<「年収の壁」問題を整理する>「103万円の壁」はなぜ変えるべきか?政党間議論の問題点(2024年11月22日『Wedge(ウェッジ)』)

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年収にまつわるさまざまな「壁」が議論されている(takasuu/gettyimages)
 第50回衆議院議員総選挙以降、メディアで「103万円の壁」問題が取り上げられない日はないと言っても過言ではない。厚生労働省が2025年度の年金法改正を睨み時間をかけて準備してきた保険料負担を避けるため働く時間を抑制する「106万円の壁」撤廃の打ち出しとたまたま時期が重なったこともあり、「103万円の壁」引き上げが「手取りを増やす」のに対し、「106万円の壁」撤廃が「手取りを減らす」ことになると、国民からは大きな批判が出ている。しかも政府からは「103万円の壁」を国民民主党の主張の通り178万円にまで引き上げるとすれば、高所得層に有利で不公平であるとか、財源が約7兆6000億円不足すると、メディアや地方自治体を使って不安を煽る戦略を取ったため、「壁」を巡る議論が加熱している。
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 ただし、一口に「103万円の壁」「106万円の壁」と言っても、それぞれの「壁」が持っている意味合いや、それぞれの「壁」に対する政党の賛否が異なっているため、議論が混乱している印象が拭えない。
 まず本記事では「103万円の壁」問題を整理してみたい。
「103万円の壁」とはなにか
 「103万円の壁」とは、「所得税が課税される年収」のことである。年収が基礎控除48万円と給与所得控除55万円の合計額103万円を超えると、所得税(+復興特別所得税)が課されることになるので、本人の手取りが減ってしまう。さらに、税制上、親や配偶者の扶養から外れるため、親や配偶者などの所得税や住民税の負担が増えることになる。
 つまり、103万円を1円でも超えてしまうと、本人や親、配偶者の税負担が増え、かえって手取り収入が減ってしまうことから一般的に「壁」と呼ばれている。
 夫などの扶養に入っているパートの主婦に適用される配偶者控除に関しては、1987年に年収103万円を超えても即座に配偶者の控除を無くすのではなく、段階的に減らすという仕組みである「配偶者特別控除」という制度が導入された。この配偶者特別控除は、2018年からは、150万円にまで枠が引き上げられたため、配偶者の年収が103万円を超えて増えたとしても、世帯の手取りの上がり方がゆるやかになりはするものの減ることはなくなり、103万円の壁は税制上は解消され、存在しなくなった。
 しかし、現実には、なぜかパートで働く人の間で「103万円の壁」は「心理的な壁」として残り続けることとなった。その結果、パートで働く人に支えられている業界などでは就業時間調整を実施する人が多く、人手不足の一因になっているとの指摘もある。
 さらに、問題を複雑にしているのは、夫などの会社において、独自に支給される配偶者手当の支給基準を「年収103万円」とされている場合もあることで、こうした会社独自の配偶者手当の支給基準の存在が「103万円の壁」として存在し続ける要因となっている点があることだ。
 親により扶養される子どもがアルバイトをしている場合は、子どもの年収が103万円を超えると、親が「扶養控除」を受けられなくなるため、税負担が増え世帯の手取りが減る可能性がある。なお、子どもが学生である場合は「勤労学生控除」という仕組みがあるため、学生の子の年収が103万円を超えたとしても、130万円になるまでは所得税はかからない。
 このように「103万円の壁」が税制上存在するとすれば子どものアルバイトということになる。ただし、「103万円の壁」が引き上げられて学生のアルバイト時間が増えるにしても、学生の本分は学業にあるので、労働時間の増加も限定的になるとも考えられる。
「103万円の壁」の問題点:(1)就労抑制
 「103万円の壁」の問題点は、それが心理的な壁であったとしても主婦(夫)のパートに「働き控え」を促していることや、学生のアルバイトでは税制上やはり「働き控え」を促していることにある。
 また、最低賃金の引き上げや時給の上昇に伴い、これまでより短い労働時間で「103万円の壁」に到達してしまうため、「103万円の壁」の制約内で供給できる労働時間数が減少しているという事情もある。
 実際、10年前の2015年では全国加重平均額で見た最低賃金額は798円、「103万円の壁」の制約内で供給できる労働時間数は1291時間(1か月当たり10時間強)だったものが、24年現在では同じく1055円、976時間(1か月当たり8時間強)と、最賃が32.2%引き上げられた結果、労働時間は24.4%減少することとなった。
 このように、少子化、高齢化の進行により人手不足が叫ばれる今、「103万円の壁」が就労抑制を促進するのは企業にとっても日本経済にとっても大きなダメージとなるのは間違いない。
「103万円の壁」の問題点:(2)憲法違反
 すでに述べた通り、103万円という金額は、基礎控除48万円と給与所得控除55万円の合計金額である。所得税は、稼いだ収入から基礎控除や給与所得控除など他の控除なども併せて収入から控除した所得にかけられることになっている。
