● 編集者一同の「泣ける声明」でも事態収まらず 1月から『セクシー田中さん』の脚本トラブルがなかなか収束しない。それどころか、さらなる波紋を呼んでいる。
『週刊文春』は、亡くなった『セクシー田中さん』原作者の芦原妃名子さん(享年50)が生前に「もう映像化はいいかな。疲れちゃった」などと親友に打ち明けていたと報じている。
また、『ちびまる子ちゃん』で知られる漫画家・さくらももこさん(享年53)の元夫で、現在は音楽評論家の宮永正隆氏は、自身が運営する「金沢大学オープンアカデミー ビートルズ大学」のXで過去、NHKが制作したさくらさんの自伝的ドラマについてのトラブルを告白した。宮永氏によれば、このドラマはさくらさん自身が脚本を書き下ろし、キャスティング案も出したというが、「一切無視した酷い出来ドラマが『完成版』としてビデオで突然届いたのが放送数日前」で、そこにはこんな言葉が添えられていたという。
「先生には叱られるかもしれませんが」 つまり、ドラマ制作サイドは、故意犯的にさくらさんの要望を握りつぶしたというわけだ。作者の自伝的マンガですらこの有様なのだから、漫画作品など作者の要望が入り込む余地などないことは容易に想像できよう。
実際、宮永氏は「こんな仕打ちを受けた当事者・原作者は他にも数知れずだが、制作サイドは“そういうもん”となし崩しで押し切ってきた」と現場の実情を明かしている。一方で、こういう「告発」がいまだに相次いでいる状況を意外に感じる人も多いだろう。
2月8日、小学館の第一コミック局(少女・女性漫画)の編集者一同による声明が「泣ける」「血の通ったコメント」「クビ覚悟の発信に心を打たれた」など、「称賛」の声が多く寄せられた。これで事態が収束に向かうのではないかという見立てもあった。
ただ、残念ながら冒頭で紹介したように状況は改善しておらず、日本テレビや小学館に「第三者調査」を求める声も強くなっている。例えば、『金色のガッシュ!!』の作者で漫画家の雷句誠氏は「情に訴えるコメントで肝心な部分を誤魔化しているようにも見えます」「漫画家さん達が抱いた恐怖は消えない」と苦言を呈している。
では、一部の人々から支持された「泣ける声明」だが、なぜこの問題を収束させられなかったのか。
● 編集者一同の声明には「肝心なところが足りない」
いろいろなご意見があるだろうが、報道対策アドバイザーとして、これまでさまざまな不祥事企業の「声明」の作成に関わってきた経験から言わせていただくと、あの声明には「肝心なところが足りない」ことが大きい。
具体的に言えば、「現場の編集者が会社と闘いながらも強い意志をもって発信したメッセージ」という前提であるにもかかわらず、「会社のスタンス」とトンマナを合わせすぎてしまっていた。それにより、「作家を守る編集者」が本来なら発信するであろうメッセージがゴソッと抜け落ちてしまっているのだ。
断っておくが、「会社のスタンス」と合わせたからけしからんなどと言うつもりは毛頭ない。企業にお勤めの方ならばわかると思うが、今日においてホームページに掲載するプレスリリースや声明などは、担当者だけでなく、法務や顧問弁護士のリーガルチェック、さらには経営層などの二重三重のチェックも受けて発信される。上場企業の場合は株価に直結するし、非上場でも訴訟リスクなどに発展する場合もあるからだ。
今回の「編集者一同の声明」も然りだ。「これは、編集者が考えた文書なので勝手に手を加えないでアップしてください」なんて話が、あれほどの大企業で通るわけがなく、経営幹部や法務のチェックや修正を経て発信されたものである可能性が高い。それは悪いことではなく、社会的責任が求められる企業として当然のフローだ。
問題はそんなチェックや修正を重ねているうちに、「会社のスタンス」が強くなりすぎて、先ほどの雷句誠氏が述べたように「肝心な部分を誤魔化している」という印象になってしまったことだ。 では、どのあたりが抜け落ちてしまったのか。
