『セクシー田中さん』問題、小学館の編集者一同の「泣ける声明」でも鎮火失敗のワケ(2024年2月16日)

● 現場が会社をかばっているような印象さえ与えてしまう

 そこに加えて、次の《2.小学館のここまでの対応への苦言や今後の提言》がないということも「会社にやらされている」という印象を抱かせてしまっている。

 編集者一同の声明を出すまで、小学館の対応には、多くの作家や読者から批判の声が上がっていた。そういう声を受けて、立ち上がったはずの編集者一同がそのような批判にまったく触れずスルーしているのは、かなり不自然ではないか。

 1989年に朝日新聞のカメラマンがサンゴを傷つけて記事を捏造する事件が起きた時や、TBSがオウム真理教に対して、取材で得た坂本堤弁護士一家の情報を伝えていた問題などがあった時も、両社の社員から会社に対して納得のいく説明をすべきだという声があがっていた。しかし、今回は声明の中では会社に対する苦言は一切なく、《私たちが声を挙げるのが遅かった》という表現があるように、現場が会社をかばっているような印象さえ受けてしまう。

 そう聞くと、「外野は黙ってろ!このメッセージを出すだけでも小学館の編集者たちは相当、上層部と闘ったんだ。その頑張りを認めてやるべきだろ」というお叱りの声が飛んできそうだが、筆者が言いたいのは、まさしくその頑張りが透けて見えてしまうということだ。

 「社畜」という言葉があるように、日本のサラリーマンたちは、会社の方針に逆らったり、現場が何か自由に言いたいことを言えるわけがないという「現実」の中で生きてきた。今回の「声明」を見て、組織で頑張るサラリーマンたちはちょっと読めば、会社のスタンスに沿っていて、どういう組織内力学で作成された文書かはなんとなく想像がついてしまう。会社勤め経験のない学生などは「勇気のある反乱だ!」と感動するかもしれないが、組織人は「編集者さんも頑張ったけれど、まあ巨大組織にいりゃあこれが限界だよね」とシラけてしまう。だから、本当に「現場の覚悟」を示したかったのなら、会社に対して何かしらの苦言・意見・提言は入れてほしかった。

 ただ、そのような要素よりも、今回の声明で絶対に入れてほしかったと筆者が感じているのは、《3.芦原さんに「申し訳ない」という気持ちの表明》である。  実は、あの声明には「芦原さんに申し訳ない」という謝罪の気持ちが書かれていないのだ。

● 芦原さんに対して「申し訳ない」とは言えない小学館と編集者一同

 筆者はパワハラやセクハラ、あるいは過労死などが発生した企業の「声明」にもよく関わるが、そこでリーガルチェックと必ず揉めるのが、「被害を訴えた人」への言及だ。

 少しでも「謝罪」を連想させることを発信してしまうと、「非を認めた」ということになって責任問題に発展する、と顧問弁護士や法務部は考えるので、そういう表現を徹底的に削除していく。もちろん、法律的な危機管理としては正しいのだろう。だが、コミュニケーションとしては最悪だ。「被害を訴えた人」の存在や訴えなどハナからこの世に存在していないかのような冷たい態度になってしまうからだ。

 今回の小学館の対応も残念ながら、そういう「弁護士流危機管理」のアドバイスを受けている可能性が高い。小学館のプレスリリースには、芦原さんが亡くなったことに対してこう述べている。

《ご逝去に伴い、読者、作家、関係各所の皆様にご心配をおかけしていることを深くお詫びいたします。》  一見すると、何かしらの「謝罪」をしているような印象を受けるが、よく読んでいただきたい。深くお詫びをしているのは、「皆さんに心配をかけた」ということについてだけで、芦原さんが亡くなったことに対してではない。

 そして、それはトンマナを合わせた編集者の声明も同じだ。こちらでは「謝罪」を思わせる表現は一切なく、唯一あるのは以下のような文章だ。 《いつも『プチコミック』ならびに小学館漫画誌やwebでご愛読いただいている皆様、そして執筆くださっている先生方。私たちが声を挙げるのが遅かったため、多くのご心配をおかけし申し訳ありませんでした》

 もうおわかりだろう。これも「会社のスタンス」と同じだ。「申し訳ない」は「読者と作家に心配をかけたこと」であって、芦原さんに対してではない。  「弁護士流危機管理」では、これは「正解」のコメントである。しかし、筆者のようなリスク・コミュニケーションのプロから見れば、やはり「悪手」だと言わざるを得ない。

 確かに、会社は守れるが、芦原さんのご家族や関係者、ファン、そして真相を知りたい作家のみなさんからすれば、かなり他人事感が強い。「守られた」というよりも、「組織を守るために切り捨てられた」という印象を抱いてしまう。

● 組織のルールを守りつつ、芦原さんへの謝罪を表明する方法はある  

 では、どうすればいいか。「芦原さんの死」に対する責任問題を避けながら、申し訳ないという思いを伝える方法はいくつかある。例えば、謝罪の方面を変えて、責任の所在をぼやかす表現がある。

 「芦原先生の作品を愛してくださったファンの皆様、私たち編集者がついていながら、芦原先生を守ることができずに申し訳ありません」

 亡くなったことに対する法的な責任ではなく、編集者として、芦原さんという才能のある作家の尊厳や意志を守ることができなかった、という道義的な責任を素直に認める。そんなメッセージを「編集者一同の総意」として打ち出せば、「芦原さんのように何かあっても守ってもられないのでは」という作家やファンの不安や恐怖も、今よりも解消されるはずだ。

 今回の声明に対して批判やダメ出しをしているわけではない。むしろ、危機管理広報のセオリーからすると非常にレベルが高い声明だ。会社側の説明から決して脱線することなく、訴訟リスクも回避しつつ、血の通った言葉で、読者や作家の感情に訴えている。筆者はプレスリリースの書き方講座なども行うが、広報やパブリックリレーションの視点を持つ「プロ」が関わっているのではないかと思うほどだ。

 ただ、完成度の高い声明文なら「鎮火」できるというものでもない。筆者の経験では、そういう声明文の多くは、会社を守ることに夢中になるあまり、弱い個人の心や尊厳を無意識に踏みにじっているケースが多いのだ。企業危機管理を担当する人は、ぜひ心に留めておいていただきたい

 (ノンフィクションライター 窪田順生)

 

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