戦争(「開戦の日」)に関する社説・コラム(2024年12月8・22・24日)

キャプチャ

母親が宮中の厩舎の戸に…(2024年12月24日『毎日新聞』-「余録」)
 
キャプチャ
広尾サンタランドのメインツリー(右)と、一年中クリスマスグッズを買うことができる「サンタの家」=北海道広尾町で2024年12月20日午後5時40分、貝塚太一撮影(ソフトフィルター使用)
キャプチャ2
世界のあらゆる紛争地にクリスマス停戦を呼びかけたフランシスコ教皇=12月22日、バチカンで、ロイター
 
 「母親が宮中の厩(きゅう)舎(しゃ)の戸に当たった時に生まれた」。日本書紀が記す聖徳太子厩戸皇子(うまやどのおうじ))の誕生説話だ。明治の歴史家、久米邦武は馬小屋で生まれたキリストの降誕伝説の影響を指摘した。真偽は別に歴史のロマンを感じる話だ
▲歴史上のキリスト教伝来は16世紀。宣教師フロイスは、堺の町で行われたクリスマスの儀式で敵対する軍勢の武士たちが「互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した」と記した。「日本にもクリスマス休戦があった」という俗説を生んだ逸話だ
▲実際のクリスマス休戦の始まりは第一次大戦。1914年12月24日のイブに自然発生的に起きたという。西部戦線で対峙(たいじ)し、疲弊していた英独兵士らが互いに聖歌を歌い「戦わない」と書いた看板を掲げた
▲それから110年。ローマ教皇は「武器が沈黙し、クリスマスキャロルが鳴り響きますように」と祈った。しかし、ミサイルやドローンが飛び交うウクライナの戦場にそんな気配はない▲親露派とされるハンガリーのオルバン首相がクリスマス停戦を提唱しても、ウクライナにはありがた迷惑のようだ。ガザ停戦協議に期待がかかるが、信じる宗教が異なるイスラエルパレスチナ教皇の声がどこまで届くものか
▲広島、長崎の原爆被爆者で作る日本被団協ノーベル平和賞を受賞した記念すべき年だ。街のライトアップを眺め、ディナーやケーキを楽しんだ後は、ジョン・レノンが歌う「ハッピークリスマス(戦争は終わった)」に耳を傾けてはどうだろう。

クリスマスイブに「きよしこの夜」が歌われる理由(2024年12月24日『産経新聞』-「産経抄」)
 
キャプチャ
英ロンドンのカトリックの大聖堂で営まれた礼拝で、歌を披露するウクライナの子供たち(共同)
 1914年12月24日の夜、第一次世界大戦勃発以来初めて迎えるクリスマス・イブだった。西部戦線のドイツ軍の塹壕(ざんごう)から、「きよしこの夜」の美しい歌声が聞こえてきた。
▼すると対峙(たいじ)するフランス・スコットランド連合軍側では、バグパイプの伴奏が始まる。やがて双方の兵士が姿を現し、シャンパンを酌み交わしサッカーやカードゲームに興じるようになった。
▼仏英独の合作映画「戦場のアリア」(2005年)は、「クリスマス休戦」と呼ばれる実話が基になっている。ただ後日談は悲惨だ。兵士たちは軍紀違反を問われ、家族との面会が許されないままより過酷な前線に送られる。
キャプチャ2
▼世界でもっとも親しまれてきたクリスマスソング「きよしこの夜」は206年前の今夜、オーストリア西部ザルツブルク近郊の教会で初演された。助任司祭のヨーゼフ・モーアが詞を書き、オルガン奏者のフランツ・グルーバーが作曲した。伴奏にギターが使われたのはオルガンのふいごがネズミにかじられたから、との有名なエピソードは後世の創作らしい。
▼現在の歌詞は3節からなるが、1995年に発見されたモーアの直筆譜では6節だった。宗教学者川端純四郎さんの翻訳を拝借すれば、「私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる」といった表現が目に付く。当時この地域では、ナポレオンの出現以来続いてきた戦乱がようやく収まりかけていた。つまり「きよしこの夜」は「平和の賛歌」だったというのだ(『さんびかものがたり』)。
キャプチャ
▼世界の各地で戦火が絶えないまま、今年も終わろうとしている。「一日も早い和平の実現を」「せめて一夜の平穏を」。さまざまな祈りを込めて今夜も厳かに歌われる。

(2024年12月22日『秋田魁新報』-「北斗星」)
 
