ノーベル平和賞の授賞式が日本時間の10日夜、ノルウェーの首都オスロで行われ被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会にメダルと賞状が授与されました。
演説を行った代表委員の田中熙巳さんは「核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」と訴えました。
授賞式は、ノルウェーのオスロ市庁舎で日本時間の10日午後9時から行われ、日本被団協の役員や支援者のほかノルウェーのハラルド国王などが出席しました。
代表委員の田中熙巳さん(92)、田中重光さん(84)、箕牧智之さん(82)の3人が登壇し、メダルと賞状を受け取りました。
このあと13歳のときに長崎で被爆し、伯母や伯父など5人の親族を亡くした田中熙巳さんが演説を行いました。
田中さんは「ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇など『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます」としたうえで、「核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります」と述べました。
そして、「想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、加害者になるかもしれない状況がございます。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」と訴えました。
最後に「人類が核兵器で自滅することのないように、そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と述べ、およそ20分間の演説を終えると、会場は大きな拍手に包まれました。
被団協は、今月12日までオスロに滞在し、それぞれの被爆者が各国メディアの取材に応じたり、地元の学校で被爆体験を証言したりする予定で核兵器の廃絶などを世界に訴えることにしています。
代表委員 田中熙巳さん「しっかり言えたかなと思う」
出席者は
「高校生平和大使」の代表4人は
「高校生平和大使」の長崎、広島、熊本の代表4人は、授賞式に出席したあと、取材に応じました。
長崎県の被爆3世の大原悠佳さんは、「なぜ被爆者の方々がいま、ノーベル平和賞を受賞したか、なぜ私たちが活動をするのか、その意味を認識できました。被爆者の声を聞き、その声を未来や世界に残し、核兵器も争いもない世界を今を生きるすべての人とともに作っていくべきだと感じました」と話していました。
長崎県の被爆3世の津田凛さんは、「オスロで私の大好きな長崎の79年前の話が聞けるとは、1年前には思ってもみませんでした。授賞式では涙を流している人もいて、私たちは被爆者の心を受け継いでいかなければならないと改めて思いました」と話していました。
広島県の甲斐なつきさんは、「田中代表委員の『10年後には被爆者が何人残っているかわからない』ということばが特に印象に残りました。私自身もすでに亡くなった被爆者の曾祖父や曾祖母がいるので、被爆者の思いや怒りをどう後世につないでいくかが課題として見えた貴重な経験でした」と話していました。
熊本県の島津陽奈さんは、「鳥肌の立つような授賞式で、日本被団協の方の核兵器廃絶への強い願いや思いを生で感じ、私たち若い世代が引き継いでいかなければならないと強く実感しました」と話していました。
4人は11日、オスロで現地の若者と核問題について議論するイベントに参加する予定です。
- 注目
代表委員 田中熙巳さんの演説全文
国王ならびに王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいま紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人であります、田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してごあいさつをする機会を頂きありがとうございます。
私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動であります。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動であります。
この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。
私は長崎原爆の被爆者の一人であります。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅において被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。しかし、ガラスが一枚も割れていなかったのはこれは私の奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。
長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の安否を尋ねるために訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りの東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されておりました。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでありました。一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなったそうです。
