古い価値観をもつ親に育てられ、高等教育やキャリア形成の機会を与えられなかった女性は多い。社会学者の上野千鶴子さんは「私も、開業医である父の娘として生まれ、愛情はかけてもらったが、お嫁さんになるものとして期待されず育てられた。そんな家父長然とした父に反発してきたが、がんで亡くなる前、父は娘のキャリアを認めてくれた」という――。
■新刊エッセイで綴った「軽蔑していた父親と娘の自分」の変化
私が初めてのエッセイ集『ミッドナイト・コール』を出したのは30年ほど前。そのときは、ある人から「あなたにエッセイは向かないからやめなさい」と言われてしまいました。それがずっとトラウマになっていたのですが、当時は私も若かったですからね。
あれからずいぶんと時間が経ち、編集者のすすめもあって、いまなら歳をとったからこそ言えることもあるだろうと再びエッセイを書き始めました。
この本は、自分の生い立ちや父との関係など、「わたくし」というものをつくったさまざまなエピソードから始まります。父は私のことをとても愛してくれたけれど、人間としては未熟な、かんしゃく持ちでワンマンな男性でした。
私は未熟な父の未熟な愛に振り回されてきた。ある人にそう愚痴ったら「未熟じゃない親って、いますか」と言われて、そりゃそうだと思いました。みんな未熟なまま親になるわけですから、その未熟さで迷惑をこうむるのが子の運命なんだと。当時の父の年齢をとっくに超えたいまになったら父の未熟さも無理はないと思うようになりました。
■自分が70代になって、親子とは迷惑をかけ合う関係だと納得
私にとって、親とは「はた迷惑」な存在。親と子ってそういうものじゃないでしょうか。お互いに相手を選べない関係なのだから迷惑をかけ合って当たり前、それが人生というものではないか──。この歳になって、ようやくそんな境地に達しました。
父が上、母が下という権力関係を間近に見ながら育ったせいで、私は子どものころから父を軽蔑し、ずっと反発心を抱いてきました。オトナになったら母のような立場になる運命が待っていると思ったら、やってられないと思いました。
家には気の強い祖母もいて、お決まりの嫁姑の確執もありました。北陸の3世代同居の家庭に育ったおかげで、私は子どものころから「家父長制とは何か」をしっかり学ぶことができました。フェミニストになるにはもってこいの生育環境でした(笑)。
■北陸の医師だった父親には「外の顔」「内の顔」があった
とはいえ、男性には外の顔と内の顔があるものです。開業医だった父の外の顔はすばらしい職人でした。葬儀に参列してくださった患者さんから聞いたのですが、父は皆さんの体調を熟知しており、診療も対応も非常にきめ細やかだったそうです。父が患者さんからどれほど信頼されていたか、そのとき初めて知りました。
一方、内の顔は先ほどお話しした通り。加えて、兄・私・弟の3兄弟に対しても、息子と娘では接し方がまったく違いました。
あるとき、父は兄と弟に「大きくなったら何になる?」と問いかけました。ワンマンな人ですから自由な答えは許されません。父は兄には建築家に、弟にはエンジニアになるようにと言い聞かせました。ところが私の順番が回ってこなかったので、自分から「私は何になるの?」とたずねたんです。すると父は、そこにいたのかという顔をして、「ちこちゃんはいいお嫁さんになるんだよ」と言いました。
そのときに悟ったんです。私は期待されていない、なぜなら女だから、と。10歳のときのことでした。
私が大学に行きたいと言ったときも同じです。父は反対しませんでしたが、それは女の子にとって大学は嫁に行くまでの時間稼ぎでしかないと思っていたからです。兄や弟には取らせた運転免許も、「女の子は助手席に座るものだから」と言って取らせてくれませんでした。
父にとって娘はペットだったんですね。かわいがるし好きなことをさせてやるけれど、期待はしないし自立も望まない。父にとって私はそんな存在だったんだなと思います。
■「結婚しないのか」と言い続けた父が娘のキャリアを認めた瞬間
そういう人だったので、大学院を卒業しても結婚も出産もせず働き続ける私をさっぱり理解できないようでした。結婚しないのか、子どもを産まないのかと、ずいぶん長い間言われ続けたものです。
そんな父も、70歳を過ぎてからは少し変わりました。私が東京で一人暮らしを始めたころに家を訪ねてきて、3週間ほど滞在するうちにぽつりと「女が働くのもいいものだねぇ」と言ったのです。
この変化は、やはり母が先に亡くなったことが大きかったと思います。母が生きていたときは自分ではお茶ひとつ淹れなかった父が、先のセリフを言ったときには一人でご飯を炊けるようになっていました。「人間って70歳を過ぎても変わるんだ」と思ったものです。
■世話してくれる妻がいる限り、夫は老いても家事をやらない
母が生きていたら変わらなかったでしょう。春日キスヨさんの新刊『長寿期リスク 「元気高齢者」の未来』(光文社新書)を読むと、老老世帯になっても妻に依存し、妻は自分の言うことに応えてくれると思い込んでいる夫がいかに多いかわかります。そのせいで妻がどんどん疲弊していった事例もたくさん出てきます。