 約20年前、終戦の日が近づいた頃に、元日本軍兵士だった秋田市の90代男性に取材を申し込んだ。男性は会うことには応じてくれたが、戦地の経験を語ることは拒んだ。「以前は体験を話していた。でも家族が嫌がるからもうやめたんだ」と
▼男性は太平洋戦争終結から歳月が過ぎたことで戦争体験に耳を傾けられなくなったと感じていた。語りたくても語れない。だからといって風化はさせたくない。もどかしそうにする様子はいまだに忘れられない
▼国旗研究で知られる秋田市出身の吹浦忠正さん(83)=東京都=は幼少期に土崎空襲を目撃した。米軍が1945年8月14日夜から翌日未明にかけて行った爆撃。市の中心部から現在の河辺地区に身を寄せていた吹浦さんは多数の爆撃機が上空を通過し、やがて北の方が燃えて赤くなるのを目にしたそうだ
キャプチャ
燃え続ける火が消えるまで一週間ほどかかったと言われている
▼翌日に親に連れられて土崎を訪れると一帯は焼け焦げ、運ばれた遺体が並んでいた。目の前に広がる惨状。子どもながらに衝撃を受けたという
▼吹浦さんはこれまでに民間団体で難民支援の活動などに当たってきた。日本で戦争は起きていないが、世界に目を向ければ武力衝突は絶えず起きている。「戦争に無関心でいてはいけない」と語る
▼来年で終戦から80年を迎える。あの戦争の経験を語れる人は少なくなった。世界情勢が緊迫する中、この先いかにして不戦を貫いていくのか。経験した人たちの証言や残した記録と正面から向き合い、考えていこうと思う。

真珠湾奇襲の知らせに(2024年12月8日『北海道新聞』-「卓上四季」)
 
 重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた
人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる
キャプチャ2
 
キャプチャ3
▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった
キャプチャ4
真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」
▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―
▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

NHK連続テレビ小説「虎に翼」で…(2024年12月8日『毎日新聞』-「余録」)
 
キャプチャ
太平洋戦争の開戦を伝える東京日日新聞(現毎日新聞)夕刊
 NHK連続テレビ小説「虎に翼」で取り上げられた戦前の首相直属機関「総力戦研究所」が、米国と戦争した場合の分析を内閣に報告したのは1941年8月末だった
▲当時の軍部や官僚らの中堅・若手精鋭がデータを基に進めたシミュレーション結果は「日本必敗」。戦争が長期化し、最後はソ連参戦で行き詰まることまで予測した。だが、東条英機陸相は「机上の演習と実戦は異なる」と退け、口外を禁じたという。「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著)に詳しい
キャプチャ
▲報告から3カ月余を経た12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。長引く日中戦争に閉塞(へいそく)感が漂う中での米英への宣戦布告に社会は快哉(かいさい)を叫び、熱狂した。総力戦研究所は、政府が自国を客観視できた最後の場だったのかもしれない
▲来年は戦後80年にあたる。「8・15」への道は「12・8」で固まった。冷静な議論が通用しない空気がなぜ、形作られていったのか。ネット時代を迎えたメディアこそ重く受け止めるべき日でもある
▲作家、太宰治は短編「十二月八日」で開戦当日を「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と記した。高揚した記述が目立つ他の作家たちに比べ、ユーモアで不安を包み隠したような作品である。「ちがう日本」に後戻りの道はなかった
ウクライナガザ地区で戦闘や攻撃が続く。戦いがいったん始まれば、止めることがいかに難しいか。戦争を始めても、始めさせてもならない。そのために何が必要か。戒めが重みを増す「開戦の日」だ。

十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ)(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
キャプチャ
 
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹いぶきを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
 隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、
「知ってるよ。知ってるよ。」
 と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。芸術家というものは、勘(かん)の強いものだそうだから、何か虫の知らせとでもいうものがあったのかも知れない。すこし感心する。けれども、それからたいへんまずい事をおっしゃったので、マイナスになった。

開戦の日に考える 戦争が父の心を壊した(2024年12月8日『東京新聞』-「社説」)
 