一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。
長崎原爆は上空600メートルで爆発し、放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。
その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。
生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本政府からも見放されました。被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」を被ばく、大きな事件になりました。中でも第五福竜丸の乗組員23人が全員被ばくし、急性放射能症を発症し、捕獲したマグロはすべて投棄されることになりました。
この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が日本に始まりました。世界でも始まりました。燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年、第2回世界大会が長崎で開かれました。この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されたのであります。結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明したのであります。「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのであります。
運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。
さらにもうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。
1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたるすべての被害を加えるというものでありました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くいたしました。
1994年12月、この2つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。
これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適用されていませんでしたが、日本で被爆し、母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、このほかに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみ、それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は共同し、裁判など活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになってまいりました。
私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。これら集会での証言に日本被団協に対する依頼が続いたのであります。
1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展いたしました。
2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出いたしました。その結果でもありますが、2017年7月7日に122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。これは私たちにとって大変大きな喜びでありました。
さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。
一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきました、NPO法人の「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在であります。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してまいりました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待いたします。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動が大きく展開してくださることを強く願っています。
世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!ありがとうございました。
ノーベル委員会委員長「決して諦めてはならない」
授賞式でフリードネス委員長がスピーチを行い、受賞した日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会について「核兵器のない世界の実現に向けた努力、特に核兵器が2度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」と説明しました。
日本被団協と、代表委員の田中熙巳さん箕牧智之さん、田中重光さんの名前を挙げ、「これまで生涯行ってきた、そしてこれからも続けていくであろう、貴重な活動に対し深く感謝の意をささげたい」と述べました。
