政府がPRする「マイナ保険証のメリット」はどこまで“真実”か
現行保険証の新規発行停止と「マイナ保険証への一本化」が12月2日に予定されている。この件について、利便性や情報セキュリティ等の面から様々な問題点が指摘されてきている一方、一本化の「メリット」を強調する見解も見受けられる。しかし、その中には事実・制度の不知や誤認に基づくものも根強く、政府の説明も、数値的根拠を含め十分とはいえない。
マイナ保険証の最新の利用率は?
それら「マイナ保険証のメリット」としてよく論じられる点について、早期からマイナ保険証についての問題提起を行い「マイナ保険証 6つの嘘」(せせらぎ出版)の著書がある、YouTuberの北畑淳也氏(哲学系ゆーちゅーばーじゅんちゃん)に聞いた。
不正利用防止の「メリット」は「費用対効果がマイナス」
北畑淳也氏(哲学系ゆーちゅーばーじゅんちゃん)
最近、最も強調されるようになってきたマイナ保険証の「メリット」は、「本人認証が厳格になるので、なりすまし等による不正利用を防止できる」というものである。
この点について、平将明デジタル担当大臣も、前任者の河野太郎氏も、客観的なデータの裏付けがないことを認めている。そこで、編集部で信頼できるデータを確認したところ、2023年5月19日の参議院の地方創生・デジタル特別委員会で、厚生労働省の担当者が「なりすまし受診」「健康保険証の偽造」などの不正利用の件数が2017年~2022年の5年間で50件だったと答弁していたことが確認された。これによれば「年平均10件」にすぎない。
また、一時期、ある著名インフルエンサーが、「保険情報の誤りや不正使用は年間600万件にも上っており、その処理のための経費は1000億円を越える」という情報を拡散して話題になった。しかし、その出典とみられる「保険証認証のためのデータ交換基準に関する研究(総括研究報告書)」には、上記記述の直後に「多くは単純な保険証番号の間違い」「資格停止後の保険証の利用も少なくない」と明記されていた。「なりすまし」等の不正利用には一切言及されていない。
そうであるにもかかわらず、一部では「潜在的な数値はもっとあるはず」「不正ができてしまうことが問題」などの指摘が見受けられる。これに対し、北畑氏は、「費用対効果の観点から明らかにマイナス」と説明する。
北畑氏:「不正を『ゼロ』にすることは物理的に不可能です。それをゼロにしようとすれば社会全体の便益が下がることを考慮する必要があります。
国の税収や財源は限られています。たとえば、納税申告のミスや軽微な『脱税』を完全に取り締まるために税務署の職員を100倍、1000倍にしない理由は、そのコストが社会全体の便益を奪ってしまうから以外に考えられません。
他にも『スピード違反』『食い逃げ』『万引き』もそうです。全件を漏れなく取り締まるのには膨大な社会的コストがかかります。いい意味での『諦め』があるからこそ社会は成り立っています。
健康保険証の不正利用についても同じことがいえます。
また、睡眠薬を大量に買い込んでいる人がたまに摘発されますが、そのほとんどは、保険者に診療報酬請求が行われた段階で『疑わしい』ということで発覚しています。
その上で重ねて『なりすまし』等の取り締まりを厳格にして、莫大な行政コストをかける意味は乏しいといわざるを得ません。
それでも、ここまでの話は『不正したい人間に加担している』との指摘を受けるかもしれません。しかし、『万引き』や『スピード違反』など他の領域にも適応している我々の道徳観を適応すれば良いというだけの話なのです」
なお、補足すると、マイナ保険証でも、顔認証ではなく4桁の暗証番号を用いた場合や、「被保険者資格申立書(※)」の使用をした場合に、なりすまし等の不正利用を防止できない等の指摘がなされている。
※転職等によりデータ登録が未了、機器のトラブル等の事情によりオンライン資格確認ができない場合に所定の事項を自己申告することにより保険証代わりに用いる書面
問題視すべきは「保険料を支払えない状況」
北畑氏は、「健康保険証の不正使用」よりも、むしろ、健康保険の保険料を「支払えない状況」にこそ目を向けるべきだと指摘する。
北畑氏:「この問題は『生活保護バッシング』と同根です。
不正使用で社会保険制度に『ただ乗り』している件数よりも、むしろ、社会保険料を払えないほどの貧困状態にある人や、経営状態が悪化している事業者のほうがはるかに多いことが想定されます。そのような実態にこそ目を向けるべきです」
この点について、東京商工リサーチの調査によると、2024年1月~10月の「税金滞納(社会保険料含む)」を一因とする倒産は155件(前年同期比121.4%増)に達している。その背景として、社会保険料の取り立て・差押えが厳しいことが指摘されている。