キャプチャ
 東京都武蔵村山市に「PTSDの日本兵と家族の交流館」があります。元生協職員の黒井秋夫さん(76)=写真=が自宅の庭に建てたのは2020年。全国から延べ約3千人が訪れました。
 黒井さんは、元陸軍兵の父慶次郎さんの心の病に苦しめられました。暴力や暴言はないけれど、何も話さず反応がない。無気力で定職に就けず家は貧しい。「昔は精悍(せいかん)で有能な人だった」と聞いても父を軽蔑していました。
 父がなぜ別人になったのか。それが戦争による心の傷だと気付くのは、ベトナム帰還米兵の存在を知ったことがきっかけです。
 米国では1960年代から70年代まで約10年続いたベトナム戦争の帰還兵に自殺や暴力、無気力、アルコール依存が多発していました。戦場の光景が突然よみがえることもあり、戦争で強いストレスがかかったためだとして、PTSD心的外傷後ストレス障害)の診断名がつきました。
 黒井さんは帰還米兵に父の姿が重なりました。農家の九男に生まれ、満州事変の翌32年、20歳で召集され父は計7年間、中国の戦場にいました。戦後故郷の山形に帰ったときは34歳でした。
 死後見つかった陸軍時代の記録から中国侵略を「昭和維新」と信じていたことも分かりました。兵士だけでなく住民も殺したはず。77歳で亡くなるまで孫の声にも無反応だったのは戦争トラウマ(心的外傷)だったのでしょう。
皇軍が否定した心の病
 きょう8日は83年前、日本が米国などと太平洋戦争を始めた「開戦の日」です。
 アジア各地に戦場を広げていったこの戦時期に増えたのが兵士の精神疾患戦争神経症」でした。目立った外傷はないものの、体の震えや手足のまひ、歩行や言語の障害、声が出なくなる兵士が多数現れたのです。
 38年、千葉県市川市に精神神経疾患病院として国府陸軍病院が開設され、45年の敗戦までに約1万人が入院しています。
 すでに第1次世界大戦期の欧米で帰還兵の「ヒステリー」や「神経衰弱」などの戦争神経症が知られるようになり、戦争トラウマとして位置づけられていきます。
 しかし、日本では軍幹部が「世界戦争で欧米軍で多発した戦争神経症は幸いにして一名も発生していない」と豪語するなど「皇軍」では心の病が否定されました。
 当時の軍医は「戦争神経症」を戦闘の衝撃よりも、神経質や敏感など兵士の気質に原因があり、帰郷や恩給などの願望が原因ともみていたのです。
 しかし、敗戦時に830万人もの兵がいた日本軍です。黒井さんの父のような戦争トラウマが多く発症していたはずです。
 米国ではベトナムイラクアフガニスタン戦争などで多数の兵士にPTSD症状がみられることが分かっていますが、日本では敗戦時に軍の記録は焼却され、全体像は分かっていません。
 ただ国府台病院には軍の命令に従わず当時の院長らが守ったとされるカルテが残されていました。8千人分を分析した研究では統合失調症が最も割合が多く、戦争神経症患者が2割近くいることも分かり、ここに戦争PTSDも含まれると考えられます。
◆家族も苦しみ引き継ぐ
 戦時中、心を病む兵士へのまなざしは、戦闘で体に傷を負った兵士に比べて冷たかったのです。
 家父長制を基盤とした日本社会の壁もありました。男らしさが求められる軍隊で、婦人病とされた「ヒステリー」は嫌われ、恩給の受給も兵士自らが恥じる風潮もありました。多くの兵士が恩給対象外とされた記録も残ります。
 戦後、心に傷を負った元兵士は忘却され、家族に暴力をふるい、酒におぼれ孤独に苦しみました。元兵士家族の交流会を開く黒井さんの元に100人余が集まり、兵士の心の傷が世代を超えて引き継がれる苦悩を語り合っています。
 戦場で人の死に直面する経験は長期にわたり人の心に影響を与えます。イラクなどの海外や東日本大震災などの災害に派遣された自衛隊員にも、PTSD傾向にある人が多くいることがアンケートで分かっています。PTSDは今日的な問題でもあるのです。
 黒井さんは今秋、中国吉林省長春市を訪ねました。若き日の父がいた場所です。父が犯した侵略を中国の人に謝罪するためでした。黒井さん自身も生涯をかけ、引き継いだ戦争トラウマに向き合っています。元兵士の家族にとって、戦争は今も終わっていません。

