3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査(2024年2月14日『東京新聞』)

 太平洋戦争中、日本軍に捕らえられた連合国軍兵士らの実態を調べてきた市民団体「POW研究会」が、20年を超える活動の集大成を960ページに及ぶ事典にまとめた。米英やオランダなど国別の人数や収容施設名、生存・死亡など確認できた内容を網羅。共同代表の笹本妙子さん(75)=横浜市=は「調べるほど新しい事柄が分かる。知らなかったのは恥ずかしいと思った。もうあってはならないこと」と語る。(神谷円香)
大船駅(神奈川県鎌倉市)の捕虜たち。1945年9月1日撮影(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)

大船駅(神奈川県鎌倉市)の捕虜たち。1945年9月1日撮影(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)

◆130カ所の年表や収容人数など網羅

 事典「捕虜収容所・民間人抑留所事典―日本国内編―」(すいれん舎)では、1942~45年に全国各地にあった約130の捕虜収容所を1カ所ずつ紹介。地図とともに、開設から閉鎖までの年表と収容人数、死亡者数を載せた。
 日本占領下のアジアの国などで捕虜になったとされる連合国軍兵士ら14万~16万人のうち、約3万6000人が日本に連行され、終戦までに約3500人が亡くなったと指摘。倉庫を改造するなどした建物に居住し、埠頭(ふとう)での貨物の積み降ろしや工場での作業といった重労働を強いられたことも記している。

◆母国への通報恐れ?民間人も1200人抑留

第2次世界大戦中の日本による捕虜についてまとめた「捕虜収容所・民間人抑留所事典」

第2次世界大戦中の日本による捕虜についてまとめた「捕虜収容所・民間人抑留所事典」

日本に住む外国籍の民間人を収容した6都県29カ所の抑留所については、41年12月の開戦と同時に運営が始まったことや、対象が若い男性から次第に女性へと広がっていった経緯などを詳述。当初は教会や修道院を転用し、戦争末期には地方移転があったことも明らかにしている。
 調査を中心的に担った元教員の小宮まゆみさん(72)は「身柄保護を名目としたが、日本の情報を母国に渡すかもしれないと恐れたのが抑留の理由。敵とする国も増え、約1200人に上ったとみられる」と話す。

◆亡くなった捕虜の名簿公開で家族から連絡も

 調査、執筆は笹本さんと小宮さんを中心に、計6人が7年かけた。国内には関連する資料が乏しく、米国公文書館をはじめ海外から情報を入手。日本政府が終戦後、各国に渡した外国人捕虜の記録「銘々票」は、日本側も保管しているはずだが非公開で、オランダなどの公文書館が公開する情報を集めた。収容所、抑留所の跡も全て訪れたが、当時の名残がある場所はほとんどないという。
「事典」について話すPOW研究会の笹本妙子共同代表(左)と小宮まゆみ副事務局長

「事典」について話すPOW研究会の笹本妙子共同代表(左)と小宮まゆみ副事務局長

 POW研究会は2002年、笹本さんが外国人捕虜に詳しい研究者とともに始めた。亡くなった捕虜の名簿をウェブサイトで公表すると、海外の元捕虜やその家族らから連絡が来た。日本語で書かれた「銘々票」の英訳を請け負い、「憎しみを抱えたまま死にたくない」と来日する元捕虜らを収容所跡などに案内もしてきた。
 税込み2万3100円の事典は昨年12月に出版したが、日本軍が海外に設けた収容所の情報を調べ、まとめる作業が残る。約80人の会員は多くが高齢で、笹本さんは「海外編の事典は次の世代がつくってくれたら」と期待を寄せる。
東京・大森捕虜収容所で迎えの船に歓呼する捕虜。1945年8月30日撮影(Robert R.Martindale氏提供、米国立公文書館所蔵)

東京・大森捕虜収容所で迎えの船に歓呼する捕虜。1945年8月30日撮影(Robert R.Martindale氏提供、米国立公文書館所蔵)

終戦直後、民間人抑留所だった東京・聖母病院に連合国軍が救援物資を投下した(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)

終戦直後、民間人抑留所だった東京・聖母病院に連合国軍が救援物資を投下した(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)


1944年のクリスマスを過ごす捕虜たち(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)

1944年のクリスマスを過ごす捕虜たち(工藤洋三氏提供、米国公文書館所蔵)