硫黄島からの手紙の「未来」 歴史の証言となるために(2024年8月4日『産経新聞』)

 論説委員・藤本欣也

栗林中将が長男の太郎氏に送った昭和19年11月の硫黄島からの手紙。太郎氏があとから赤線を引いている(藤本欣也撮影)

一冊の名著がある。梯(かけはし)久美子さんの『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』。正直に言うと、私はこの本をまともに読むことができない。己の不明を恥じるが故である。

終戦の5カ月前、太平洋の孤立無援の島、硫黄島で兵力・物量ともに勝る米軍を相手に激戦を繰り広げ、戦死した栗林中将の物語だ。彼の辞世の句「国の為(ため)重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」が、大本営によって「散るぞ口惜し」に改変され発表されていたことを世に知らしめた本である。

梯さんはこの史実を、栗林中将が硫黄島から家族に書き送った41通の手紙などの内容とともに本の中で明らかにした。

実を言えば私も、栗林中将の硫黄島からの手紙や電報を手に取って読んでいたのだ。梯さんの本が出る10年も前の1995(平成7)年に、である。

亡き父の教え

当時、栗林中将の妻、義井(よしい)さんは、長男で建築士の太郎さん一家とともに東京都昭島市に住んでいた。私はそのころ、連載「声なき声語り継ぎ 戦没者遺族の50年」の取材中だった。

戦中戦後の混乱にもかかわらず、硫黄島からの手紙は大切に保存されていた。しかし私が注目したのはその内容ではなく、家族がどう読んだかだった。

「お前は今迄意思の鍛練(たんれん)と云(い)ふ事を真剣に考へ、それに努力したかと云ふと必ずしもそうではないと思ふ。将来男として一家を立てる事は難しく、必竟(ひっきょう)人世の落伍(らくご)者となる…」

44(昭和19)年11月、20歳になった太郎さんに宛てた手紙だ。「意思の鍛練」と「将来~難しく」の横に赤線があった。太郎さんが父の教えを忘れないようにと引いたものだった。

文字が黒く塗りつぶされた義井さん宛ての手紙もあった。義井さん自らがペンで消したという箇所には「遺骨は帰らぬだろう…」などと書かれていた。

〝軍神の家〟栗林家の戦後は一変した。40歳を過ぎた義井さんには大学予科生だった太郎さんと、10歳のたか子さんが残された。取材の際には戦後の苦労について多くを語らなかった義井さんと太郎さん。ただ、手紙からははっきりと、妻と子の声なき声が聞こえてきたのだ。  

栗林中将が義井夫人に送った昭和20年1月の硫黄島からの手紙。義井さんが黒く塗りつぶした文字を、長男の太郎氏が判読して横に書いている(藤本欣也撮影)
栗林中将が義井夫人に送った昭和20年1月の硫黄島からの手紙。義井さんが黒く塗りつぶした文字を、長男の太郎氏が判読して横に書いている(藤本欣也撮影)

たか子さんにも取材をした。当時、埼玉県川口市で幼稚園の園長を務めていた。

「実は、硫黄島(で戦死した将兵)の遺族の方が私たちの家にお金を無心に来たことがありました、何度もね」

幼稚園でこう明かしたたか子さん。付近の通りに、市議を務めた彼女の長男のポスターが貼られていたのを覚えている。

戦争の悲しみ

国会議事堂を見下ろす大臣室で、新藤義孝氏(66)に会ったのは先月下旬のことだ。

あれから約30年。たか子さんの長男、つまり栗林中将の孫は国会議員に上りつめ、経済再生担当相の重責を担っていた。

「母には『自分はどうあるべきかを考えなさい』と厳しく鍛えられましたよ。『最も栗林忠道の性格を引き継いでいるのはたか子だ』と親戚の間で言われていましたから」

祖母の義井さんについては「上品で怒ったところを見たことがありません。でもそういえば、心から笑ったところも記憶にないですね」と振り返る。

「戦争の悲しみは決して癒えないということ。二度と国全体がそんな状態にならないようにするのが、私たちの務めです」

歴史の証言へ

栗林家を約30年ぶりに訪ねた。義井さんは2003(平成15)年に99歳で、翌年にたか子さん、その翌年に太郎さんが相次いで亡くなっていた。

太郎さんの長女、快枝(よしえ)さん(65)に改めて硫黄島からの手紙を見せてもらう。湿気を防ぐパラフィン紙とともに、クリアファイルに保管されていた。紙は劣化しているが文字はまだ判読できる。歴史的に貴重な資料をどう残していけばいいのか。快枝さんの悩みである。彼女もまた栗林中将の孫なのだ。

先月、新著『戦争ミュージアム―記憶の回路をつなぐ』を上梓(じょうし)した梯さんに聞いてみた。

「家族が手放したくないという間は家族が保管すべきです。でも、家族のものから『歴史の証言』になる時点があります。そのとき、硫黄島からの手紙をどこに託したらいいのか。日本には、あの戦争全体を振り返るような博物館がないのです」

散るぞ悲しき―。来年、戦後80年の節目を迎えるこの夏、硫黄島からの〝声なき声〟がまたひとつ聞こえた、と思った。(ふじもと きんや)