風船爆弾放球台跡(北茨城大津)
太平洋戦争末期、旧日本軍は米国本土を攻撃する「風船爆弾」を開発した。いわき市勿来(なこそ)など国内3カ所での放球から80年が経過した。公的な資料はほとんど残されておらず、遺構も朽ち果て、人々の記憶から忘れ去られようとしている。数少ない証言とともに放球台などの遺構を保存し、戦災の史実を次代に語り継ぐ必要がある。
左;実物/右レプリカ(江戸東京博物館)
風船爆弾は、上空1万メートルの偏西風に乗せて北米大陸を無差別爆撃する極秘作戦で、直径10メートルの気球に爆弾をつり下げる構造だった。山に囲まれ、太平洋岸に近いなどの理由から勿来と茨城県北茨城市、千葉県一宮町が放球基地に選ばれた。1944(昭和19)年11月から翌年4月にかけて約9300発が放たれ、約1000発が到達したとされる。オレゴン州で民間人6人が犠牲になった。勿来基地で地上破裂の誤爆事故が放球直前に起き、3人が死亡している。
気球は和紙をコンニャクのりで何層にも貼り合わせて製造した。全国各地から10代の女子学生を大量動員して作業させた事実も見逃せない。
いわき市勿来関文学歴史館が昨年4月から9月に催した企画展「語り伝えたい記憶~風船爆弾と学徒動員」は大きな反響を呼んだ。地元在住の画家金沢裕子さんが関係者の証言を基に描いたイラストは想像を膨らませた。若い世代へ不戦の誓いを継承する貴重な機会になったはずだ。
市教育文化事業団の梛良[なぎら]幸広研究員は5年前から基地周辺を現況調査している。12基あった放球台は半分が道路工事で埋設されたとみており、「残された基地の正確な復元を試みることで風化を食い止めたい」と語る。「周知の埋蔵文化財包蔵地」に登録されれば、調査をしないままの開発に歯止めがかかる。登録には地域社会での広範な認識が求められる。関係機関が遺構の重要性を共有して市民の機運を高め、保存策を速やかに講じてほしい。
地元の民間団体が2008(平成20)年、基地跡に「基地図」を掲示した。しかし、公的な案内板は見当たらない。戦争遺跡としての価値を見直す取り組みも不可欠だ。