最低限のモラル(2024年3月20日『琉球新報』-「金口木舌」)

 「お上の事には間違いはございますまいから」。森鷗外の小説「最後の一句」に出てくるせりふだ。きょうだいで命を差し出し、死罪を言い渡された父の命乞いをする。それでもよいのか、という役人の問いかけに、娘のいちが言い足した言葉だ

▼いちの「一句」は、お上に間違いはないという役人の思い上がりへの抵抗、鋭い皮肉となった。憎悪を帯びたいちの目に驚いた役人は、父親の死罪を見送る
▼江戸時代中期を舞台としたこの作品は、鷗外自身の社会批判も込められているとされる。それは今日にも通じよう。私たちは政治の大きな過ちを目の当たりにしている。自民党派閥の裏金問題はその一つ
▼市長のセクハラ疑惑で揺れる南城市議会も「お上」の集まりだが、議会が執行部の監視機能を果たしているとは言い難い。疑惑を解明する第三者委員会の設置に、多数の議員が消極的だ
▼間違いを認めることは、民の上に立つ「お上」が心得るべき最低限のモラルであろう。民はひそかに「最後の一句」を用意していることを忘れてはならない。

 

「お前の申立には※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。
 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。
 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先おひさきの恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆けうさせられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒ほこさきは、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。