これらのデータからは、社会保険料の支払いに窮している人・事業者が多いことがうかがわれる。
効果が乏しい「健康保険証の不正使用へのペナルティー」
北畑氏は、不正が発覚した場合の「ペナルティー」の意義や効果も乏しいと指摘する。
所得がなくて、差し押さえるものすらない人が『なりすまし』等をして他人の健康保険証を不正使用する可能性はゼロではないでしょう。しかし、そういった人々を厳しく取り締まってペナルティーを課すことにどんな意味があるでしょうか。
保険料を取り立てようがありません。逮捕して刑務所等に収容したらこれまたコストがかかるという話もできてしまいます。
不正利用の防止に無尽蔵にリソースを割いていけば、結果的に医療費に跳ね返ってきます。社会保険制度の『コスト』の話をするならば、その程度の思考実験はした方がいいのではないかと考えます。マイナ保険証においてはすでに『医療DX推進体制整備加算(※)』という制度が作り出され、私たちの医療費に跳ね返るということも起きています」
※医療機関でのマイナ保険証の利用率等に応じて診療報酬・調剤報酬に加算をするしくみ
すでに「回収がきわめて困難なコスト」が生じている
次に、よくみられる意見として、マイナ保険証により「デジタル化」が進み、長期的にはコスト削減が期待できるというものがある。すなわち、「導入の際に多額の初期費用がかかることはやむを得ない」「長い目で見れば現行の健康保険証を残すほうがコストが大きい」というものである。
しかし、北畑氏は、そこには大きな誤解があると指摘する。
北畑氏:「民間企業で大きなプロジェクトを行う場合、投下資本を何年で回収できるかという『損益分岐点』を算出し、経営計画書等を提出し稟議を通す必要があります。しかし、マイナ保険証についてはそのような計算が行われていません。
厚生労働省は、2023年8月の『社会保障審議会医療保険部会』で、保険証を発行しないことで年間76億円程度(マイナ保険証登録者52%と想定)~108億円程度(同70%と想定)の『コスト削減』になるとの試算を示しました。しかし、これは保険証の発行コストの削減のみです。
その計算には、マイナ保険証を持たない人等に『資格確認書』を大量発行する際にかかる郵便料金の2024年の値上がり分、2023年補正予算で『マイナ保険証推進費』として計上された887億円、マイナポイント事業で予算執行された1兆3779億円、年間100億円単位でかかると想定されるマイナンバーカードシステムの運用費(※)等が含まれていません。
これらを考慮に入れると、すでに何十年かかっても回収の見込みが立たないことが明らかであり、費用対効果が見合いません。マイナ保険証を推進したいのであれば、コスト削減効果を強調するのはかえってマイナスになると考えられます。
『初期にコストがかかっても仕方がない』という論法はマルチ商法の勧誘と同じです。民間企業と同じ理屈で考えたときに、あり得ない話をしています」
※参照:朝日新聞デジタル2022年11月14日記事
改善されない「トラブルの発生状況」と「回避困難なトラブル」
新しい仕組みを導入する際の常として、「最初から完璧を求めるのは無理。とりあえず導入して改善していけばいい」という意見もある。しかし、北畑氏は、状況は当初より改善するどころかむしろ悪化していること、改善が構造的に困難であることを指摘する。
北畑氏:「全国保険医団体連合会(保団連)のアンケート調査(※)によると、マイナ保険証が導入されて2年になりますが、トラブルは減るどころかむしろ増加しています。トラブルの内容は変わり映えせず、事態がいっこうに改善されていないことがうかがわれます。
ところが、トラブルにどう対応するか、いつ改善するかというロードマップすら示されていません。
また、マイナンバーカードが期限切れになったのに気づかずに使用してトラブルになるケースが増えています。マイナンバーカードには2つの期限があり、カード自体の期限が『10年』で、『電子証明書』と呼ばれるe-Taxやマイナ保険証などなんらかのシステムサービスを使う際に用いる認証ソフトの期限が『5年』となっています。
加えて、2020年に『マイナポイント』を目当てにマイナンバーカードを作った2000~3000万人が、2025年に一斉に電子証明書の期限を迎える『2025年問題』があります。それに伴い、医療現場で資格確認ができないなどのトラブルが増えることが予想されます。
直近の調査でもすでにその兆候が見られており、先行してポイント目当てで登録したユーザーが資格確認をできないとの数値が出始めています。
平デジタル担当大臣は、マイナカードの期限が切れることを通知するアプリを作ると発表していますが、『いくらお金を使えば気が済むのか』という話です」
