戦地へ向かった父の死を知り畑に崩れ落ちた母。食べ物は堅いトウモロコシくらい。衰弱した弟は終戦の日に命が尽きた。家族を失った母の涙を克明に思い出す【証言 語り継ぐ戦争】(2024年12月21日『南日本新聞』)

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父清為さんの遺影や職員録を手にする黒木義廣さん=曽於市大隅町岩川
■黒木義廣さん(83)曽於市大隅町岩川
 警察官だった父清為が鹿屋警察署に赴任していた1941(昭和16)年1月、四男として生まれた。官舎で生活した思い出はあるが、父の記憶は全くない。
 父は沖縄への増援部隊として輸送船「富山丸」に乗り込んでいた太平洋戦争終盤の44年6月、米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈され、徳之島町亀徳沖に沈んだ。34歳だった。
 約3カ月後、死亡通告書が届き、畑作業をしていた母エミは倒れるように泣き崩れた。
 戦死後、官舎を出なければならなくなり、父の実家がある曽於市大隅町岩川に移り住んだ。家の裏手には防空壕(ごう)があり、兄に服を引っ張られながら度々逃げ込んだ。食べるものがなく、2歳下の弟義昭にも堅いトウモロコシを食べさせるしかなかった。何もかも不足し、薬もない時代。弟は次第に衰弱し、8月15日の終戦の日に息を引き取った。
 幼かったこともあり戦争の記憶はほとんどない。しかし、家族を失った時の母の涙は克明に覚えている。母の泣いた顔を見たのはこの2度だけだった。
 経済的に進学する余裕はなく、中学を出て16歳で大工に弟子入りした。父が勤めたことのある旧百引駐在所(現鹿屋市輝北)周辺を仕事で訪れると、住民から「黒木さんの息子か」と歓迎された。父を覚えていてくれる人がいることがうれしかった。
 父を近くに感じようと22歳の頃、富山丸の慰霊祭に初めて参加した。絶対に泣かないと決めていたが、沈没海域に菊を手向けると涙をこらえきれなくなった。以来30回以上、父の眠る海を訪れている。
 今年は沈没から80年の節目。撃沈された6月29日に鹿児島市護国神社であった慰霊式に出席すると、思わぬ出会いがあった。
 太平洋戦争で死没した元県警職員の遺族に当時の職員録の写しを配布している県警OBの川原裕さん(74)=鹿児島市上福元町=の知人と知り合い、職員録の写しを送ってもらうことになったのだ。
 職員録は川原さんの父で同じく県警OBの高秋さんの遺品。84年前の40年に発行された。11月中旬、届いた職員録を見ると、父の欄には「司法係(看守)」と役職が記されていた。どんな仕事をしていたのか初めて知った。形見として仏前に供えた。
 記憶や思い出がなくても、今の自分があるのは両親のおかげと、この80年間亡き父に思いを寄せてきた。一方で「おやじさえ生きていればこんな苦労はせずにすんだ」と思ったことは何度もある。
 各地の紛争で報じられる子どもたちの姿は自分や死んだ弟と重なる。96歳で亡くなった母が踏ん張ってくれなければ生き延びられなかった。戦争なんて絶対にしてはいけない。