筆者が「霞が関で殉職しない方法 睡眠奪う労働は人権侵害」を書いて以降、霞ヶ関、永田町界隈から多くの反響をいただいた。そのなかには、「官僚の現状について、理解していただいてありがとう」という肯定的な意見もあったが、メンタルクリニック受診歴のある元・職員からは、「薬でごまかすだけで、頼りにならなかった」という意見も寄せられた。
筆者は、すべての精神科医を弁護する立場にはないが、ひとこと、言い訳を申し上げておく。精神科は元来、「精神障害者」御用達であった。一方、霞ヶ関の官僚諸氏は、いかなる意味でも「精神障害者」ではない。当然ながら、誰一人「患者扱い」など求めていない。ここにミスマッチの原因がある。
官僚は精神医学にとって「規格外」
筆者が霞ヶ関人を診ることができるのは、環境に恵まれたからにすぎない。外勤先は、国家公務員共済組合連合会虎の門病院出身の精神科医(現・理事長)が立ち上げたクリニックで、同院精神科初代部長が院長を務めた時期もあった。その後、理事長の高校の後輩で、獨協医科大学埼玉医療センターの筆者が非常勤として関わり、医局員を送りこんだ。
同センターの精神科は、「こころの診療科」の呼称で、精神療法中心の方針を打ち出している。したがって、このクリニックの診療は、官僚御用達病院の実践知と、大学病院の「薬に頼らない」治療ノウハウとのハイブリッドである。
また、某省職員を辞して精神科医になった人もおれば、産業医として職域メンタルヘルスに精通している医師もいる。官僚を診られて当然だし、診なければならない。
筆者の知る限り、都内にはここ以外にも、働く人のメンタルヘルスを得意としているクリニックが複数ある。しかし、その数は多くない。
駅前にも、街角にも多数のメンタルクリニックがあるが、職域のメンタルヘルスには寄与できていない。そこにはいくつか理由がある。
まず、薬物療法しかできない精神科医は、役に立たない。官僚のメンタル不調は、疲労、睡眠不足、人間関係が原因であることは、本人が一番わかっている。したがって、精神科医に求められるのは、生活習慣をめぐる指導、対人関係に関する助言、労働環境への介入であり、薬ではなく、言葉による治療である。しかし、本邦の精神医学教育は「治療=薬物療法」と見なしがちで、これでは「薬でごまかすだけ」と言われてもしかたない。
学会の推奨する標準治療を妄信するタイプも、難しい。今日、どの学会も科学的根拠に基づいた「最良の治療」を推奨するために、標準的な治療を提案している。
精神医学においても、疾患別の治療ガイドラインが整備されている。しかし、霞ヶ関には典型的な精神疾患は少なく、大部分は、状況に反応して一過性に生じた「バーンアウト」(本連載の、「『働く人のうつ』は『うつ病』ではないというこれだけの理由」を参照)である。担当医には個別の事情に応じた柔軟な対応ができなければならない。
官僚のように法知識を持つ人にとっては、法哲学における「法的安定性と個別妥当性」の関係と比べるとわかりやすいかもしれない。法的安定性を徹底すれば、法律は完璧な「石頭」と化す。同じく、標準治療を強制すれば、精神医学は人間規格化の技術と化す。
しかし、霞ヶ関人は、皆、患者としては「規格外」である。官庁を取り巻く状況は千変万化であり、そこから生じる「バーンアウト」もまた千差万別である。型通りの治療が通用するはずがない。
すぐに休職の診断書を出すタイプの精神科医も、かえって事態を混乱させる。霞ヶ関の人々は、国民のために尽力することに誇りを持っている。職務を放棄したいとは思っていない。仕事を続けたいのに、労働条件が悪すぎてそれができなくて、誰かの助力を求めているのである。
実際、それは結果として健康問題のように見えるが、真の原因は事業場の安全配慮義務の問題である。それなのに、もし、精神科医が過重労働の事実を指摘することなく休職の診断書を書けば、職場はそれを「私傷病」(≒「自己責任の傷病」)としてとらえる。自分たちの管理責任など自覚するはずもない。
メンタルクリニックの医師に求められること
霞ヶ関のメンタルヘルスのために、微力ながら何らかの支援を行いたいと思えば、医師にはすべきことがある。
まず、最低でも、24時間×7日間の睡眠・覚醒パターンを把握する。通勤時間、出勤・退勤時刻、週間スケジュールを聴取する。その目的は、その人に応じた起床・就床のタイミングを決めるためである。