● 結局「会社が編集者一同に言わせてるだけ?」と思われる声明 筆者が気になったのは以下の3つだ。
1.小学館の「スタンス」とやや異なる、現場目線の状況説明 2.ここまでの会社の対応への苦言や要望 3.芦原さんの死に対して「申し訳ない」という気持ちの表明 まず、1に関しては多くの人が指摘しているが、日本テレビや小学館の説明は、芦原さんが死の間際に訴えたことと大きく矛盾している。2月8日に編集部員一同の声明とともに出したプレスリリースで小学館はこう説明している。
《『セクシー田中さん』の映像化については、芦原先生のご要望を担当グループがドラマ制作サイドに、誠実、忠実に伝え、制作されました》 では、実際に芦原さんと一緒に作品をつくって、彼女の作品を守りたいという意向を聞いていた現場の編集者たちは、どのように説明しているかというと、こんな感じだ。
《先生のご意向をドラマ制作サイドに伝え、交渉の場に立っていたのは、弊社の担当編集者とメディア担当者です。弊社からドラマ制作サイドに意向をお伝えし、原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき、ご意向が反映された内容で放送されたものがドラマ版『セクシー田中さん』です》
いかがだろう。表現を丁寧にしているだけで、会社の説明とほぼ同じ内容を繰り返しているだけだ。もちろん、企業不祥事が起きた際には、会社のスタンスと社員の発言を統一するというのは、企業危機管理の基本中の基本だが、今回はちょっと事情が違う。
現場の編集者たちが、作家や読者の不安を解消するために、自ら立ち上がって会社とけんかをしながら、自分たちで声を上げた――というのが大前提だ。だから、会社側と一語一句、同じことを説明していたら、その大前提が崩れて「なんだよ、結局、会社がやらせてるだけかよ」と疑り深い見方をされてしてしまう。
ならば、どうすればよかったか。これは編集者側がどんなに頑張っても限界がある話なので、経営陣側が「配慮」して、編集者側の声明に「自由度」を与えるべきだった。
例えば、芦原さんは小学館の編集者にどのような意向を伝えていたのか。「ご意向が反映された内容」であるはずのドラマに対して、なぜ芦原さんはあのような投稿をしたのか。その核心に少しでも近づくような新たな情報を一文でもいいので入れさせてやっていれば、世間の見方もだいぶ変わったはずだ。 もちろん、会社側からすればリスキーな決断だが、一方で編集者に対する不信感は軽減される。「ああ、この人たちは会社に言われてやっているんじゃなくて、本当に芦原さんたち作家のために立ち上がったんだな」と印象づけられる。それは長い目で見れば、小学館という企業にとっても大きなプラスにもなるはずだ。
● 現場が会社をかばっているような印象さえ与えてしまう
そこに加えて、次の《2.小学館のここまでの対応への苦言や今後の提言》がないということも「会社にやらされている」という印象を抱かせてしまっている。
編集者一同の声明を出すまで、小学館の対応には、多くの作家や読者から批判の声が上がっていた。そういう声を受けて、立ち上がったはずの編集者一同がそのような批判にまったく触れずスルーしているのは、かなり不自然ではないか。
1989年に朝日新聞のカメラマンがサンゴを傷つけて記事を捏造する事件が起きた時や、TBSがオウム真理教に対して、取材で得た坂本堤弁護士一家の情報を伝えていた問題などがあった時も、両社の社員から会社に対して納得のいく説明をすべきだという声があがっていた。しかし、今回は声明の中では会社に対する苦言は一切なく、《私たちが声を挙げるのが遅かった》という表現があるように、現場が会社をかばっているような印象さえ受けてしまう。
