柳田国男の未発表書簡2通見つかる 離島の昔話を収集、民俗学への熱意もにじむ<ニュースあなた発>(2024年2月19日『東京新聞』)

日本民俗学の祖として知られる柳田国男(1875~1962年)が、鹿児島県の離島・甑島(こしきしま)の調査協力者に送った未発表の書簡が東京都世田谷区で見つかった。日本文化の保存に情熱を注ぐ柳田の思いと、戦争前後の日本を地方で支えた協力者の姿が垣間見える。(酒井健
1956年、梶原氏(左から4人目)が東京都内の柳田(同2人目)宅を訪れ、初めて対面した際の写真=福原雄三さん提供

1956年、梶原氏(左から4人目)が東京都内の柳田(同2人目)宅を訪れ、初めて対面した際の写真=福原雄三さん提供

 柳田国男(やなぎた・くにお) 兵庫県生まれ。農商務省に入省し、貴族院書記官長などを歴任。庶民の歴史や文化を明らかにしようと方言や民間伝承を研究し、岩手県遠野地方の伝承を記した「遠野物語」や、日本人の源流を求めた「海上の道」などを著した。

柳田が梶原氏に宛てた1954年の書簡(全4枚のうち3枚目)。「大戦後、ほとんど絶滅に近くなった民間伝説の研究の為」と記されている(福原雄三さん提供)

柳田が梶原氏に宛てた1954年の書簡(全4枚のうち3枚目)。「大戦後、ほとんど絶滅に近くなった民間伝説の研究の為」と記されている(福原雄三さん提供)

◆当時の学会への批判的な視線も

 書簡は、上甑島にあった里村(現・薩摩川内市)の村長を務めた故・梶原仲吉氏宛ての2通。1通目は1927(昭和2)年、柳田が実施する方言調査への協力依頼。2通目は54(同29)年、柳田が編さんした「全国昔話記録」シリーズ「甑島昔話集」(岩倉市郎著、44年)の再刊を望む柳田が、梶原氏に主導的な役割を期待し、協力を仰げそうな人物を紹介している。
 柳田は2通目で、再刊の意義を「大戦後、ほとんど絶滅に近くなった民間伝説の研究の為(ため)」と記し「日本の学問はただ英米の糟(かす)をなめるに忙しく、国に特殊なる問題とその解説を永古の闇に葬り去らんとする」と、当時の民俗学研究の動向を批判的に捉えている。また、刊行前に他界した岩倉氏の遺児で当時13~14歳だった娘に、再刊で「収入を得させたい」と書き、情に厚い面も見せている。
 柳田に詳しい北星学園大(札幌市)の宮崎靖士教授は「柳田が個々の島や地域の歴史と実情を明らかにし、記録しておくことが自らの学問の中軸と考えていると分かる」と指摘。「甑島という具体的な場所の伝説や方言に改めて目を向け、重要性を訴えている熱意が注目される」と評価する。
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◆暇さえあれば本を読んでいた父の形見に

 書簡を保管し、本紙に情報を寄せたのは、梶原氏の三男で、世田谷区でクリーニング店を営む福原雄三さん(82)。甑島で生まれ20歳で上京、結婚して妻の実家の家業を継いだ。書簡は梶原氏が他界した90年、実家から形見分けで受け取ったという。
書簡を手にする福原雄三さん=東京都世田谷区で

書簡を手にする福原雄三さん=東京都世田谷区で

 父の梶原氏は1900(明治33)年生まれ。戦後を含め村長を2度、戦時中は村の郵便局長も務めた。村長として開戦直前に島への海底電話線の敷設を実現し、郵便局では戦争末期に甑島上空を通過する敵機の情報を本土に電送し続けたことを書き残している。
 柳田と梶原氏のやりとりは戦前に始まり、戦後も続いたことが書簡から分かる。2通目の書簡の2年後の56年、2人は東京の柳田宅で初の対面を果たしたという。福原さんは父について「暇さえあれば本を読んでいた。(村長として出席した)中学校の卒業式で『柳田国男に会った』と話していた」と振り返った。

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