#戦争の記憶
広島の被爆者や市民は、核兵器保有国が核実験をするたびに、広島市中区の平和記念公園で原爆慰霊碑の前に座り込み、無言で抗議する。1973年から続くヒロシマの営みの背景には、日本被団協の礎を築いた老哲学者の「悟り」があった。かたや、被爆者たちは精力的に海外に出向き、広島、長崎の惨禍を国際社会へ告発していく。核兵器はその悲惨さゆえに道徳的に使えない―。「核のタブー」を確立していった。
死者の無念背負う座り込み
「12:00 20名決行中。かなり年配の婦人が1人いる。人通り絶え、殆ど眠りにつく。星が1つ。明日も暑そう」「11:15 入院中を押して被爆者すわり込み。いてもたってもいられなくてとのこと」「3:15 あと3時間。しかしこの声フランスに届くか?」 遊川和良さん(77)=広島市安芸区=がメモを残す。1973年8月29~30日、フランスの核実験に抗議し、被爆者や市民が平和記念公園(現中区)の原爆慰霊碑前でハンガーストライキを伴い座り込んだ。延べ170人が参加。ハンストを24時間貫いたのは13人で、原爆で姉を亡くした遊川さんもその一人だった。
この年の7月20日、フランスによる核実験に抗議するため、17団体が原爆慰霊碑前で座り込んだ。亡くなった被爆者の無念を背負い、碑を背にした。以来、核実験のたびに被爆者と市民が座り込みを続けている。
当時26歳の遊川さんが脳裏に焼き付けたのが、72歳の森滝市郎さんの姿だ。真夏の暑さの中で座り込み、終わると1人静かに帰っていった。「老いてなお、それだけ怒っている人を間近で見て、信念を感じた」 核実験のたびに慰霊碑前に座り込む森滝さんの姿は、ヒロシマの象徴となった。それには「前史」がある。
座っていて止められるのか
英国による中部太平洋クリスマス島での水爆実験を受け、広島の初期の被爆者運動を担った吉川清さん(1986年に74歳で死去)たち数人が1957年3月下旬~4月中旬に座り込んだ。当時は慰霊碑周辺に工事の土が堀り上げられていたといい、広島県原水禁が発行した座り込み10年の記録で、森滝さんは「寒い夜風を避けるために、塹壕のようなくぼみに降りて、蝋燭をつけて座り込んでいた」と描写している。この行動に心を動かされ、森滝さんが理事長を務める広島県被団協は「祈りと抗議の座り込み」をした。
1962年には、米国が核実験計画を発表した際、広島大教授だった森滝さんは大学に辞表を出して座り込みに臨んだ。日射病で倒れながらも4月20日から12日間続けた。
ある日、前を行ったり来たりする少女に言われた。「座っとっちゃ止められはすまいでえ」(座っていては止められない)。森滝さんは後に「座っていて実験をくいとめることができるのか、いったい平和運動は戦争をくいとめることができるのかという大きな質問として。自己の全存在をかけて座りこみ行動をしている私に鋭く問いかけられた」と振り返る。
考えに考え、ふと気付いた。慰霊碑の前に座り込むのは、自分のためではない。そういう人たちの輪が日々広がる様子は、精神の連鎖反応ともいえる。核分裂の連鎖反応に対し、精神の連鎖反応が起きたら、どれほど力が発揮されるだろうか―。「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」と悟った。1994年に92歳で亡くなる半年前まで、470回以上重ねた。
「人類は生きねばならぬ」「核と人類は共存できない」の言葉を残し、日本被団協や広島県被団協のトップとして被爆者運動を率いた森滝さんは広島高等師範学校(現広島大)教授だった1945年8月6日、動員学徒を引率中に爆心地から約4㌔の造船所の工場で被爆。飛び散ったガラス片で右目を失明した。2日後、静養先の宮島(現廿日市市)から治療のため広島に戻り、犠牲者の遺体や破壊し尽くされた街を目撃した。次女の春子(85)さん=広島市佐伯区=は「激痛で開かなかった左目をこじ開けて見た『原点』」が座り込みを続けさせたとみる。
「ノー・ユーロシマ」 欧米の反核運動と共鳴
広島での地道な抗議の傍ら、森滝さんは日本被団協の活動などで海外へも渡った。1962年6月、ガーナの首都アクラであったエンクルマ大統領主催の平和会議に広島市の浜井信三市長(1968年に62歳で死去)と共に出席した。2カ月前の12日間の座り込みで得たばかりの「悟り」を発表し、「もの凄く共鳴をうけ、後から多くの人々から話しかけられた」(当時の日記)。
被爆者の訴えは1970年代後半になって、欧米の反核運動とさらに共鳴し始める。東西冷戦のさなか、人々は現実味を増す核戦争におびえたためだ。森滝さんは老体にむち打って、1981年11月に広島県原水禁の「語り部の旅」に参加。約1万5千人が集まった西ドイツ・ドルトムントでの集会では、欧州を広島のような核の戦場にしてはならないと、「ノー・ユーロシマ」を訴え、割れるような拍手を浴びた。帰国後、日本の反核運動の停滞を嘆き「ヨーロッパで燃えさかる非核ヨーロッパ運動と、非核太平洋運動を連帯させ、草の根運動を全世界に起こさねば」と決意している。
