第1通報者の犯人視「捜査の目がオウムに向かないと思った」 古参幹部で実行犯の受刑者 【松本サリン事件30年】(2024年6月12日『信濃毎日新聞』)

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倒れた住民を運ぶ救急隊員ら=1994年6月28日午前1時50分ごろ、松本市北深志
 オウム真理教が1994年6月に起こした松本サリン事件の実行犯の1人で無期懲役判決を受けて服役中の中村昇受刑者(57)が11日までに身元引受人の中谷友香さん(東京)を通じて信濃毎日新聞の取材に応じ、事件当日の状況や現在の心境を詳しく語った。サリン噴霧後に自身も中毒症状に陥ったと明かし、第1通報者の河野義行さんが犯人視されたことを巡っては「心の中では気の毒だと思うと同時に、捜査の目がオウムに向くことがないとも思った」と振り返った。
 中村受刑者は山口県出身で教団前身のヨガサークル「オウム神仙の会」当時からの古参幹部だった。松本サリン事件では松本市北深志のサリン噴霧現場に警備役として同行。95年2月の目黒公証役場事務長仮谷清志さん拉致事件などにも関わった。一審東京地裁で死刑を求刑されたが2001年5月に無期懲役判決を受け、06年9月に確定した。
 取材は今月4、5日にそれぞれ30分ずつ西日本にある刑務所内で中谷さんに聞き取ってもらった。松本サリン事件に警備役として加わった状況などを詳しく尋ねた。
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中谷さんが聞き取った中村受刑者の言葉のメモ
 中村受刑者によると、事件当日の6月27日、他の実行犯6人とともに山梨県上九一色村富士ケ嶺地区(現富士河口湖町)にあった教団施設を出発。当時はサリンの存在すら知らず、教団の拠点があった東京・亀戸で93年に起きた異臭騒ぎと同じように「くしゃみが出るなどの嫌がらせをするという認識」だった。
 事件の重大さは事件後に他の実行犯から新聞を渡されて知った。「ぼうぜんとして何も考えられなくなった。ボツリヌス菌など(を使う)『最終戦争』に備えているのだと思い、何とか修行に結び付けようとしていた」
 中村受刑者の記憶だと、当初、河野さんが犯人視されたことについて、ほくそ笑んでいた実行犯もいたという。
 瞳孔が小さくなる縮瞳などの中毒症状は自分自身にも起きた。現場に行った車のナンバープレートの掃除を別の実行犯から頼まれ、頭にビニールをかぶっただけの軽装で水をまいた。この際に「息ができなくなり、目の前が真っ暗になった」という。
 治療は受けず、事件発覚後に逃走した際にも息苦しさを感じたという。「サリンと知っていれば治療薬を注射してほしいとお願いした」と話した。(馬場響)
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[松本サリン事件] 1994年6月27日深夜、松本市北深志の住宅街でオウム真理教幹部らが猛毒の化学物質「サリン」を噴霧。死者は8人、重軽症者は約600人に上った。県警は容疑者不詳の殺人容疑で第1通報者宅を捜索したが、95年3月20日の地下鉄サリン事件後、警視庁などは松本サリン事件も教団の犯行と断定。教祖で2018年7月6日に死刑執行された松本智津夫元死刑囚=執行時(63)、教祖名麻原彰晃=の確定判決によると、地裁松本支部で判決が迫っていた教団松本支部道場の土地明け渡し訴訟を妨害し、製造したサリンの効果を試そうと近くの裁判官官舎を狙ったとされる。実行犯は7人で、このうち4人が死刑となった。
 
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オウム新実元死刑囚、帰依捨てたか 「僕は教祖に…」 日記に記した最期の告白【松本サリン事件30年】(2024年6月9日『信濃毎日新聞』)
 
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妻由紀さんが見せてくれた新実元死刑囚の手紙。死刑執行直前に、近況や由紀さんへの感謝をつづっていた
 オウム真理教の元幹部で1994年6月の松本サリン事件の実行犯、新実智光元死刑囚=執行時(54)=が2018年7月の死刑執行前、教祖松本智津夫元死刑囚=執行時(63)、教祖名麻原彰晃=への帰依から抜け出していたとみられることが8日、新実元死刑囚の妻由紀さん(46)=大阪市=への取材で分かった。「尊師(松本元死刑囚)の直弟子」を公言した新実元死刑囚が帰依を捨てていたとすれば「カルトの悲劇を少しでも減らす力になる」と専門家は話す。一方で最後まで反省や謝罪はなかった新実元死刑囚の刑の執行のタイミングが適切だったのか疑問も投げかけている。
 ■専門家「カルトの悲劇、少しでも減らす力に」
 事件から30年を前にした5月下旬、由紀さんが信濃毎日新聞の取材に応じ、新実元死刑囚が死刑執行直前に「僕は教祖にはついていかない、来世は弟子になることはないだろう」と日記に書き残していたと明かした。
 由紀さんによると、日記は死刑執行後に拘置所から実家に届いた。前段には「今、尊師と由紀どちらを選ぶかと言われたら迷うことなく由紀を選ぶ、あの様な生き方だけでなく、もっと他の生き方もあったのではないだろうか」と書いてあった。
 一方、長年接見してきたが、松本サリン事件への直接の言及はなかったという。新実元死刑囚は一連の事件の被害者に対して「自分は祈るのみ」と考えていたという。
 新実元死刑囚は松本、地下鉄両サリン坂本堤弁護士一家殺害など11事件に関与。計26人に対する殺人罪などに問われ、10年2月に死刑が確定した。長く東京拘置所に収監された後、18年3月に大阪拘置所に移送。裁判では「麻原尊師の唱えた計画のため捨て駒になり、地獄へでも行こうと決意した」と陳述していた。
 信者の脱会活動を長年続けてきた滝本太郎弁護士(67)は新実元死刑囚が教祖への帰依から抜けたとみられることについて「とても貴重な話で、この思いに至る過程も知りたい」と話す。
 滝本弁護士は「オウムでは『真理の教え』として現世だけでなく死後も教祖についていく考えが当然だった」と指摘。「最晩年に松本元死刑囚を『最終解脱者』と捉えることをやめたのであれば、それは『麻原彰晃』を今も信じる人を減らす力になり、遺族の心が安らぐ助けにもなるはずだ」としている。
 松本元死刑囚や新実元死刑囚ら計13人の死刑は18年7月に2回に分けてまとめて執行された。新実元死刑囚が教祖への帰依を捨てていたとみられることも踏まえ、滝本弁護士は「弟子の12人は全員生かしたかった。松本元死刑囚の死後、12人は必ずや変わっていくはずだった。とても残念だ」と話した。
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 94年6月27日深夜、松本市北深志で教団幹部らが化学物質サリンを噴霧し、8人が死亡した松本サリン事件の実行犯だった新実元死刑囚は、89年11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、95年3月の地下鉄サリン事件にも関わっていた。
 一連の事件について由紀さんは、松本元死刑囚の指示だったとはいえ、新実元死刑囚にも責任が「ある」と考えている。ただ、刑の執行前に新実元死刑囚が教祖への帰依を捨てたとみられる事実も知ってほしいと考えている。
(青木信之)