男は、妻がいる限り「おい、お茶」っていえばお茶が出てくると思っている。妻がいなくなれば家事もできるようになるし、考え方も少しは変わるけれど、そうでなければずっとそのままなんですね。
母に先立たれた後、父は「ゆで卵をまとめてつくって、ひとつずつ温め直して食べている」と電話で話していました。兄と弟には言わず、私だけにね。娘には、同情を誘おうとしたのでしょう。
また、兄には「ちこちゃんはどうして一緒に暮らそうって言わないんだろうね」ともらしていたそうです。私に直接言わなかったのは、男のプライドだったのかもしれません。妻に依存して暮らし、先立たれたら娘に依存しようとする。私には一緒に住む気は少しもありませんでした。
■妻に依存して暮らし、先立たれたら娘に依存しようとした父
自分勝手な人でしたから、ずっと一緒になんて暮らせない。その点はつらい子ども時代を送った兄弟3人とも同じ思いだったので、互いに責め合うようなことはありませんでした。妻は受け入れてくれるかもしれないけれど子どもは受け入れません、自業自得だよねということで一致していましたから。
いま、私はその当時の父の年齢を超えました。それでもなお、父の価値観や生き方には理解も共感もしていません。母に対しても同じです。北陸の地縁血縁の世界に生きた、保守的な人たちですから、私とはあまりにも違いすぎる。他人として知り合ったとしたら、決してお友だちにはならなかったでしょう。
その後、父のいる金沢へ年に数回ほど帰っては一緒にご飯を食べるのが私の仕事になりました。父はそのたびに「笑ってご飯を食べるのは久しぶりだねえ」などと、私の同情を買うようなことを言いました。もっと帰ってあげたかったけれど、私も働きざかりでしたからそれが限界でした。
■末期がんになった父に15カ月間毎週、飛行機で会いに行った
そして、父は末期がんになりました。父は医師でしたから、自分に出される処方箋から、自分が治る見込みのない末期状態にあることがわかります。絶望したがん患者でした。地元の病院に入院してから亡くなるまでの15カ月間、私はほぼ毎週末、飛行機に乗って父に会いに行きました。そこで週末を過ごして月曜の朝に帰京し、そのまま大学に出勤する生活。疲れ果てて、ボロボロになりました。
それでも続けられたのは、父の最期はちゃんと看取ろう、しっかり見送るのが自分の役目だと思っていたためです。私の中には、それがペット的な溺愛だとしても、父が愛してくれたという確実な記憶がありましたから。
父のサポートは兄弟3人で非常にうまく役割分担できました。難しい人だったので、兄と弟の妻はできるだけ巻きこまないようにと配慮して、私はメンタル面のサポートを担当しました。いまふり返ってもよいチームワークだったと思いますし、できることはすべてやり切ったので後悔はありません。
■「愛された」という実感がない子の多くは、老いた親を見捨てる
兄弟って大人になると意外と会わないですし、普段何を考えて何をしているのかよくわからないものです。でも、私たちは父のサポートを機に理解し合える関係を築くことができました。あの15カ月間は、父が私たち兄弟にくれた最後のギフトだったと思います。
私は介護の研究を通してさまざまなケースを見てきましたが、子どもが「愛された」という実感を得られていないと、介護は義務感からだけではできません。
仕方がありません、悪いのはそんな関係しかつくってこなかった親のほうですから。調査によると、親を施設に入れず、在宅で介護する子どもには共通して「愛情」という要因があります。それを培ってこなかったのなら、捨てられて当然でしょう。
愛された実感はないけれど、親が認知症になってから許せるようになったという人もいます。厳しかった親が天真爛漫になったり、それまで口にしたことのない「ありがとう」なんて言ってくれたりしますからね。
■「親が老いても子どもの頃のことを許せない」と悩まなくていい
ただ、それは人格が変わったから許せるようになったのであって、その許しには「あの親がここまで弱ったのか」というやるせない思いが伴うもの。それならまだいいほうで、認知症になっても許せないままの人もいますから、親子関係って簡単ではないですね。
父との関係を通して、私は「親って反省しない生き物だな」とつくづく思いました。「ありがとう」は言っても、「ごめんなさい」はまず言わない。認知症になっても言わないと思いますよ。だって過去を覚えていないもの(笑)。
今回は父についてさんざん愚痴りましたが、まあでも、こうやって思い出話をするのも供養かなと思います。
『マイナーノートで』にはこうした、めったに他人に言わないようなことをたくさんつづりました。次作はどうでしょう、自分が要介護になったらまた何か書きたくなるかもしれません。介護される側が書いたものってないですから、『要介護のベッドから』なんてエッセイもいいかもしれませんね。
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上野 千鶴子(うえの・ちづこ)
社会学者