愛子さま・佳子さまの「お相手候補」で注目の旧華族はなぜ生まれた?「爵位」めぐり大ブーイングも(2024年10月6日『ダイヤモンド・オンライン』)

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上皇ご夫妻の卒寿を祝う音楽会に出席した、天皇、皇后両陛下の長女愛子さま秋篠宮ご夫妻の次女佳子さま=7月10日、皇居・東御苑の桃華楽堂(代表撮影) Photo:SANKEI
● 皇室を支えるシステムとして 考案された華族制度
 愛子さま・佳子さまのお相手候補として、旧華族が脚光を浴びている。
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 華族というのは、戦前の日本にあった制度である。明治維新の後、伝統的な公家だけでなく、旧大名家や維新の功臣の子孫に藩屏として皇室を支えさせるシステムとして考案されたものだ。
 制度づくりにあっては、西洋の貴族制度も参考にされたが、たとえば、フランスでは人口の1%くらいが貴族だから、日本でいえば、100石くらいの武士と同じくらいであり、日本の華族ほどの希少価値はない。
 むしろ、豊臣秀吉の時代に武士に次々と官位を与えて、公家と武家とを並列で序列化したときの構想を復活させたといってもよいだろう。あるいは、ナポレオンが皇帝の時に、部下たちに公爵や伯爵の爵位を与えて、伝統貴族と同格にしたのに倣ったともいえる。
● 各国の制度を比較検討して 巧妙に作り上げた制度
 この制度を考案する中心になったのは、太政官制の下でナンバー2としての右大臣だった岩倉具視であるが、その経緯などについては、『日本の上流階級』(清談社Publico)という拙著で詳しく紹介し、また、詳細なリストも付したので、より詳しく知りたい方は参照してほしい。
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 日本の爵位の付け方は、ヨーロッパのどこかの国の制度をそのまま輸入したのでなく、各国の制度を比較検討して巧妙に作り上げた。
 爵位は、公爵(英語でデューク、フランス語でデュック)、侯爵(マルキ)、伯爵(アール、コント)、子爵(ヴァイカウント、ヴィコント)、男爵(バロン)の五段階である。ただし、公爵はプリンスと訳していたこともあるようだ。
 ただし、華族制度は、廃藩置県以前の1869年に発足しているが、爵位1884年に発足したもので、その年に死んだ岩倉具視の置き土産のようなものだった。国会開設に備え、貴族院をつくる必要から生まれたものともいえる。
 どのような基準で爵位を与えるかにあっては、公家、武家、勲臣をどうバランスを取るか問題だったし、それぞれの区分のなかで何を基準にしてランクを決めるのかも難しかった。
● 爵位の基準をめぐり 大ブーイングも
 いろんな経緯があったが、1884年に制度が発足したときには、だいたい、次のような扱いになったため、大ブーイングが起きた。
 公家については、家柄で五摂家が公爵、太政大臣などにもなれる清華家が侯爵、大納言になれる以上の家が伯爵といったことを基本にした。
 大名では島津、毛利、徳川宗家の三家が公爵、徳川御三家と「現米15万石以上」が侯爵、御三卿と現米5万石以上が伯爵、そして、ほかの大名は子爵だが、明治維新後に滑り込みで大名になった家は男爵だった。
 ここで物議を醸したのは、江戸時代に普通に使われていた表高でなく、「現米」という実収入を基準にしたことであった。表高はだいたい江戸初期の検地で収穫高とされたものが基本的には幕末まで維持されていたので、江戸時代に新田開発が進んだところは実収との差が大きかった。
 この結果、30万石以上でも津藩の藤堂氏は伯爵だが、21万石の秋田藩佐竹氏は侯爵だった。また、戊辰戦争で減封された後の石高だったので、25万石になっていた仙台藩伊達家は伯爵、会津藩松平家は斗南3万石扱いだったので子爵にとどまった。だが、ほかの藩には結果的にだが影響は出なかった。秋田の佐竹氏が官軍だったので、東北でただひとつの侯爵となったと信じている人が多いが、それは邪推にすぎない。
 彦根藩は、桜田門の変で殺害されたのを病死と届けたのが文久の政変後にとがめられ、10万石減封されたため、伯爵となった。
