被爆門柱の謎(2024年2月28日『中国新聞』-「天風録」)

 かつて広島市にあった日本最古の私立美術館をご存じだろうか。縮景園内に旧広島藩最後の藩主浅野長勲(ながこと)が設けた観古館(かんこかん)である。瀟洒(しょうしゃ)な館は原爆で焼失したが、石でできた門柱は耐えた。今は広島県三次市の塩町中に立つ

被爆門柱がなぜ60キロも離れた県北の中学校に運ばれたのか。いきさつは謎だ。美術作家・菅亮平さんの手による高さ3・5メートルの実物大レプリカの存在感に圧倒される。中区のギャラリーGできのう始まった個展で見た

▲ピカのすさまじい威力も、縮景園に逃れた人が次々と命を落とす姿も見てきたはず。半世紀以上前の校舎新築で校門に転用したとの記録だけが塩町中に残る。原爆ドームの永久保存が決まる一方、復興が急速に進んだ時代。門柱のたどった運命に興味は尽きない

▲菅さんの調査で、三次市出身で広島市和文化センター初代局長の故田淵実夫さんが関わったらしいことまでは判明した。「歴史の空白を埋めたい」と移設にまつわる証言を募っている

▲学校だよりの言葉を引く。「あの日を決して忘れるな」と私たちに強く語りかけます―。被爆時と変わらぬ姿で門柱は生徒を見守る。巣立ちを祝い、思いを継ぐ新入生を迎える春はもうすぐ。

 

[戦後70年 県北から] 塩町中被爆石柱 標柱で由来記す 縮景園→三次 郷土史友の会「反戦叫ぶとりでに」(2015年7月31日『中国新聞』)


 広島県三次市大田幸町の塩町中で、40年以上前、広島市から移され校内に立つ被爆石柱のそばに、地元の田幸郷土史友の会が30日、石柱の由来などを記した標柱を設けた。地域の史跡に看板を設置する活動を続けてきた友の会が、被爆の歴史を伝えるため、70年の節目に合わせて企画した。(城戸良彰)

 石柱は2本あり、それぞれ高さ約3・5メートル、1辺約45センチの四角柱で花こう岩製。旧広島藩主浅野家の宝物を集めて縮景園広島市中区)内に開設された美術館「観古館」の門柱として1913年に建てられたという。

 経緯は不明だが、2本の石柱は71年に同中が現在地に移転した際、同中の正門として移設。2007年12月、現在の校舎に改築された時に駐輪場の入り口に移された。

 この日、友の会のメンバーたち7人が、東側の石柱のそばに標柱を取り付けた。標柱は高さ約1・6メートル、1辺約15センチのヒノキの四角柱。側面にはペンキで「被爆門柱」「広島浅野家の旧私立美術館(観古館)の門柱」などと記されている。

 友の会の米田速夫代表(89)は「広島市内でも被爆建物が消えゆく中、三次で石柱を守り続けていることは意義深い。三次から戦争反対を叫ぶとりでになってほしい」と話した。