土井たか子さんが残した資料の山が動いた 没後10年、母校へ寄付決まる 女性初の衆院議長が歩んだ道のりは(2024年6月3日『東京新聞』)

 
 憲政史上初めて女性で衆院議長を務めた故・土井たか子氏の残した資料が、出身校の京都女子大(京都市)に寄贈されることが決まった。在職中、護憲や男女差別解消、独自外交に力を入れてきた土井氏。資料は写真や日々の活動を記した手帳などが多数あり、識者は「女性政治家の歩みを知る上での第一級の歴史資料」と評価する。資料を預かってきた元秘書は「今後の研究に役立ててほしい」と、土井氏の没後10年にあたり願う。(岸本拓也)
リストを手にする土井たか子氏の秘書だった五島昌子さん=神奈川県内で

リストを手にする土井たか子氏の秘書だった五島昌子さん=神奈川県内で

◆長年支えた元秘書宅に段ボールの山

 「引き受けてくれる人がいてくれて本当にほっとしました。土井さんの歩みを社会に役立ててほしいと思っていましたから」
 4月下旬、神奈川県内。秘書として長年土井たか子氏を支えた五島昌子さん(85)は積み上がった段ボールの山を見ながら、感慨深そうに語った。
 男性社会の政界で、歯切れの良い物言いを武器に、女性で初めて政党や議会のトップに立った土井氏。神戸市の開業医の家に生まれ、京都女子専門学校(現・京都女子大)などを経て、同志社大憲法の講師をしていたが、1969年に当時の社会党から出馬し、政界に身を投じた。衆院選に12回連続で当選したが、2005年9月の「郵政選挙」で落選して引退した。その土井氏を長年支えてきたのが五島さんだ。

◆落選後、ドタバタと詰め込む

 今回、京都女子大へ渡ることが決まった資料は、土井氏が三十余年にわたる議員生活を送った東京・永田町の旧議員会館の一室を立ち退く際、部屋にあったものをまとめたものだ。
 五島さんは「落選後、すぐに議員会館を引き払ってくれと言われ、1日でどたばたと段ボールに詰め込んだ」と振り返る。一時は別の場所に保管していたが、2014年9月に土井氏が亡くなった後、五島さんが資料を引き取って自宅などで預かっていた。
講演で平和憲法の大切さを訴える土井たか子さん=2006年7月、三重県津市で

講演で平和憲法の大切さを訴える土井たか子さん=2006年7月、三重県津市で

 その後、引き取り先がないか周囲に相談したが、なかなか見つからなかった。そんな折、土井氏の出身校である京都女子大が昨秋、資料の引き取りを五島さんに申し出た。
 同大の竹安栄子学長などによると、五島さんと旧知の間柄だった上智大の三浦まり教授から相談を受けて引き取りを決めたという。竹安学長は「最初相談を受けたときは、簡単にどうこうできる代物ではないと断った。しかし、学内の話し合いで、『ジェンダー平等を掲げる京女が引き受けないでどうする』という意見が出て、引き受けることを決めた」と明かす。

◆目録作りからスタート

 土井氏の遺族の承諾を得て、一昨年10月に京都女子大に設立した「ジェンダー教育研究所」で保管することになり、今月運ばれる見通し。その後は、段ボール二十数箱に上る資料を一つ一つ精査し、学術研究に使えるように目録を作成する。一方で、数多く残る土井氏の写真などを展示し、女性政治家について考える学生向けのイベントを開くことも検討したいという。
 竹安学長は「今の学生たちは、先輩に日本初の女性衆院議長がいたことを知らない。女子学生たちのアイデンティティーに影響を与え、自己肯定感を高める教育にも資料を活用できれば」と話す。

カストロ議長らとのツーショット

土井たか子氏直筆の色紙

土井たか子氏直筆の色紙

  「こちら特報部」は4月下旬、元秘書の五島さんに土井氏の残した資料の一部を見せてもらった。
 議員時代の活動を撮影した写真が多くあり、目立つのは、中国の江沢民国家主席キューバフィデル・カストロ議長、英サッチャー首相ら当時の海外要人との2ショットだ。外務委員会に所属した土井氏の交流範囲の広さがうかがえる。軍服のイメージが強いカストロ議長はスーツ姿。面談に同席した五島さんは「『レディーに会うからベトナムでスーツを作ったんだ』って言ってました」と振り返った。
 達筆な文字が書かれた色紙の数々や、選挙活動用のポスターなども。五島さんは「筆まめで空いた時間があると、何か書いていた。失敗した文字を相手に渡すのは失礼だからと、残っている色紙は書き損じたものばかり」と懐かしむ。