 また、琉球王家と対馬の宗氏は、対外関係への配慮でそれぞれ優遇されて、侯爵、伯爵とされた。ただ、この基準は公開されなかったので、不満が渦巻いた。
● 明治維新やその後の 功績による格上げや叙爵も
 武家では一万石以上の家老も、華族としての品位維持をできる経済力があるならということで男爵にされた。たとえば、加賀藩では11家、岡山藩では6家というように認められている。
 御三家や御三卿(田安・一橋・清水は伯爵)のような徳川一族は優遇されて不満を封じられたが、旗本は室町時代の名門の子孫である高家のように官位が高い者でも対象とされなかった。武力がないから、慰撫する価値がなかったのである。
 このほか、有力社家や本願寺の大谷家も華族とされた。また、山名家や菊池家のような南朝関係者らの復権もあった。
 一方、明治維新やその後の功績による勲功による本来の家格からの格上げや、叙爵も多かった。格上げについては、三条、岩倉、島津、毛利が公爵に、中山忠能明治天皇の外祖父)、木戸、大久保が侯爵となった。また、東久世、黒田清隆、大木、寺島、山県、伊藤、井上、西郷従道、川村、山田、松方、大山、佐々木、広沢は最初から伯爵となった。
● その後の功績などにより 爵位が格上げされるケースも
 爵位に不満を唱えた人々のなかには、その内容がもっともな者や、その後の功績などにより、格上げを意味する「陞爵(しょうしゃく)」された者もいる。
 たとえば、越前松平が侯爵にとか、伊藤博文が侯爵、ついで公爵に昇進したとかいった具合である。この措置は、昭和になっても続き、水戸徳川は「大日本史」編纂の功績で公爵になっているし、幣原喜重郎は外相としての功績で男爵になっている。
 制度発足後に軍人、政治家、官僚、財界人や華族の分家などで叙爵した者もある。たとえば、井上毅渋沢栄一、浜岡新は子爵、北里柴三郎、岩崎、三井、鴻池、住友らは男爵といった具合だ。
 大隈重信板垣退助は、制度発足時は野に下っていたので爵位がもらえなかったが、のちに政府の懐柔策の一環で伯爵になった(大隈は後に侯爵)。
 徳川慶喜は子が徳川分家の資格で男爵になっていたが、東京に住み参内することを条件に、本人が徳川宗家とは別家の公爵となった。島津久光も長男が斉彬の養子として公爵だったが、自分も別家を立てて公爵(玉里家。その御曹司が佳子さまのお相手候補として話題になった)となった。
 旧宮家の次男以下が侯爵や伯爵になったものもいて、賜姓華族という(拙著『系図でたどる日本の皇族』参照)。
 日韓併合に際しては、皇帝は皇族に準じるとされたが、これは、国際的常識からしても、非常なる厚遇だった。また、76人の朝鮮人が侯爵以下の爵位を与えられ、朝鮮貴族と呼ばれた。台湾には叙爵された者はいないが、貴族院議員にはなっている。
● 霞会館の会員であることが 爵位の継承者である証し
 新憲法の下では、華族制度は廃止された。昭和天皇は、旧公家だけでも残せないかと希望された。古代から皇室と公家は一体だったし、摂関家などは、宮家より上位だったということもあり、申し訳ないという気持ちがあったようだ。しかし、これは聞き入れられなかった。
 いわゆる旧宮家を皇族から離脱させたのには、GHQの意向だけでなく、昭和天皇のそういう気持ちも理由としてあると思う。
 海外では、イギリスのように君主制がある国では、貴族も健在であるが、新たに臣民に叙爵を行うことは、1984年にハロルド・マクミラン元首相がストックトン伯爵となったのが最後だ。
 フランスやドイツでは君主制は廃止されたが、貴族は健在だ。しかし、公的に使われることは減った。フランスでは1974年に大統領となったヴァレリー・ジスカールデスタンが、エリゼ宮のイベントへの招待状に爵位を記すのを廃止した。しかし、紳士録などには堂々と爵位が書かれている。
 一方、日本では、法律で禁止されてはいないが、旧華族でもなんとか伯爵などと名乗る人はいない。ただし、旧華族会館霞会館と名を変えて存続しており、その会員であることが爵位の継承者であると認証されたことを意味している。
 戦後は新たな叙爵がされていないから、増えるとしたら旧宮家の次男坊などを分家として例外的に新規会員に認めているだけのようだ。絶家になるところも多いし、また、経済力を維持できない旧華族も多いようだが、文化的な伝承においては一定の役割を担っている。また、皇室をバックアップするような機能をもっと積極的に果たしてもらうべきという意見もある。
 (評論家 八幡和郎)