そう聞くと、「外野は黙ってろ!このメッセージを出すだけでも小学館の編集者たちは相当、上層部と闘ったんだ。その頑張りを認めてやるべきだろ」というお叱りの声が飛んできそうだが、筆者が言いたいのは、まさしくその頑張りが透けて見えてしまうということだ。
「社畜」という言葉があるように、日本のサラリーマンたちは、会社の方針に逆らったり、現場が何か自由に言いたいことを言えるわけがないという「現実」の中で生きてきた。今回の「声明」を見て、組織で頑張るサラリーマンたちはちょっと読めば、会社のスタンスに沿っていて、どういう組織内力学で作成された文書かはなんとなく想像がついてしまう。会社勤め経験のない学生などは「勇気のある反乱だ!」と感動するかもしれないが、組織人は「編集者さんも頑張ったけれど、まあ巨大組織にいりゃあこれが限界だよね」とシラけてしまう。だから、本当に「現場の覚悟」を示したかったのなら、会社に対して何かしらの苦言・意見・提言は入れてほしかった。
ただ、そのような要素よりも、今回の声明で絶対に入れてほしかったと筆者が感じているのは、《3.芦原さんに「申し訳ない」という気持ちの表明》である。 実は、あの声明には「芦原さんに申し訳ない」という謝罪の気持ちが書かれていないのだ。
● 芦原さんに対して「申し訳ない」とは言えない小学館と編集者一同
筆者はパワハラやセクハラ、あるいは過労死などが発生した企業の「声明」にもよく関わるが、そこでリーガルチェックと必ず揉めるのが、「被害を訴えた人」への言及だ。
少しでも「謝罪」を連想させることを発信してしまうと、「非を認めた」ということになって責任問題に発展する、と顧問弁護士や法務部は考えるので、そういう表現を徹底的に削除していく。もちろん、法律的な危機管理としては正しいのだろう。だが、コミュニケーションとしては最悪だ。「被害を訴えた人」の存在や訴えなどハナからこの世に存在していないかのような冷たい態度になってしまうからだ。
今回の小学館の対応も残念ながら、そういう「弁護士流危機管理」のアドバイスを受けている可能性が高い。小学館のプレスリリースには、芦原さんが亡くなったことに対してこう述べている。
《ご逝去に伴い、読者、作家、関係各所の皆様にご心配をおかけしていることを深くお詫びいたします。》 一見すると、何かしらの「謝罪」をしているような印象を受けるが、よく読んでいただきたい。深くお詫びをしているのは、「皆さんに心配をかけた」ということについてだけで、芦原さんが亡くなったことに対してではない。
そして、それはトンマナを合わせた編集者の声明も同じだ。こちらでは「謝罪」を思わせる表現は一切なく、唯一あるのは以下のような文章だ。 《いつも『プチコミック』ならびに小学館の漫画誌やwebでご愛読いただいている皆様、そして執筆くださっている先生方。私たちが声を挙げるのが遅かったため、多くのご心配をおかけし申し訳ありませんでした》
もうおわかりだろう。これも「会社のスタンス」と同じだ。「申し訳ない」は「読者と作家に心配をかけたこと」であって、芦原さんに対してではない。 「弁護士流危機管理」では、これは「正解」のコメントである。しかし、筆者のようなリスク・コミュニケーションのプロから見れば、やはり「悪手」だと言わざるを得ない。
確かに、会社は守れるが、芦原さんのご家族や関係者、ファン、そして真相を知りたい作家のみなさんからすれば、かなり他人事感が強い。「守られた」というよりも、「組織を守るために切り捨てられた」という印象を抱いてしまう。
● 組織のルールを守りつつ、芦原さんへの謝罪を表明する方法はある
では、どうすればいいか。「芦原さんの死」に対する責任問題を避けながら、申し訳ないという思いを伝える方法はいくつかある。例えば、謝罪の方面を変えて、責任の所在をぼやかす表現がある。
「芦原先生の作品を愛してくださったファンの皆様、私たち編集者がついていながら、芦原先生を守ることができずに申し訳ありません」
