● 皇室を支えるシステムとして 考案された華族制度
制度づくりにあっては、西洋の貴族制度も参考にされたが、たとえば、フランスでは人口の1%くらいが貴族だから、日本でいえば、100石くらいの武士と同じくらいであり、日本の華族ほどの希少価値はない。
むしろ、豊臣秀吉の時代に武士に次々と官位を与えて、公家と武家とを並列で序列化したときの構想を復活させたといってもよいだろう。あるいは、ナポレオンが皇帝の時に、部下たちに公爵や伯爵の爵位を与えて、伝統貴族と同格にしたのに倣ったともいえる。
● 各国の制度を比較検討して 巧妙に作り上げた制度
この制度を考案する中心になったのは、太政官制の下でナンバー2としての右大臣だった岩倉具視であるが、その経緯などについては、『日本の上流階級』(清談社Publico)という拙著で詳しく紹介し、また、詳細なリストも付したので、より詳しく知りたい方は参照してほしい。
日本の爵位の付け方は、ヨーロッパのどこかの国の制度をそのまま輸入したのでなく、各国の制度を比較検討して巧妙に作り上げた。
爵位は、公爵(英語でデューク、フランス語でデュック)、侯爵(マルキ)、伯爵(アール、コント)、子爵(ヴァイカウント、ヴィコント)、男爵(バロン)の五段階である。ただし、公爵はプリンスと訳していたこともあるようだ。
ただし、華族制度は、廃藩置県以前の1869年に発足しているが、爵位は1884年に発足したもので、その年に死んだ岩倉具視の置き土産のようなものだった。国会開設に備え、貴族院をつくる必要から生まれたものともいえる。
● 爵位の基準をめぐり 大ブーイングも
いろんな経緯があったが、1884年に制度が発足したときには、だいたい、次のような扱いになったため、大ブーイングが起きた。
ここで物議を醸したのは、江戸時代に普通に使われていた表高でなく、「現米」という実収入を基準にしたことであった。表高はだいたい江戸初期の検地で収穫高とされたものが基本的には幕末まで維持されていたので、江戸時代に新田開発が進んだところは実収との差が大きかった。
この結果、30万石以上でも津藩の藤堂氏は伯爵だが、21万石の秋田藩佐竹氏は侯爵だった。また、戊辰戦争で減封された後の石高だったので、25万石になっていた仙台藩伊達家は伯爵、会津藩松平家は斗南3万石扱いだったので子爵にとどまった。だが、ほかの藩には結果的にだが影響は出なかった。秋田の佐竹氏が官軍だったので、東北でただひとつの侯爵となったと信じている人が多いが、それは邪推にすぎない。
● 明治維新やその後の 功績による格上げや叙爵も
御三家や御三卿(田安・一橋・清水は伯爵)のような徳川一族は優遇されて不満を封じられたが、旗本は室町時代の名門の子孫である高家のように官位が高い者でも対象とされなかった。武力がないから、慰撫する価値がなかったのである。
一方、明治維新やその後の功績による勲功による本来の家格からの格上げや、叙爵も多かった。格上げについては、三条、岩倉、島津、毛利が公爵に、中山忠能(明治天皇の外祖父)、木戸、大久保が侯爵となった。また、東久世、黒田清隆、大木、寺島、山県、伊藤、井上、西郷従道、川村、山田、松方、大山、佐々木、広沢は最初から伯爵となった。
● その後の功績などにより 爵位が格上げされるケースも
爵位に不満を唱えた人々のなかには、その内容がもっともな者や、その後の功績などにより、格上げを意味する「陞爵(しょうしゃく)」された者もいる。
たとえば、越前松平が侯爵にとか、伊藤博文が侯爵、ついで公爵に昇進したとかいった具合である。この措置は、昭和になっても続き、水戸徳川は「大日本史」編纂の功績で公爵になっているし、幣原喜重郎は外相としての功績で男爵になっている。
徳川慶喜は子が徳川分家の資格で男爵になっていたが、東京に住み参内することを条件に、本人が徳川宗家とは別家の公爵となった。島津久光も長男が斉彬の養子として公爵だったが、自分も別家を立てて公爵(玉里家。その御曹司が佳子さまのお相手候補として話題になった)となった。
日韓併合に際しては、皇帝は皇族に準じるとされたが、これは、国際的常識からしても、非常なる厚遇だった。また、76人の朝鮮人が侯爵以下の爵位を与えられ、朝鮮貴族と呼ばれた。台湾には叙爵された者はいないが、貴族院議員にはなっている。
新憲法の下では、華族制度は廃止された。昭和天皇は、旧公家だけでも残せないかと希望された。古代から皇室と公家は一体だったし、摂関家などは、宮家より上位だったということもあり、申し訳ないという気持ちがあったようだ。しかし、これは聞き入れられなかった。
フランスやドイツでは君主制は廃止されたが、貴族は健在だ。しかし、公的に使われることは減った。フランスでは1974年に大統領となったヴァレリー・ジスカールデスタンが、エリゼ宮のイベントへの招待状に爵位を記すのを廃止した。しかし、紳士録などには堂々と爵位が書かれている。
一方、日本では、法律で禁止されてはいないが、旧華族でもなんとか伯爵などと名乗る人はいない。ただし、旧華族会館が霞会館と名を変えて存続しており、その会員であることが爵位の継承者であると認証されたことを意味している。
戦後は新たな叙爵がされていないから、増えるとしたら旧宮家の次男坊などを分家として例外的に新規会員に認めているだけのようだ。絶家になるところも多いし、また、経済力を維持できない旧華族も多いようだが、文化的な伝承においては一定の役割を担っている。また、皇室をバックアップするような機能をもっと積極的に果たしてもらうべきという意見もある。
(評論家 八幡和郎)