そのうえで「大国が核武装へと世界を導くなか、恐怖の念にかられながらも沈黙を拒否した。立ち上がり、かけがえのない証人として自身の体験を分かち合う選択をした」と述べました。
そして「核兵器のない世界への道のりはまだ長いと言わなければならない。たとえどれほど長く困難な道のりであっても、私たちは日本被団協から学ぶべきだ。決して諦めてはならない」と訴えました。
- 注目
代表団の今後のスケジュールは
【現地時間の10日】
・正午
代表委員の田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さんの3人がノルウェー王宮を訪れ、ハラルド国王とソニア王妃に謁見します。
・午後1時~(日本時間10日 午後9時~)
オスロ市庁舎でノーベル平和賞の授賞式が始まります。式では、3人の代表委員にメダルと賞状が授与されたあと、田中熙巳さんが20分間、演説を行います。
・授賞式終了後
宿泊先のホテルの前で代表団の記念撮影が行われる予定です。
・午後5時~(日本時間11日 午前1時~)
中東の衛星テレビ局アルジャジーラのインタビューに田中重光さんと箕牧さんが応じます。
・午後6時~(日本時間11日 午前2時~)
被爆者やオスロ市民がたいまつを持って市内を歩いて平和を願う「トーチパレード」が行われ、3人の代表委員がホテルのバルコニーから参列者にあいさつをすることになっています。
・午後7時~(日本時間11日 午前3時~)
受賞を祝う公式の晩さん会が開かれます。
【現地時間の11日】
・午前
3人の代表委員がノルウェーのストーレ首相と面会します。
・午後
ノルウェー放送協会で田中熙巳さんなどへのインタビューが行われるほか、それぞれの被爆者が地元の高校や大学などで証言活動を行います。
・夕方
ノーベル平和センターで開かれる日本被団協の活動を紹介する展示会のオープニング式典に被爆者たちが出席し、夜には宿泊先のホテルでお別れの晩さん会が行われます。
【現地時間の12日】
・朝
代表団はオスロを離れ、帰国する予定です。
代表団 ホテルで記念撮影「授賞式 自然体で臨みたい」
授賞式を前に日本被団協の代表団は、日本時間の10日午後5時ごろに宿泊しているホテルで記念撮影を行いました。
一行は少し緊張した様子も見られましたが、終始、にこやかに撮影に応じていました。
撮影のあと代表委員の田中熙巳さんは、このあとの授賞式について「順調です。世界に報道されるので頑張りたい。緊張してもしかたないので自然体で臨みたい」と話していました。
代表委員の田中重光さんは「非常にうれしい思いと不安な気持ちがあります」と話していました。
また、亡くなった妹が作った花飾りを胸につけて授賞式に出席する代表理事の横山照子さんは「妹は『核兵器を廃絶してほしい、そして自分のような被爆者を2度と作らないでほしい』と言っていました。今回のノーベル賞受賞で、核兵器がなくなるわけではないが、それが実現できるかは私たちのこれからの活動にかかっていると思う。そういう意味ではまだまだだから、妹には、もう少し力を貸してほしいという願いも込めて、授賞式に臨みたいです」と話していました。
「核兵器も戦争もない世界を作ろう」 芳名帳に署名
授賞式を前に、代表委員の田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さんの3人が9日、ノーベル研究所を訪問し、それぞれ芳名帳に署名しました。
芳名帳には田中熙巳さんが「核兵器も戦争もない世界を作ろう」と記し、「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員 田中熙巳」と署名しました。
また、箕牧さんがローマ字で「TOSHIYUKI MIMAKI」と、田中重光さんが漢字で「田中重光」と署名しました。
田中熙巳さんは署名を前にノーベル研究所で開かれた記者会見に臨み「核が軽く語られる、核兵器を使うことが軽く語られるような時代になったことは大変、私たちにとって遺憾で、悲しい思いがします。最大限の力を振り絞って核兵器は人類と共存させてはならない兵器だと若い人たちに伝えていきたい」と述べました。
授賞式で田中熙巳さんは20分間の演説を行い、核の脅威が高まるなか、核兵器の廃絶などを改めて世界に訴えることにしています。
授賞式前に会見「改善への前進 期待」
これまでともに活動した被爆者について問われると、「もう10年早かったらな、あなたたちの大部分はこの喜びを共有できたよなという気持ちがあります。ですけれども、間違いなく彼らの運動もつながっているわけですから、あなたたちに対する受賞でもありますよと伝える、そういう気持ちです」と述べました。
10日の演説に向けては、「ものすごい重圧を感じております」などと心境を述べました。
《多くの海外メディアも出席して質問》
ノルウェーのメディアは防衛のために核兵器が必要だと主張する国へのメッセージについて尋ね、田中さんは「核兵器で本当に国が守れるのか。私たちは、核兵器で国民の命や大切なものを守ることはできないと確信していて、抑止力は存立しえないと思っている」と答えました。
別のノルウェーのメディアから今回の受賞がどのような影響を与えることを期待するか問われたのに対し、田中さんはロシアが「核戦力による威嚇」を繰り返しているなどと述べたうえで、「核兵器を使うことが軽く語られるような時代になったのは遺憾で悲しい。後退しつつある核兵器をめぐる情勢が受賞を機に前進してくれると期待している」と答えていました。
