「オヤジ」から引き継いだもの 小沢一郎氏が語る田中角栄 没後30年(2024年3月2日『毎日新聞』)

わたしの「角栄

自らの夢に現れる角栄氏を思い出しながら、当時の心境を語る小沢一郎氏=東京都千代田区で2023年12月14日、内田帆ノ佳撮影拡大
自らの夢に現れる角栄氏を思い出しながら、当時の心境を語る小沢一郎氏=東京都千代田区で2023年12月14日、内田帆ノ佳撮影

わたしの「角栄」/1

 戦後最年少(当時)の54歳で総理大臣となり、「今太閤」と呼ばれた田中角栄元首相。1983年10月にロッキード事件で有罪判決を受けた後も政界への影響力を保持したことから「闇将軍」と呼ばれるなど、こわもてのイメージが強いが、新潟県内では「雪国のために尽力してくれた」と敬意を抱く人も多い。どんな人物だったのか。その素顔は。角栄氏が2023年12月16日、没後30年を迎えたのを機に、関係が深かった人たちからそれぞれの「角栄」像を聞いた。第1回は衆院議員の小沢一郎氏。【内田帆ノ佳】(全6回の第1回)

大元の哲学は「富の公平な配分」

 没後30年? そんなたったかな。田中先生の姿は今でも夢に出てくるよ。何かの拍子にね。

 引き継いだものは二つある。選挙と政策だ。選挙には戸別訪問やつじ立ち、ミニ集会とあるが、一人でも多くの地元の皆さんと触れ合って、思いをくみ取る。田中先生は、そこも徹底していた。政策では「日本列島改造論」に影響を受けた。「雪国を出稼ぎに行かなくてすむような郷里にしたい。三国峠をぶっ壊そう」と演説したのは心に響いた。彼の生まれ育った越後の雪深い故郷が、そういう発想の根底にあったんだな。田中先生の考えは(公共事業を導入する)物理的な側面も多いが、僕の考えの土台をつくってくれたと思う。

 オヤジは世間で言われている印象とは違って、気が弱いところがある。ロッキード事件が報道されて以降、酒をいっぱい飲んで、血糖値は(1㎗あたり)300(ミリグラム)まで上がった。僕より気が弱いかもしれない。

40人の参加者を集めた政策集団「創政会」の発会式であいさつする竹下登会長(中央)=東京都千代田区の砂防会館別館で、1985年2月7日撮影拡大
40人の参加者を集めた政策集団「創政会」の発会式であいさつする竹下登会長(中央)=東京都千代田区砂防会館別館で、1985年2月7日撮影

 でもやはり政治家同士だから、一番鮮烈に思い出されるのは選挙のことだ。「一軒一軒歩け」「握手しろ」と、若い頃はしょっちゅう言われたよ。オヤジがいた頃は、毎日のように東京・平河町の事務所に通った。将棋を指したりしたな。俺は(亡くなった角栄氏の)長男と同じ年だから、余計情が移ったんだと思う。田中先生と会うと、最後は必ず選挙の話になった。北海道1区から沖縄4区まで約300選挙区あるけれど、1、2時間ずっと話していた。国会議員の話だけではなく、それぞれの(選挙区における)地域のボスは誰だとか。すべて分かっていなければ、候補者選びも選挙もやれない。田中派で選挙に精通しているのは田中先生、竹下登氏、それに僕。この3人だった。

 1985年2月に梶山(静六氏)と中心になり「創政会」を立ち上げた時は、ロッキード事件の裁判があってオヤジの神経が参っていた。あれだけの権力を持っていたんだから、本気になれば今のように検察だって抑え込めたんじゃないか。だが、オヤジはあくまで民主的なんだ。民主主義は数だと。数を集めることで自分の正当性が証明される、そう思ったんだろうな。我々は反対したが(ロッキード事件後)どんどんと派閥に人を入れた。

 僕は、派閥内で後継者をつくらなければならないと考えていた。それは創政会を立ち上げた背景の一つでしかないが、オヤジは後継者をつくらない主義だったから、逆鱗(げきりん)に触れた。僕らは田中先生の直参の弟子だから、田中先生を外そうなどという気はまったくなかったが、オヤジから見れば、後継者は絶対に許せんと。

 田中先生とたもとを分かったわけではない。オヤジから直接「(創政会の立ち上げを)辞めろ」と言われれば、創政会なんてないさ。(ロッキード事件後に派閥入りした)オヤジの変な取り巻きがそそのかしたから、オヤジもカーッとなってしまったわけだ。こっちは子飼いだから、オヤジに反旗を翻すことはあり得ない。

 最後に会ったのは、オヤジが倒れる直前に開いた手打ちの宴会だった。仲直りを兼ねて赤坂の料理屋で若い連中を中心に40人くらい集めて、オヤジを呼んで席を設けた。オヤジは上機嫌で「愚者はしゃべり、賢者はしゃべらず。俺はもうこれからそんなにしゃべらない」と言った。今でも覚えている。

 (創政会立ち上げに)後悔はないよ。ただオヤジが、取り巻き連中の話を聞いて怒ってしまった。それは後悔といえば後悔。話し合いをしていれば、なんてことはなかった。

 戦後政治家であれほど迫力があって、政治を動かした人はいない。外交では日中国交正常化を成し遂げ、行動力と決断力があった。佐藤栄作内閣では自民党の幹事長、大蔵大臣などを歴任した。僕たちは当時、田中先生の前では直立不動だった。

 内政面でも、自民党の哲学の中で多くの活動をしてきた。表向きに公言してはいないが、自民党本来の哲学は「富の公平な配分」だ。マスコミは「自民党は地方出身議員が多いから田舎に予算を配分する」と言うが、そうではない。地方は担税能力がなく、経済発展の恩恵も少ないので、公平性を図るために税金を配分する必要がある。田中先生がよく言っていた地方への公共事業の導入は、この哲学が大元だ。

 今も命日には目白にお花を届ける。毎年のことだよ。コロナ禍もあって最近はお焼香はできていないけれど。本当にお世話になった大恩人であり、師。

創政会

 竹下登氏と金丸信氏が1985年2月に自民党田中派内に旗揚げした政策集団。竹下氏らが、当時キングメーカーとして政界に君臨していた田中角栄元首相と対立し、反旗を翻す形で立ち上げた。小沢一郎氏や梶山静六氏が立ち上げの中心的な役割を担った。立ち上げの20日後、角栄氏は脳梗塞(こうそく)で倒れ、そのまま政治の第一線から姿を消した。

小沢一郎(おざわ・いちろう)氏

 1942年5月、岩手県出身。慶応大卒。69年以来、衆院議員18回連続当選。自治相、自民党幹事長などを歴任。93年に自民党を離党。その後、新進、自由、民主、生活の各党などでも代表・党首を務めた。現在81歳と、政界最古参で立憲民主党に所属。