亡くなったことに対する法的な責任ではなく、編集者として、芦原さんという才能のある作家の尊厳や意志を守ることができなかった、という道義的な責任を素直に認める。そんなメッセージを「編集者一同の総意」として打ち出せば、「芦原さんのように何かあっても守ってもられないのでは」という作家やファンの不安や恐怖も、今よりも解消されるはずだ。
今回の声明に対して批判やダメ出しをしているわけではない。むしろ、危機管理広報のセオリーからすると非常にレベルが高い声明だ。会社側の説明から決して脱線することなく、訴訟リスクも回避しつつ、血の通った言葉で、読者や作家の感情に訴えている。筆者はプレスリリースの書き方講座なども行うが、広報やパブリックリレーションの視点を持つ「プロ」が関わっているのではないかと思うほどだ。
ただ、完成度の高い声明文なら「鎮火」できるというものでもない。筆者の経験では、そういう声明文の多くは、会社を守ることに夢中になるあまり、弱い個人の心や尊厳を無意識に踏みにじっているケースが多いのだ。企業危機管理を担当する人は、ぜひ心に留めておいていただきたい。
(ノンフィクションライター 窪田順生)
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「セクシー田中さん」相沢友子氏の本当の評判 原作クラッシャーでも“ご指名”されるワケ(2024年2月16日)
日本テレビ系昨年10月期ドラマ「セクシー田中さん」をめぐる一連の問題で、同作の脚本を務めた脚本家の相沢友子氏(52)に注目が集まっている。
相沢氏はSNS上でかねて「原作クラッシャー」と評されて疑問視されたが、フジテレビには重宝され、月9などで脚本を担当してきた。
その背景にあったのが、フジ上層部との蜜月関係だった。
相沢氏は「セクシー田中さん」の第1~8話の脚本を担当した。原作を描いた故芦原妃名子さんとは脚本をめぐり、見解の相違が明るみに出ている。8日にインスタグラムに芦原さんへの追悼と一連の問題に対する釈明の声明を発表。その後の動向は不明だ。
相沢氏はもともと日テレではなく、フジのドラマで脚本を担当。2008年の「鹿男あをによし」(主演・玉木宏)、13年の月9「ビブリア古書堂の事件手帖」(同・剛力彩芽)、22年の月9「ミステリと言う勿れ」(同・菅田将暉)など小説や漫画を原作としたドラマの脚本だった。
この3作では、キャラクターの性別やビジュアルが原作から変わったり、原作にない恋愛要素を入れたりしたことでSNS上で疑問視された。
それでも相沢氏はフジに重宝されてきた。背景にあったのが、フジ上層部との蜜月関係だった。事情を知るフジ関係者の話。
「相沢さんはフジ上層部にかわいがられました。愛嬌があり、取り入るのがうまいです。脚本には俳優や女優のセリフだけでなく、カメラ映りなどをト書き(キャストの動作などの指示書き)として書き込み、それにより俳優や女優の魅力をより引き出した。
これを目の当たりにした俳優や女優の所属事務所が大喜びし、『脚本は相沢さんで!』と指名してくるようになったんです」
一方で、相沢氏はドラマの現場スタッフとは距離があった。
「現場からは『相沢さんがなかなかあいさつしてくれない』とこぼす者、上層部との蜜月関係に嫌気が差してドラマの現場から離れる者が出てきました」(前出関係者)
フジのドラマで原作からの改変は大きな問題に発展しなかったが、「セクシー田中さん」は違った。芦原さんは原作漫画の第7巻(同年10月10日発売)に寄せたメッセージで「キャラやあらすじ等、原作から大きく逸れたと私が感じた箇所はしっかり修正させて頂いている」と明かしている。 「芦原さんは改変と戦ったんだと思っています。相沢さんはここまで抵抗されたのは初めてだったことでしょう」(同)
日テレは15日、声明を発表。「ドラマ制作部門から独立した社内特別調査チームを設置することにいたしました」と調査に着手するとした。