ロイター通信からロシアのプーチン大統領へのメッセージを問われた際は、「核兵器を使うことは人道に反するという抗議のことばを日本被団協として送ったと記憶している。人間にとってどういう兵器かについて、考えたことも理解したこともないと思っているので、その考え方をどのように変えていけるかだ」と指摘しました。
韓国のメディアから今回の日本被団協の代表団に韓国やブラジルに住む被爆者を含めた理由を問われると、「韓国やブラジル、メキシコ、それにアメリカにいる被爆者たちは広島や長崎で同じ被害にあい、苦しみながら核兵器を使ってはいけないと叫び続けてきた。こうした被爆者と共同の闘いがあったということを、世界の人にも知っていただきたいと思った」と述べ、国境を越えて核兵器廃絶への思いを共有していることを強調しました。
ノーベル委員会 委員長「とても光栄」
【全文】 田中熙巳さん 授賞式前日会見
授賞式の流れ
ノーベル平和賞の授賞式は、日本時間の10日午後9時から、ノルウェーの首都・オスロの市庁舎で行われます。授賞式には田中熙巳代表委員、田中重光代表委員、箕牧智之代表委員が登壇する予定で、3人は、式が始まる5分ほど前にノーベル委員会のメンバーとともに市庁舎に入場します。
《式次第》
式は1時間あまりで、日本時間の午後9時にノルウェー王室のハラルド国王、ソニア王妃、ホーコン皇太子、マリット皇太子妃、それにオスロ市のリンボー市長が入場します。
そして午後9時10分ごろ、ノルウェー・ノーベル委員会のフリードネス委員長が受賞理由などを説明します。
このあと午後9時半ごろにフリードネス委員長からメダルと賞状が授与され、日本被団協を代表して、3人の代表委員が受け取る予定となっています。
午後9時40分ごろには、田中熙巳代表委員が20分間、受賞の演説を行い、自身の被爆体験や、核兵器の廃絶などを世界に訴えます。
最後に、3人の代表委員がハラルド国王をはじめとするノルウェー王室から直接、祝福を受けます。
《音楽の演奏も》
式の合間には、合わせて4回の音楽演奏が予定されています。
演奏はノルウェーのソプラノ歌手のマリ・エリクスモーンさん、ドイツのベルリンを拠点に活動する三味線を用いたバンドの「Mitsune 蜜音」、ノルウェー民謡やオペラ楽曲などを融合させた音楽が特徴とされる「ホーコン・コーンスタッド・トリオ」というグループです。
このうち「Mitsune 蜜音」は、公式サイトなどによりますとメンバーに日本人も含まれ、日本の伝統的な民謡をベースにした楽曲などをヨーロッパを中心とした各国で披露してきたということです。
毎年、ノーベル平和賞の授賞式では音楽の演奏が行われていて、去年、イランの人権活動家のナルゲス・モハンマディ氏が平和賞を受賞した式では、イラン出身の歌手などが楽曲を披露しています。
《会場でリハーサルも》
授賞式の会場となる市庁舎ではリハーサルが行われました。
日本時間の9日午後10時半ごろ、日本被団協の代表委員の3人が到着すると、オスロ市の市長が出迎え、「オスロに来てくれてありがとうございます」などと1人ずつ声をかけていました。
リハーサルは1時間余りにわたって非公開で行われ、ノーベル委員会によりますと、代表委員の3人はメダルや賞状を受け取る作法を確認したり、スピーチの一部を実際に読んだりして、式の流れを確認していたということです。
ノーベル平和賞のメダルと賞状
ノーベル平和賞の公式ホームページなどによりますと、現在のノーベル平和賞のメダルは18金製で、直径は6.6センチ、厚さは5ミリ、重さは196グラムだということです。
1901年にノルウェーの彫刻家がデザインし、表面にはアルフレッド・ノーベルの肖像が描かれ、その周りにはノーベルの名前と生まれた年、亡くなった年が刻まれています。裏面には肩を寄せ合う裸の男性3人が描かれ、その周りにはラテン語で「人類の平和と友愛のために」と刻まれていて、デザインは一貫して変わっていないということです。
毎年、ノーベル平和賞の受賞者が発表されたあとに、ノルウェー造幣局が鋳造していて、メダルの縁には受賞者の名前と受賞年が刻まれるということです。
また、ノーベル平和賞の賞状には、「ノルウェーのノーベル委員会は、アルフレッド・ノーベルが残した遺言の条項に従い、ノーベル平和賞を授与した」と、ノルウェー語で書かれています。
装丁は、ノルウェーの現代アーティストに依頼して毎年新たにされ、賞状の製本を手がける職人が、メダルのケースも作っているということです。
日本被団協 被爆者の声を68年にわたって世界に発信
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、広島や長崎で被爆した人たちの全国組織で、核兵器廃絶を願う被爆者の声を68年にわたって世界に発信してきました。
日本被団協が結成されたのは広島と長崎に原爆が投下されてから11年後の1956年です。
当時は、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくしたことをきっかけに国内で原水爆禁止運動が高まりを見せていました。
結成の宣言で、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」と訴えました。
1984年には国による原爆被害の補償と核兵器の廃絶を求めた「原爆被害者の基本要求」を策定し、活動の柱となっています。
原爆被害の実相を伝えるため積極的に海外でも発信を行い、1982年には代表委員の山口仙二さんが、国連の軍縮特別総会で被爆者として初めて演壇に立ちました。
14歳の時に長崎で被爆した自身の経験を語り、やけどを負ったみずからの写真を示しながら、「ノーモア ヒロシマ ノーモア ナガサキ ノーモア ウォーノーモア ヒバクシャ」と訴え核兵器の廃絶を迫りました。
その後も、日本被団協は、国連や世界各地で原爆の写真展を開くなど地道な活動を続け、「ヒバクシャ」は世界に通じる言葉となりました。