1982年6月には、第2回国連軍縮特別総会に合わせて渡米。ニューヨークでのデモ行進出発点のハマーショルド広場で「軍拡競争をやめさせられるのは草の根大衆行動しかない」と反核運動の連帯を呼びかけ、国際社会でも存在感を示した。
ただ当時、森滝さんはすでに日本被団協のトップを退いていた。国連軍縮特別総会で被爆者として初めて演説したのは代表委員の山口仙二さん(2013年に82歳で死去)だった。
「私の顔や手をよく見てください。よく見てください」。14歳の時、長崎市の兵器工場で学徒動員中に被爆し、上半身の重いやけどで7カ月入院したこと。首がちぎれかけた赤ん坊を抱く母親を見たこと。各国政府の代表を前に、核兵器の非人道性を叫ぶように訴えた。 右手に掲げた自らのケロイドの写真は、世界に原爆被害を伝えようと、被団協が作ったパンフレット「HIBAKUSHA」の1㌻。日英独3カ国語を併記し、総会前に10万部を刷っていた。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と締めくくった演説は歴史に刻まれた。
被団協はこの時、国連へ41人の代表団を派遣した。通訳として加わっていた東京大名誉教授の西崎文子さん(65)によると、山口さんは当時、体調を崩していた。デモや集会への参加を控えて演説に臨んだといい「一途に伝えるものがある人の強さを感じた」という。
核のタブー」世界に植え付ける
1982年8月には、後に広島県被団協理事長に就く日本被団協代表委員伊藤サカエさん(2000年に88歳で死去)の一行が欧州を遊説。広島で被爆した国際部長の小西悟さん(2015年に85歳で死去)は1983年10月、50万人が参加したという西ドイツの首都ボンでの集会で、峠三吉の「にんげんをかえせ」をドイツ語で朗読。「盛り上がりと熱気は日本では考えられないくらいすごいものだった」と日本へ報告した。
東京都の被爆者団体「東友会」理事で広島被爆の山田玲子さん(90)は1985年10月、日本被団協の遊説団に加わり英仏に渡った。以来、ソ連や米国への訪問を重ね、17年までに23回を数えた。突き動かすのは、やはり「あの日」見た惨状だ。「多くが、名前も分からないまま焼かれた。再び被爆者をつくらないために記憶を伝えたい」 被団協だけでなく、広島、長崎を中心に、官民が被爆者を各国へ送り出した。無数の証言は、核兵器に汚名を着せ、二度と使ってはいけないという「核のタブー」を、各国の人たちの心に植え付けていった。
被団協は2010、2015年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では約50人の代表団を米国へ派遣した。だが、2022年は役員たち4人に。被爆者たちも今や平均年齢は85歳を超えた。それでも、今月10日にノルウェー・オスロであったノーベル平和賞授賞式の代表団に、広島県被団協理事長の箕牧智之さん(82)や長崎原爆被災者協議会会長の田中重光さん(84)たち17人の被爆者が名を連ねた。
被団協の証言活動が高くたたえられての栄誉。「想像してみてください」。代表委員の田中熙巳さん(92)は受賞演説の終盤で呼びかけた。核兵器の保有を前提とした核抑止論を否定し、すぐに発射できる核弾頭が4千発もある世界に強く警鐘を鳴らした。
「みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです」。被爆者の思いを継ぎ、人類を守るための行動を世界へ望んだ。
取材を終えて
ノルウェー・オスロ市庁舎であったノーベル平和賞の授賞式を、2階の記者席から取材した。遠目に見ても、田中煕巳代表委員の演説中、涙ぐむ人が複数いた。1945年8月9日に長崎で見た「原点」に心を揺さぶられたのだろう。
受賞決定後、被爆者の歩みとその原点を知る人を訪ね、話を聞き続けた。平成生まれの私には、あの日の惨状も、被爆者が差別を恐れて隠れて過ごした日々も、そこから立ち上がっていった思いも、率直に言って完全に理解できるわけではない。何より、あの瞬間に焼かれ、何も語らず亡くなった人の言葉には、たどり着くこともできない。
それでも、高齢の被爆者たちが遠く離れた北欧で若者たちに語りかける姿に、私も取材し、書き続けるしかないと思った。時に理想論と言われながら、愚直に核兵器廃絶を求めた先人のつくりあげた「核のタブー」を守るも壊すも、私たち次第なのだと再確認した。(下高充生) たいまつを掲げる市民たち千人余りに手を振り続ける姿にぐっときた。ノーベル平和賞の授賞式があった10日夜。受賞者をたたえる行進がホテルに到着すると、箕牧智之さんたち日本被団協の代表委員3人がバルコニーに姿を見せ、歓声、拍手や「ノーモア・ヒロシマ」のかけ声に懸命に手を振って応えた。被爆者運動への大きな後押しを実感した瞬間だった。
被団協68年の歩みは、原爆被害者の運動をより広く、大きな輪にしていこうとする努力の積み重ねだった。結成大会では「人類の危機を救おう」と宣言。原爆被害への補償を国に求め、同じ被害を繰り返さない誓いになると説いた。自分たちのためだけの運動ではないのだ。ノーベル平和賞は、この訴えが世界に通じたという大きな証しだと思う。被爆地から遠く離れた極寒の北欧で胸が熱くなった。(宮野史康)