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ついに調査チーム設置 「セクシー田中さん」原作マンガとドラマを“徹底比較” なぜ日テレは「セリフがない4人の登場人物」を配役したのか(2024年2月16日)
ようやく日本テレビが動いた。ドラマ「セクシー田中さん」の原作者である漫画家の芦原妃名子さん(享年50)の急死を受け、2月15日、社内特別調査チームの設置を発表したのだ。テレビドラマ化に当たっての原作漫画の改変がクローズアップされているこの問題で、日テレは今後、何を調査し、何を明らかにすべきなのか。その課題を確認するため、私は改めてドラマと原作を徹底比較してみた。すると見えてきたのは、ある奇妙な事実だった。(元テレビ朝日法務部長・弁護士 西脇亨輔) 【写真を見る】ベリーダンサー姿でセクシーなポーズを決める木南晴夏
日テレは何を調査すべきなのか
1月29日の芦原さんの死から半月以上が経過してようやく決まった日テレの社内特別調査チーム設置。その発表文には「新たに外部有識者の方々にも協力を依頼した上、ドラマ制作部門から独立した社内特別調査チームを設置することにいたしました」と書かれている。
ではこの「社内特別調査チーム」は何を調査するべきなのか。発表文には「早急に調査を進め、真摯に検証し、全ての原作者、脚本家、番組制作者等の皆様が、より一層安心して制作に臨める体制の構築に努めてまいります」とあるのみで、調査対象が明示されていない。
このことを考えようとして、ふと思い当たった。これまでこの問題については多くのメディアで様々な意見や指摘が出されてきた。しかし実際にドラマ版『セクシー田中さん』と原作漫画を比較して両者の違いがどの程度かという事実を確認する作業、いわゆる「ファクトチェック」はあまり行われてこなかったのではないか。
そこで私は改めてドラマと原作漫画を比較してみることにした。ドラマは全10話、原作はコミック1~7巻と雑誌「姉系プチコミック」掲載の最新話をあわせると15幕(話)ある。これらの内容を一つ一つ見直した。 するとまず気付くのは、ドラマ版の内容は原作にかなり忠実になっているという事実だ。
原作には存在しない「4人の登場人物」
ドラマの1話から7話までは、多少順序の変更はあるが原作コミックの1巻から6巻途中までにほぼ忠実で、原作漫画の名シーンも多くが再現されていた。ドラマ8話以降は原作が未完のためオリジナルの要素が増えるが、コミック6巻後半以降の要素も多く反映されている。
こうしてみる限り、最終的に完成したドラマの内容は、原作者の意向がある程度形になったものだったのではないか。
しかしそうした形でドラマが完成するまでの「制作の過程」はどうだったのか。実は原作とドラマを比較する中で、ある違和感を覚えた。
おかしな役が、ある。
原作は主人公「田中さん」とこれを慕う後輩女性、そして周囲の4人の男性が軸となっている。それ以外の登場人物はあまり多くない。ところが番組の公式ホームページをみると「人物相関図」の中に見慣れない名前が4つ並んでいた。 「景子」「アリサ」「絵麻」「花梨」。ベリーダンス教室のクラスメイトで、「アクティブな性格でピラティス、ワイン教室にも通っている」「スーパーのレジ打ちのパートをしているが、子育てがひと段落ついた」などのキャラクター設定も掲載されている。そしてこれらの役には乃木坂46の元メンバー生駒里奈さんやファッションモデルなどの著名人が起用されていた。
「見せ場がない」人気俳優たち
これらのキャラクターは、原作には存在していない。
確かに原作漫画にもベリーダンス教室のクラスメイトは出てくるが名前はなく、セリフもほぼない(コミックス第1、3、4巻に短い一言があるだけだ)。ストーリーの展開にも関わっていない。