 基礎控除とは、日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、日本国民の生存権を規定しているが、これを税金の観点から翻訳すると、国は最低生活費に課税してはならないとする「最低生計費非課税の原則」を具現化したものである。一方、給与所得者には、自営業主のように収入から実際にかかった経費を差し引く制度が認められていないため、給与収入に応じて「経費分」として一定額を差し引くのが、給与所得控除である。
 しかし、最低生活費である「基礎控除」と「給与所得控除」の合計額は1995年以降、物価の変動や最低生活費の変化にかかわらず103万円に据え置かれたままなのだ。
 こうした30年近く据え置かれてきた所得控除のあり方に異を唱えたのが国民民主党であり、178万円への引き上げを主張している。昨今の物価高、実質賃金の低迷などに苦しむ現役世代に「手取り増」として、魅力的な政策に映ったのは間違いない。
 では、なぜ、178万円なのか。その根拠としては、国民民主党は1995年の最低賃金611円と比較した現在の最低賃金1055円が1.73倍になっていることを挙げている。ただし、これまで所得控除の引き上げは、インフレ調整の手段とされてきており、その観点からは例えば消費者物価指数(総合)で試算すれば143万円への引き上げが妥当な水準となる。
 なお、最低生活費に関しては、そのほかにも様々な考え方があるだろう。
「103万円の壁」の問題点:(3)税の減収
 「103万円の壁」を、仮に国民民主党の主張の通り178万円に引き上げるとすれば、政府の試算によると、国と地方の合計で年間約7兆6000億円の税収減になるとのことだ。確かに、税を取る側の政府目線では税収に穴が空いた分の財源補填をどうするのかは一大事であるが、物価の変動や所得水準の上昇にも関わらず、30年近くに渡って所得控除額が据え置かれるという政治の怠慢を考えるならば、われわれ納税者から見れば取られすぎていた分を取り戻すにすぎない。取りすぎた分を勝手に財源として支出してきた政府がその分の歳出を削減することで財源を捻出すればよいということになるだろう。
 そもそも、2012年12月26日に始まった第2次安倍晋三政権以降、政府が進めてきたインフレ政策なのだから、インフレに伴う最低生活費の確保に関する財源が存在しないなどという言い訳は見苦しいだけだろう。また、年金をすでに受け取っている既裁定者は、インフレにより年金額が調整される物価スライドが適用されるが、物価スライド実施のための財源を別途どう用意するかなどという議論は聞いたことがない。保険料収入、国庫負担、積立金などの収入から自動的に確保されているからだ。
 今回の「103万円の壁」引き上げに関する財源も税収の範囲内で工面するのは当然の責務といえる。それとも高齢世代の生活費確保には財源問題は生じないが、現役世代の最低生活費確保には財源問題が生じるというのが、政府の立場なのだろうか。
「103万円の壁」の問題点:(4)高齢者優遇
 「103万円の壁」を178万円にまで引き上げるとして、差額の75万円を基礎控除で引き上げるのか、給与所得控除で引き上げるのかで、世代で見て著しい不公平が生じてしまう。
 実は、公的年金受給者の公的年金控除は現役世代の控除よりも優遇されている。先に見たように、給与所得控除は55万円であるのに対して、公的年金等控除は65歳以上の受給者の場合110万円と2倍となっている。
 給与所得者であれば、スーツや情報収集に係るコスト、持ち運び用のパソコンなど仕事上で使用するための支出があり、そのための控除(実際には税務当局が一律に決めた必要経費相当額)があるのは理解できるが、公的年金を受け取るための必要経費とはなんだろうか。筆者は公的年金等控除は不要であり、所得控除の財源がないのであれば公的年金等控除を廃止すればよいと考えている。
 それはさておき、65歳以上の公的年金受給者の場合、公的年金等控除に加えて基礎控除もあるので、158万円まで課税されていない。明らかに現役世代に比べて過剰だ。
 このとき、「103万円の壁」の178万円までの引き上げが基礎控除の引き上げで実行されるとすれば、つまり、基礎控除が48万円から123万円に引き上げられるとすれば、公的年金等控除とあわせて240万円まで控除される計算となる。
 この場合、厚生年金受給者の実に85.2%が税負担を免れるので、年金生活者のほとんどが非課税世帯になる。これでは「現役世代の手取り」より「年金生活者の手取り」の方が増えてしまうし、医療の窓口負担も1割となるなど高齢者優遇策と言えるだろう。
 「103万円の壁」引き上げは、インフレによって膨らんだ最低生活費や会社員の必要経費を補填する取り組みであることは明らかなので、財源問題に矮小化することなく、国民の基本的人権を守る政府の当然の責務として実現するのが筋だ。
 ただし、基礎控除を引き上げるのか、給与所得控除を引き上げるのかによって、現役世代よりも高齢世代をより重視した政策になってしまう。基礎控除の引き上げを行うならば財源捻出も兼ねて不公平な公的年金等控除を廃止してはどうだろうか。
 自民、公明、国民民主の3党が「年収103万円の壁」を見直すことで合意したとの報道もなされているが、ちょうど昨年の同じ時期、ガソリン税のトリガー条項の凍結解除をめぐって、自民・公明両党と国民民主党の間の約束が最終的に反故にされた記憶も新しい。
 われわれ国民は3党の議論をしっかり見守っていく必要があるだろう。
島澤 諭