「思い出すと胸がじーんとなる」 暗闇の中、海へ落ち3日間漂流した9歳 一緒に乗船した兄亡くす 疎開船「対馬丸」撃沈から80年(2024年8月22日『沖縄タイムス』)

[のみこまれた未来 対馬丸撃沈80年](1)
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比屋根安忠さんの遺影を手に「優しい兄でした」と思い出を語る松永和子さん=7日、福岡市内
 福岡市内の自宅マンションの仏壇には、あどけない表情の男の子の写真がある。比屋根安忠(やすただ)さん、享年12歳。
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鹿児島県・悪石島近海で深海探査機が撮影した「対馬丸」の船体
 那覇市出身の松永(旧姓・比屋根)和子さん(89)は、その遺影に水や線香を供え、手を合わせるのが日課だ。「思い出すと胸がじーんとなる」。9歳だったあの日、2学年上の兄安忠さんと一緒に「対馬丸」に乗り、一人生き延びた。時折、顔をゆがめながら80年前の体験を振り返った。「私もあと何年生きられるか分からないからね」
 1944年8月21日早朝。松永さんは「忠(ただ)兄さん」と呼んで慕っていた安忠さんに手を引かれ、那覇市久米町の自宅から那覇港へ向かった。当時、甲辰国民学校4年生。母が縫ってくれたお気に入りの花柄のワンピースを身に着け、リュックにはもんぺや黒砂糖、あめを入れていた。「旅行にでも行くような、うきうき気分でした」
 埠頭(ふとう)に集合した子どもたちは強烈な日差しの下、乗船を待った。夕方になり小型船で沖合に停泊する対馬丸へ。兄とは船内の別の場所に割り当てられ、離れ離れになった。
 翌22日、一人の大人がこう呼びかけた。「今夜は危ないから救命具を着て甲板に上がっておきなさい」。台風接近の影響か波が高く、船酔いした松永さんは、同級生と別れて船倉で横になっていた。
 午後10時過ぎ。「魚雷1発」と大声が響いたかと思うと、間もなく2発目のアナウンス。船が大きく揺れ、電気が消えて真っ暗闇の中、逃げ惑う人々に踏まれ、蹴られながら、船尾から照らされたサーチライトの光を頼りに進んだ。縄ばしごに足をかけた時、「魚雷3発」の声が聞こえた。
 甲板に上がった松永さんは強い力で押され10メートルほど下の海に落ちた。海面に顔を出した時には船の姿はなく、いかだに乗った船員らしき男性に引きあげられた。
 魚雷命中から沈没までわずか10分ほどだった。周囲には、散乱した荷物や木材につかまり子やきょうだいの名前を叫ぶ人たち。そのうち大波が来て、人も物ものみ込み、静けさが広がった。(社会部・當銘悠)
 学童や一般住民ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が米軍に撃沈され、約1500人が未来を奪われてから22日で80年。政府が「台湾有事」を念頭に住民避難計画を進めるなど、再び訪れた「戦争前夜」の空気の中、生存者や遺族たちの思いをたどる。
■「トラウマで、水が怖いんです」
 「サメに襲われたらどうしよう」「忠(ただ)兄さんが助かってたらいいな」「お父さん、お母さんは元気かな」。対馬丸が撃沈された80年前、いかだに乗った松永和子さん(89)は漂流中、そんなことを考えていた。
 意識が薄れる中、一緒にいた大人から「寝たら死ぬぞ」と忠告された。波間を漂うこと3日目、救助船に発見された。
 鹿児島県内の病院に運ばれた後、旅館で1カ月ほど過ごした。厳重な箝口(かんこう)令が敷かれ、周囲から「対馬丸が沈没したことは絶対言うな」と念を押された。
 近くの海岸に遺体が流れてきたと聞けば、兄の安忠さんではないことを願って浜へ急いだ。唇が紫になり、顔が膨れた遺体。「この洋服、見たことがある。うちの同級生かもしれない」と思って以降は、怖くて行けなくなった。
 その後は宮崎県内にある女学校の寄宿舎で生活。ある日、先生に「あなたの学校から助かったのはあなた一人よ」と言われ、兄の死を悟った。「泳ぎが得意だったから、どこかにたどり着いていると思っていたのに」-。目の前が真っ暗になった。
 対馬丸事件から2カ月後の10・10空襲で、那覇市の実家が焼失。年が明けた1945年2月ごろ、両親と妹が大分県疎開し、家族4人の暮らしが始まった。再会した父は「助かってくれてありがとう。安忠はかわいそうだった」と声を振り絞った。
◇ ◇
 中学卒業後は「人のためになることを」と思い、看護師の道に進んだ。大分や福岡の病院勤務を経て59年、愛知県の病院に勤めている時に超大型の伊勢湾台風に見舞われた。院内も浸水し恐怖に襲われる中、懸命に避難誘導に当たった。
 福岡に戻り結婚後、4子を授かってもプールには一度も連れて行けなかった。「対馬丸のことがトラウマで。波、水が怖いんです」
 2002年、娘に誘われて戦後初めて沖縄を訪れ、対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」に足を運んだ。碑に刻まれた兄の名前をなでながら、涙がこぼれた。2年後、対馬丸記念館ができた年にも「忠兄さんに会いたい」との一心で再び沖縄へ向かった。
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 館内に掲げられた兄の遺影は、自宅にあるものと同じ。母が10・10空襲の中、胸に抱いて守った1枚だった。「つらかっただろうな」「助かって申し訳ない」。兄への思いがあふれ出た。
 塔は建立70年、記念館は開館20年を迎える。対馬丸事件を語れる人は年々少なくなっているが「多くの子どもたちが亡くなったこと、戦争の悲惨さ、平和のありがたさを伝える場であり続けてほしい」と望む。
 「もう一度、沖縄に行きたい」。記念館の遺影や塔の刻銘を見て、兄を感じることが90歳を前にした今の願いだ。
 娘たちには、自分が亡くなったら対馬丸が沈められた鹿児島県の悪石島の近くに散骨してほしいと伝えてある。「みんなと一緒に眠りたい」と、兄や友を思い続けている。(社会部・當銘悠)