平時の業務に加えて、国会対応が予想される場合は、職場泊まり込みもあろう。睡眠不足で日中も眠いから、業務の合間に15分でも仮眠をとれる時間を探したい。
重大な要件(議員レクなど)のタイミングで、脳のパフォーマンスを最高潮に持っていくピーキングを意識的に行わなければならない。そのためには、当日の休憩・仮眠時刻を戦略的に設定したい。早朝にレクが入ることが予想されるなら、前日・前々日の起床のタイミングもそれに合わせねばならない。
次いで、労働法規の知識を、生きた実践に変える。法律を知っているだけでは不十分である。その知識を戦略的に用いて、その人の疲労度、職場の(無)理解度、タイミングなどを考慮して、適切な意見申述を行う。
この連載「医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から」で診断書のサンプルをいくつか示した。要は、診断書の「付記」欄で、職場に対して健康リスクを訴え、かつ、職場の責任者の安全配慮義務に関して、法規を反映した注意喚起を行う。
文面は、第一弾は穏やかに、それで職場が動かなければ次第に強くして、切迫性、緊急性を打ち出していく。その診断書は誰にあてて書くのか? それは大臣に対してである。たとえば、人事院規則15-14の「原則として1箇月について45時間かつ1年について360時間の範囲内で、必要最小限の超過勤務」との記載に言及する場合、その責任の所在は省庁の長である。
もっとも、官僚のほとんどは職場と対立したいと思っているわけではない。法の条文の示す権利・義務関係の露骨な表現は、無用な摩擦を招く場合もある。診断書の文面は、話し合いの末、十分に納得の上で記載したい。
法規を反映した診断書を作成するとしても、その際に、本人に所属組織がどのような対応をとってくるか、その微妙なパワーバランスを探りつつ、慎重かつ大胆に進めていく。機械的な診断書一枚で状況が変わるはずがない。根気強く相手方から譲歩・妥協を引き出していくといった、一種の外交戦略が必要となる。
しかし、いよいよ危機的な事態(自殺のリスクなど)が迫ってきたら、一戦交えるつもりで、強い文面の診断書を書かなければならない。「自殺等の破壊的事態を避けるためにも、可及的早期の……」などである。
来るべき法廷闘争に耐えうる文面を、診断書に反映させなければならない。診療録も、有事の際の証拠となるよう、精密に記載する。召喚されれば、専門家証人として証言台に立つ覚悟は必要である。
霞ヶ関はイグアナの生息地ではない
「官僚も理不尽な攻撃や罵倒を受ければ心が折れ、激励されれば意欲を取り戻す『生身の人間』だ」(嶋田博子:〝未完〟の公務員制度改革 政官関係に外部検証の視点を.Wedge 2, 2024)との意見がある。そして、「こういうときにどうすれば、気持ちを切り替えることができるのか?」という質問をしばしば受ける。
そういう時の精神科医の立場としての筆者の回答は、「相手もまた、短時間睡眠で冷静さを失っている可能性が高い」と伝えることにしている。 ヒトの脳は、進化の歴史にしたがい、古い脳の上に、新しい脳が積み重ねられ、新しい脳が古い脳を抑制するように機能する。爬虫類脳(反射的に動く)を哺乳類原脳(情動で動く)が、それをまた、新哺乳類脳(知性で動く)が抑える、という具合である。しかし、この脳の抑制機能は、疲労、とりわけ睡眠不足によって、簡単に緩む。最も影響を受けるのが知性で動く人間の脳であり、その結果、情動で動く哺乳動物が暴走し、ついには、反射的に動く爬虫類がその本性を発揮する。
慢性的に睡眠不足が続いている人は、情動の統制がきかなくなり、行動パターンが感情に流されて単純化する。見苦しい癇癪、くどすぎる説教、自慢話を始めれば長すぎる、怒り始めると、だらだらと止まらない。このような特徴は、睡眠不足の人間にしばしばみられる症状である。
「理不尽な攻撃や罵倒」は、それを受ける側に劣らぬほどに、それを浴びせる側も、寝不足に陥っている可能性が高い。だからこそ、組織全体の取り組みが必要である。
霞ヶ関は、万物の霊長たる人間、それも、ハイスペックの人材ばかりの住む場所である。イグアナたち爬虫類の生息地ではない。
井原 裕