原爆投下から60年となる2005年には、ノーベル平和賞の有力候補として挙げられ、受賞は逃したものの、ノーベル委員会の委員長が、「長年、核廃絶に取り組んできた」と敬意を表しました。
アメリカのオバマ元大統領が2016年に現職の大統領として初めて広島を訪問した際は、代表委員の坪井直さんが「原爆投下は人類にとって不幸な出来事だった」と直接伝えました。
さらに核兵器廃絶に向けた国際的な取り組みにも関わり、2017年に採択された核兵器禁止条約の交渉会議では、およそ300万人分の署名を集めて目録を提出し、条約の採択を後押ししました。
条約の前文には、「被爆者が受けた容認し難い苦しみに留意する」、「被爆者が行っている努力を認識する」として、被爆者に寄り添うことばが盛り込まれました。
そして、すみやかな核兵器の廃絶やすべての国が核兵器禁止条約に参加することを求める「ヒバクシャ国際署名」を続け、最終的に1370万人分あまりの署名を国連に提出しました。
近年はオンラインを活用して被爆者の証言を伝える取り組みを進めているほか、2022年に開かれたNPT=核拡散防止条約の再検討会議で被爆者がスピーチを行うなど、核兵器の恐ろしさや悲惨さを証言し、核廃絶の必要性を世界に訴え続けています。
一方、被爆者の高齢化が進み、かつてはすべての都道府県に日本被団協に所属する団体がありましたが、これまでに11の団体が解散・休止を余儀なくされています。
こうした中で被爆者の子どもの「被爆2世」や支援者などが活動に関わるところが増えつつあり、次の世代へと引き継ぐ動きも広がっています。
【代表委員 田中熙巳さん】90歳超えても精力的に活動
田中熙巳さんは、日本被団協の役員の中で最高齢の92歳です。
13歳だった1945年8月9日、長崎市に原爆が投下され、爆心地から3キロあまり離れた自宅にいた田中さんに大きなけがはありませんでしたが、爆心地近くにいた伯母や伯父など5人の親族を亡くしました。
原爆投下の3日後、伯母たちの安否を確認するため爆心地近くを訪れとき、多くの遺体と、救援もないまま痛みに苦しみ亡くなっていく人たちを見て、このような惨状は二度と起こしてはいけないと強く感じたといいます。
大学を卒業後、工学系の研究に取り組むかたわら被爆者運動に参加し、日本被団協の事務局長を20年にわたって務めました。
2016年に当時のアメリカのオバマ大統領が現職の大統領として初めて広島市を訪れた際は平和公園での献花に立ち会いました。
その翌年、代表委員に就任したあとも国内外で核兵器の廃絶を訴えたり、広島や長崎で被爆した人たちの原爆症の認定をめぐって基準の見直しを政府に求めるなど90歳を超えても精力的に活動を続けています。
ノーベル平和賞の受賞が決定した際には、「核兵器は、絶対に使われてはいけない。被爆者は高齢化しても若い世代が運動を引き継いで大きな声で訴え続けてほしい」と話していました。
【代表委員 田中重光さん】被爆者の要望伝えてきた
田中重光さん(84)は、長崎市に隣接する現在の長崎県時津町で生まれました。
被爆したのは、爆心地から6キロほど離れた自宅で、当時4歳だった田中さんに直接的なけがはありませんでしたが、強い光と爆風が吹いたことを覚えているといいます。
みずからの「赤い背中」の写真を掲げて国連などで核兵器廃絶を訴えた被爆者の谷口稜曄さんが2017年に亡くなり、そのあとを継いで日本被団協の県内の被爆者団体の代表に就任し、その翌年には、日本被団協の代表委員に選ばれました。
その後は、被爆の実相を伝える子どもたちへの語り部活動を続けているほか、毎年8月9日の「長崎原爆の日」に総理大臣と面会し、核兵器禁止条約への署名・批准など被爆者の要望を伝えてきました。
ノーベル平和賞の受賞決定の際には、「先輩たちは偏見、差別、口には出し切れない苦労をして運動を続けてきた。本当に感謝したい」と亡き被爆者への思いを口にしていました。
【代表委員の箕牧智之さん】米国で若者に被爆証言
箕牧智之さん(82)は、1942年に東京・板橋区で生まれ、東京大空襲をきっかけに、父親のふるさとの広島に疎開しました。
原爆投下当時、箕牧さんは3歳で、爆心地からおよそ17キロ離れた現在の広島市安佐北区の自宅にいました。
広島駅の近くで働いていた父親を捜すため、原爆投下の翌日、母親と1歳の弟とともに広島市内に入って被爆しました。
異様な臭いが漂っていたことを鮮明に覚えているといいます。
おととし(2022)、広島の被爆者の先頭に立ってきた坪井直さんのあとを引き継いで日本被団協の代表委員に就任し、核兵器禁止条約の2回目の締約国会議が行われた際には、アメリカ・ニューヨークに渡って会議を見守りながら、現地の若者に被爆証言を行うなど活動を続けてきました。
今回、ノーベル平和賞の受賞が決まった際は、「夢の夢。うそみたいだ」と、ほおをつねって、涙を流して喜んでいました。
広島と長崎の原爆被害とは
広島と長崎に原子爆弾が投下されたのは79年前の1945年8月です。
8月6日、アメリカ軍の爆撃機から広島市に投下された原爆は、上空およそ600メートルで爆発し、爆風や熱線によって半径2キロ以内にあるほとんどの建物が破壊されました。爆風と熱線、それに放射線によってその年だけでおよそ14万人が死亡したと推計されています。
8月9日には長崎市にも投下され、昭和20年だけで7万人以上が亡くなりました。爆心地では地表面の温度が3000度から4000度に達したと推定されています。被爆直後には目立った外傷がなくても、当時受けた放射線によってその後、白血病やがんなどを発症する被爆者もいます。
人類史上、核兵器が実際に使用されたのは広島と長崎だけで、その影響はいまも続いています。