過ちを繰り返さないために(2024年12月8日『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 子どもの頃、12月8日の晩ご飯は「おじや」と決まっていた。沖縄風に言うと「ボロボロジューシー」か。野菜入りだが肉はなし。不満を口にすると、「戦時中はこれほど具が無かったはずよ」と母は言った
▼太平洋戦争の起点となった日を忘れるなという教えだった。たった一食だが、育ち盛りには物足りず「こんな食事で戦争に勝つつもりだったのか」と違和感ばかりが残った
▼83年前のハワイ真珠湾への奇襲は、暗号を解読していた米国に筒抜けだった。日本は中国との戦争で疲弊し、勝てないと分かりながらも米英との戦争に踏み切った。それが沖縄戦や原爆投下につながっていく
▼「二度と戦争を起こさない」。県内の若手俳優たちが糸満市の県立平和祈念資料館で平和劇のロングラン公演に取り組んできた。沖縄戦体験者の証言を基にした劇だ。ガマに避難した人々の緊迫したやりとりは戦争の愚かさをダイレクトに伝える
▼今の時代の空気に「戦争を身近に感じる」と主催する実行委メンバーは話す。同じ過ちを繰り返さないために、過去から学ぶ劇も残すところあと4公演。過去から学ぶ機会にしたい。

12・8と軍事同盟(2024年12月8日『しんぶん赤旗』-「主張」)
 
歴史の過ちを繰り返さぬため
 日本が、イギリス、アメリカを奇襲攻撃し、侵略戦争をアジア・太平洋地域に拡大した1941年12月8日から83年を迎えました。日本国民310万人以上、アジア諸国民2000万人以上の犠牲者を出し、多くの苦しみと損失をあたえた戦争を二度と繰り返さない決意を新たにする日です。
 
 台湾、朝鮮を植民地支配し、中国侵略で泥沼に陥った日本は、1940年9月、ドイツ、イタリアと軍事同盟を結ぶことによって、世界戦争に突入する準備と総動員体制をつくりあげました。日本は軍事同盟である三国同盟の一員として世界にかつてない巨大な惨禍をあたえたのです。
■緊張もたらす日本
 ところが石破茂首相は、安全保障環境がきびしいなどとして、日米同盟絶対の路線をつきすすんでいます。臨時国会での所信表明でも「同盟に基づく抑止力・対処力の維持・強化」や「同盟国・同志国との連携をさらに深める」ことを強調しました。
 実際、「戦争する国」づくりをすすめています。5年間で43兆円という大軍拡予算を計画し、「敵基地攻撃能力」をはじめ軍事強化をすすめ、アジアに緊張をもたらしています。
 海上自衛隊護衛艦「さざなみ」が9月、自衛艦としてはじめて台湾海峡を通過しましたが、米軍が台湾周辺ですすめる「航行の自由作戦」への事実上の参加です。NATO北大西洋条約機構)諸国やオーストラリアなど「同志国」との共同訓練をはじめ軍事的連携も強めています。
 「台湾有事」に備え、南西諸島へのミサイル配備など軍事要塞(ようさい)化をすすめ、日本全土で自衛隊基地の地下化をすすめているのは、日本の戦場化を想定していることの証左です。沖縄県議会決議が昨年、「政府に対し、対話と外交による平和構築」を求め、「決して沖縄を再び戦場にしないよう強く求め」た叫びを重く受け取めるべきです。
 いま、日米同盟を絶対視し、米軍との軍事一体化に突きすすむことによって、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる」(憲法前文)危険が現実に生まれているのです。
■平和の大きな流れ
 石破首相は、総裁選でも、「地域の多国間安全保障体制の構築を主導する」として、アジア版NATO構想まで提唱しました。しかし、「ASEAN東南アジア諸国連合)にNATOは必要ない」(マレーシアのモハマド外相)など、アジア各国から批判と反発の声が出されました。
 いま、アジアでは、平和の地域共同体をつくりあげたASEANが、ASEANインド太平洋構想(AOIP)を提唱し、排除によるブロック化、軍事的対決の道でなく、包摂的な平和の枠組みを求めるなど、平和の流れが大きく発展しています。
 日本共産党は4月、「東アジア平和提言」を発表し、大軍拡に反対するとともに、平和外交を追求し、ASEANと協力し、AOIP実現に努力することを提案しています。
 軍事同盟を絶対視し、軍事的対決を叫ぶ者は、歴史に学ばない者です。日本共産党は命がけで戦争に反対を貫いた党として、平和のために力を尽くします。

開戦から83年(2024年12月7日『長崎新聞』-「水や空」)
 
 いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった
▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から
▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい
▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉
▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ
▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。(智)