そのため基本的に原作に沿っているドラマ版でも出番は非常に限られていた。そのセリフの数を調べてみたが、短いセリフが1話に1~2個あるかどうかで、放送回によってはセリフが無い。もともとこの役には「見せ場」はないのだから、本来ならテレビ局側も著名人にはオファーを出さないはずだ。
それなのにドラマではオリジナルの役名が与えられ、人気俳優らが配役されている。なぜなのか。
私がテレビ局員だった頃の記憶から考えたのは、次のような可能性だ。 「原作者に『原作に忠実にする』と約束して映像化を許諾してもらうよりも前の時点で、テレビ局側は原作の改変ありきで勝手に役を作り、キャスティングをしてしまっていた」
この時もし俳優の芸能プロダクションから「原作にないキャラクターですけど、大丈夫なんですか」と質問されたら「いや、ここは脚本家に原作をふくらませてもらうんで大丈夫です」などと答え、製作が始まったら脚本家に原作をアレンジさせて俳優の出番を作り出せばいい。テレビ局のプロデューサー側はそう考えて、原作者の条件が決まる前に「見切り発車」した。
真相を知っているのはプロデューサー
しかしいざ脚本作りが始まってみると原作者が粘り強く脚本を原作に近づけ、その結果、原作にないキャラクターを割り当てられた俳優たちは出番を失い制作サイドの「見切り発車」に巻き込まれてしまったーー。そんな可能性はないだろうか。
もしそうだとしたら、プロデューサーがしたことは順番を間違えている。
本来であれば最初に原作者との間で条件を決め、その後に全てが動き始めなければならないはずだ。だがこれを無視してこっそり役を作りキャスティングを先行させれば、プロデューサー側は既成事実を作ることができる。そうすると外堀を埋められ独り残された原作者は、これを跳ね返すのが容易ではなくなる。それは原作者の泣き寝入りを狙うシステムのように思える。
そして芦原さんは作品を守るため、こうした企てと闘い続けたのではないか。
勿論これは、原作漫画とテレビドラマを改めて見比べてみた結果の単なる推測だ。真相は分からない。ドラマを製作したプロデューサーだけが、その真相を知っている。そしてそれこそが、今回の調査で明かされなければならないブラックボックスの一つではないか。
テレビ局の責任
このドラマを作る際、いつ、誰が、どのような作業を、どのような順番で行ったのか。そこに順番の間違いやボタンの掛け違いはなかったのか。結局、原作者にも俳優にも失礼な事態になっていなかったか。
今回必要なのは、プロデューサーからの聴取などによって時系列に沿ってドラマの製作過程を調査すること、そして原作者の意向が後回しにされることがなかったかを検証することだ。表面だけの事実確認でお茶を濁すことは許されない。
「セクシー田中さん」のコミックには多くの素晴らしい言葉が並んでいる。 「一つ一つは些細でも、たくさん集めると生きる理由になる」
そうした言葉を紡いだ芦原妃名子さんが亡くなってしまった。 その原因はどこにあるのか。それが明らかにされないままでは誰も前に進むことはできない。この悲劇を決して風化させてはいけない。日本テレビは今度こそ、本当の真相を、究明しなければならない。
西脇亨輔(にしわき・きょうすけ) 1970年10月5日、千葉・八千代市生まれ。東京大法学部在学中の92年に司法試験合格。司法修習を終えた後、95年4月にアナウンサーとしてテレビ朝日に入社。『ニュースステーション』『やじうま』『ワイドスクランブル』などの番組を担当した後、2007年に法務部へ異動。弁護士登録をし、社内問題解決などを担当。社外の刑事事件も担当し、詐欺罪、強制わいせつ罪、覚せい剤取締法違反の事件で弁護した被告を無罪に導いている。23年3月、国際政治学者の三浦瑠麗氏を提訴した名誉毀損裁判で勝訴確定。6月、『孤闘 三浦瑠麗裁判1345日』(幻冬舎刊)を上梓。7月、法務部長に昇進するも「木原事件」の取材を進めることも踏まえ、11月にテレビ朝日を自主退職。同月、西脇亨輔法律事務所を設立。