり、嘉子は、1940(昭和15)年7月から母校である女子部法科の助手、1944(昭和19)年8月には同助教授となって、後進の指導に当たった。
私生活では、翌1941(昭和16)年11月5日に、実家に書生として出入りしていた和田芳夫(明大卒)と結婚、1943(昭和18)年1月には第一子芳武が誕生したが、芳夫は1年半後の1944(昭和19)年6月に召集されてしまい、嘉子は、幼い息子を抱えながら、空襲で家を焼かれて逃げ惑い、さらに福島へ疎開するなど、苦しい生活を強いられた。
終戦後、1946(昭和21)年5月23日、芳夫が上海から引揚途中に長崎で病死したことから、嘉子は、経済的自立について熟慮したすえ、男女平等の世の中になったのだから女性も司法官に採用されてしかるべきだと考えて、1947(昭和22)年3月裁判官採用願を司法省に提出した(それまで女性は司法官のみならず官吏に採用されたことはなかったが、弁護士のように、男性に限るとする明確な規定は存在しなかった)。しかし、裁判官としての採用は許されず、坂野千里東京控訴院長から、裁判官としての仕事を学ぶため暫くの間司法省に入って勉強するよう勧められ、6月司法省民事部に入った。はじめ民法調査室に所属して、民法・家事審判法の立法作業に、最高裁発足後は、事務局民事部第三課(→家庭局)で親族法・相続法・家事審判所の問題などに携わった。
戦前の民法の講義を聴いたときは、法律上の女性の地位があまりにも惨めなもので、じだんだを踏んでくやしがりました。それだけに、何の努力もしないで、新しくすばらしい民法ができることは夢のようでした。また、一方「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるだろう。はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」と、おそれにも似た気持ちをもったものです(『婦人法律家協会会報』17号)。
と、当時を振り返りながらも、職場はリベラルな人が多く、仕事の上で「女性であるために不愉快な思いをしたことは、一度もありませんでした。むしろ皆さんに可愛がって頂き一生懸命に教育して下さいました」と感謝の言葉を記している。同年11月には、明治女子専門学校教授にも就任した。
ようやく、2年後、1949(昭和24)年6月東京地裁民事部の判事補に任用された。女性の裁判官としては2番目の採用であった。女性裁判官第1号と検察官第1号は、同年4月に採用された石渡満子(明治大学専門部女子部・法学部出身)と門上千恵子(九州帝大法文学部出身)で、ともに戦後に司法研修所で司法修習生として初めて男性と一緒に修習を受けた女性たちであった。
嘉子は、同年5月から約6ヶ月にわたり、アメリカで家庭裁判所を視察、帰国後、1952(昭和27)年12月名古屋地裁に転じ、初の女性判事となった。次いで、東京地裁・同家裁に移り、民事裁判・少年審判を担当した。「私は男女が差別される時代に育ったせいか、建前論を主張するよりは女性が実績を上げて社会を納得させることが大切だ」と考えて執務に励んだと言う。
1956(昭和31)年8月、最高裁調査官であった三淵乾太郎(明治39年生まれ、のち浦和地裁所長、初代最高裁長官三淵忠彦の長男、前妻を病気で亡くし1男3女の子持ちであった)と再婚した。なお、この間、1951(昭和26)年4月明治大学短期大学兼任教授、1965(昭和40)年4月から1972(昭和47)年まで同兼任講師を務めている。
1972(昭和47)年6月新潟家裁所長に就任(女性として初の裁判所所長)、次いで浦和家裁所長(昭和48年11月~53年1月)・横浜家裁所長(昭和53年1月~)となり、1979(昭和54)年11月13日、定年退官した。横浜家裁の所長時代、薄汚れていた調停室の壁を明るい白に塗りかえ、壁に絵をかけ、カーテンを新調し、昼休みには廊下に静かな音楽を流した。家庭問題に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いからであった。また、各地で精力的に講演を出掛けたが、それは、少年事件や家事事件について一般社会に関心を持ってもらうためであり、特に少年問題は家裁に送られる前に家庭や社会が少年問題に理解をもって協力することが肝心であると考えたからに他ならない。「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない」「家裁の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある」との信念からであった。
退官の年に、法制審議会民法部会委員、日本婦人法律家協会会長を務め、退官後は、弁護士(第二東京弁護士会所属)を開業する傍ら、労働省男女平等問題専門家会議座長、東京家裁調停委員兼参与員、東京都人事委員会委員、労働省婦人少年問題審議会委員などの要職を歴任した。
短期大学創立50周年記念講演で、三淵は、学生たちに静かに語りかけている。
(戦後に華々しく社会的活動を始めた女性たちのうちエリート意識が強い人たちがいるけれども)女子部の人たちはエリート意識を持ちませんでした。大学で法律や経済を学ぶこと自体、社会から白眼視されていたのですから、エリート意識は持てませんでした。自分に力をつけて、そして人間らしく生きていこうという気持ちが強く、職場でも地味に働いていました。私は、今でも皆様方にエリート意識など持って欲しくないのです。あなた方がどこに出ても一人前の人間として自立していくという、この明大の伝統を、これからも受け継いでいっていただければ本当にうれしいと思います。
時代を切り拓き、懸命な努力を重ねてきた女性法曹の先駆者ならではの、強くかつしなやかな生き様が感じられる。
1984(昭和59)年5月28日死去、享年69歳であった。6月23日に青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には2千人近い人が訪れて、別れを惜しんだ。
なお、三淵嘉子について、さらに詳しく知りたい方は、次の文献を参照されたい。
(1) 三淵嘉子「少年審判における裁判官の役割」『別冊判例タイムズ』6号、1979年12月(のち、『追想のひと三淵嘉子』所収)
(2) 三淵嘉子「婦人の解放と明大女子部の果した役割」『明治大学広報』106号、1980年 1月
(3)「三淵嘉子氏に聞く—女性裁判官第一号—」『法学セミナー』1980年5月号
(4) 三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道—女性法曹の先達として—」三淵嘉子編著『女性法律家』有斐閣、1983年(のち、『追想のひと三淵嘉子』所収)
(5)『追想のひと三淵嘉子』三淵嘉子さん追想文集刊行会、1985年
(6) 佐賀千恵美著『女性法曹のあけぼの 華やぐ女たち』早稲田経営出版、1991年
(7) 加藤純子ほか編『自由と人権をもとめて—20世紀のすてきな女性たち7—』岩崎書店、2000年
(8) 山本祐司・五十嵐佳子著『女性弁護士物語—17人のしなやかな生き方—』日本評論社、2002年
(9) 大阪府男女共同参画推進財団編『Women Pioneers 女性先駆者たち』同財団、2011年
(10) 江刺昭子ほか編著『かながわの111人』第2集、神奈川新聞社、2011年
(12) 神野潔「女性法曹の誕生と三淵嘉子」『人権のひろば』24巻3号、2021年