◆日々の活動を記録したメモ帳も

 残された資料には、どんな価値がありそうなのか。
 資料を見た上智大の三浦教授は「日々の活動を記録したメモ帳も残っていて、どこで誰々と会って、何を話したかということが書かれたものもある。当時の政策がどういう状況で決まっていったかを知る上で、第一級の資料になる」と評価する。
 特に、土井議長時代に進められた小選挙区制導入に向けた与野党の政治改革の論議や、社会党の独自外交に着目する。1994年の小選挙区制導入は、社会党の衰退を早めたとも言われ、「議長としてどういう苦労があったのか、政治史に残るテーマとなる」と三浦氏はみる。

社会主義国と独自のパイプ

 独自外交についても、「社会党は、自民党議員が直接アクセスできない社会主義国家と独自のパイプを持っていた。日本が重層的な外交を展開していた意義や、知られざる外交史の発掘につながるかもしれない」と期待する。
 何かと「女性初」の形容詞がついて回る土井氏だが、政治家として力を入れていた政策が、護憲であり、憲法の理念に基づく男女差別の解消だった。
 土井氏は、父親が日本国籍の場合のみ、子どもに日本国籍を認める当時の国籍法を問題視。沖縄では米兵男性と日本人女性の間の子が無国籍となるケースが相次いでいた。母親が日本人の子も日本国籍とするよう何度も訴え、84年の国籍法改正につなげた。
 男性の方がたくさん食べるからという理由で、女性の生活保護費が男性より少ないことにも疑問を抱き、81年の国会で「私は、男性よりも食欲は旺盛」と当時の園田直厚生相に迫り、見直させた。女性だけが必修だった高校家庭科の男女共修化や、男女の雇用差別の解消にも力を入れた。

◆政策の形成過程、解明に期待

土井たか子氏との思い出を話す五島さん(左)と、坂本洋子さん

土井たか子氏との思い出を話す五島さん(左)と、坂本洋子さん

 ジェンダーに詳しい千葉商科大非常勤講師の坂本洋子氏は「日本は85年に国連の女性差別撤廃条約を批准したが、国籍法の父母同権と、雇用機会の均等、家庭科の男女共修にすることが条件で、それに土井さんは大きく貢献した」と話す。
 京都女子大の竹安学長は、メモ帳などの資料から、過去に土井氏のかかわった政策の形成過程が明らかになることを期待する。ジェンダーの視点でも「女性政治家がキャリア形成する過程の苦悩や葛藤、何が彼女をくじけさせなかったか、ということも分かってくるのでは」と話す。
 ただ、研究が始まるまでには時間がかかりそうだ。竹安学長は「研究に使うための資料整理や目録作りには、2〜3年はかかる」とみる。その上で、「土井さんが政治家としてあそこまでのキャリアを築けた要因は何だったのかを明らかにできれば、今後、政治を目指す女性の参考になっていくはず。大学として、その研究を支える体制を整えたい」と語った。

 土井たか子氏の略歴と言葉 1928年、神戸市生まれ。69年に社会党から出馬し、初当選。86年に社会党委員長に就き、「やるっきゃない」と決意表明。88年の政府・自民党の消費税導入案には「ダメなものはダメ」。89年の参院選の「マドンナ旋風」で自民党過半数割れに追い込み、「山が動いた」と語った。93年に衆議院議長、96年に社民党党首。2005年に引退し、14年に死去した。

◆デスクメモ

  土井氏が国会で問うた生活保護費の男女格差。「土井さんが『私は大飯食らい』と怒ったら、他の男性議員も『そうだ、その通り!』と言ったのよ」。五島さんが楽しげに振り返った。国籍法にも女性トイレがなかった国会にも。怒ってきた先人たちの行動の上に今の社会は成っている。(恭)