※参照:全国保険医団体連合会「5月以降のマイナ保険証トラブル調査」
たしかに、マイナンバーカードの仕組みは、そもそも健康保険の仕組みと整合するように作られてはいない。したがって、その構造に起因するトラブルの解決は困難を極め、多額の費用と人手が費やされることが想定される。
「医療情報の速やかな共有」等はマイナ保険証と“無関係”
政府は「医療情報の速やかな共有」を「マイナ保険証の効果」としてPRしている。しかし、北畑氏は、それがマイナ保険証による便益ではないという事実を指摘する。
北畑氏:「医療情報の共有は、『電子カルテ』『電子処方箋システム』が普及することによって実現するものです。
マイナ保険証のメリットでもなく、現行の健康保険証のデメリットでもありません。
マイナ保険証とは何の関係もありません」
※参照:厚生労働省「電子処方せんはどうやって使うの?」
他にも、マイナ保険証による「システムの簡素化、ネットワークの構築等」を急がなければ、世界の潮流、経済発展から取り残されるとの意見がある。たとえば、日本では新薬の承認が遅く、海外からの評価が下がっており、先進国が行うグローバル試験(国際共同治験)の対象から外れているなどの弊害があるとする意見などがみられる。
これらについて、北畑氏は「マイナ保険証の是非とは本質的に無関係な議論」と述べる。
北畑氏:「現に、他の先進国ではマイナ保険証のような一元化のシステムは導入されていません。
また、そもそも、日本の健康保険制度の成り立ちや前提自体が、マイナ保険証の制度を導入する際に参考としたエストニア(※1)や台湾(※2)とまったく異なります。
エストニアも台湾も、国が一括で保険証を管理しています。これに対し、日本では、会社員の健康保険を企業ごとに管理しているので、マイナ保険証にしても、社保であれば転職に伴う切り替え等の手続きに時間がかかります。また、国保であれば引っ越した際に保険証の切り替えで同様の問題が起きます。実際はマイナの方が現行の保険証よりも切り替えに時間がより長くかかるようですが。
『効率化』に徹するならば、エストニアや台湾のように国が一元的に管理する方式しかないかもしれません。これはかなり地道で労力のかかるものであることは言うまでもありません。
それなのに、見てくれだけ真似をして『保険証をマイナンバーカードに統合すればどうにかなる』と考えていたのではないか、と私は疑っています。
『効率化』を重視するならば、健康保険証と呼ばれる『紙・プラスチック』を使うのか、マイナ保険証という『プラスチック』を使うのかは本質ではないのです。『デジタル化』という表面上の『見てくれ』に惑わされるべきではありません」
※1:エストニアでは全国民に公的な身分証明書(国民IDカード)が発行され、健康保険証として利用できる
※2:台湾では健康保険証(全民健康保険ICカード)に身分証明書番号と写真が記載され、健康保険に関する情報が保存されたチップが内蔵されている(身分証明書とは別)
政府がPRする「マイナ保険証のメリット」の“変遷”が意味するもの
北畑氏は、「お金の話にこだわる割に、客観的な数値を見ず、緻密な議論をしようともしない態度は問題です」と述べた。
たしかに、政府のPRのあり方も含め、マイナ保険証の「メリット」とされる点については、客観的な数値に基づく議論よりも、むしろ「デジタル化」「医療DX(※)」という言葉がもつ“イメージ”に引きずられたイデオロギー的・観念的な議論が先行してきた面があることは否定できないだろう。
※保健・医療・介護の各段階で発生する情報やデータを、クラウドなどを通して、業務やシステム、データ保存の外部化・共通化・標準化を図り、より良質な医療やケアを受けられるように、社会や生活の形を変えること(出典:厚生労働省)
現に、政府は当初「デジタル化」「医療DX」のメリットを強調していたが、最近はそれらよりも、むしろ「なりすましによる不正利用防止」のメリットを強調するようになってきている。態度が二転三転していると評価されてもやむを得ないだろう。
他方で、現状指摘されている「現行保険証の廃止、マイナ保険証への一本化」の問題点の多くは、現行の保険証を廃止せず、存続させることで解決する。
現行の健康保険証の新規発行停止・マイナ保険証への一本化の施行は12月2日に迫っている。こうしている間にも医療の現場でトラブルが発生していること、また「2025年問題」などトラブルが予測されることは、いずれも「現実」である。現実を直視しないイデオロギーや観念論・精神論を先行させた国家・プロジェクトがどのような結末を迎えるかは、歴史が証明している。国会・政府には、現実を直視した冷静な対応が求められよう。
弁護士JP編集部