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「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…
なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?
※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
裁判の神格化と儀礼・幻想の必然性
先に論じたとおり、司法、裁判、裁判官は、国家の根幹的機能の一翼、特にその自制的機能をになうべき存在だが、現実の裁判についてみると「さまざまな影響を(たとえば最高裁等の)権力、また社会から受けている裁判官による価値判断」という要素も大きい。しかも、そうした判断過程の実質はオープンにされない。また、日本では、他分野の知識人等によってそれらが議論、分析されることも少ない。そして、司法権力は、本来的にも、すでに述べたような矛盾をはらんだ存在である。その正当性につき多くの人々が少なくともうっすらと疑いを抱きがちなことには、十分な理由があるのだ。
裁判の神格化、裁判・裁判官をめぐる儀礼と幻想が生じてくる、生じざるをえない必然性は、おそらく、ここにある。儀礼や幻想は、裁判・裁判官のイメージに正当性を付与するとともに、人々をも安心させる効果をもつ。
神ならぬ裁判官には「絶対的に正しい裁き」は行えず、それが行いうるのは、あくまで「相対的に正しい裁き」にすぎない。さらに、裁判それ自体は、実をいえば、裁判官の法的なサポートを受ければ、素人である陪審員だけでもできるものなのだ。裁判官は、確かに法的知識を備えた専門家でありその点では一般市民よりもまさっているが、一方、すでに述べたとおり、権力の意向や世論からの影響も受けやすい。そして、制度の組み立て方によっては、日本の場合のように、ことにその傾向が強くなりやすい。
また、一般的にいっても、たとえば、刑事訴訟における有罪無罪の判断などは、必ずしも高度な法的知識が前提とされるものではなく、むしろ、素人の常識的で健全なセンスが適切な結果を導くことも多いのだ。
実をいえば、以上のようなことが、「裁判をめぐるリアルな真実」なのである。
しかし、裁判がそのように相対的なものにすぎないのが明らかであっては、裁判を受ける人々にとっては心もとないし、社会に対する説得力も乏しくなる。
だから、法廷は、少なくとも、そこが「絶対的に正しい裁き」を下す場所であるかのような印象を与えるものにしておく必要がある。また、現在のシステムから有形無形の利益や既得権を得ている人々にとっては、人々が司法に幻想を抱いてくれているほうが、絶対に都合がいい。
こうした要請から、裁判と裁判官をめぐる各種の「儀礼」が生じ、その結果、法廷や裁判官は、人々の心の中で無意識のうちに神秘化、神格化されやすくなり、また、それらをめぐってさまざまな「幻想」や「神話」を流布されやすくなるのだと思う。
また、これらの儀礼や幻想は、司法という権力の心理的な根拠付けにも深くかかわっている。そのような根拠付けとして最も強いものは、広義の神のイメージであろう。元来、裁判というものは、当初は、神の代理人によって、または、神へのお伺いを立てる者によって行われた。あるいは、聖なる君主や人民共同体の名によって行われた。今でも、欧米、特に宗教国家的性格の強いアメリカの場合、人々が裁判官の背後に無意識のうちに幻視しているのは、おそらく、一神教の神のイメージである。
日本の場合についてみると、裁判は、伝統的には、正しい上位者である「お上」によって行われ、明治時代以降戦前においては、ムラ的共同体の盟主である天皇の名によって行われた。私見によれば、後記のとおり、このことが、日本における裁判・裁判官をめぐる幻想に、大きく影響している。
礼の実際
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実をいえば、裁判における儀礼的な要素は、どの国でも強い。アメリカの法廷では、廷吏による大声での起立の促し、映画でおなじみの裁判官による木槌の使用等が目立つし、イギリスの裁判官は「かつら」さえ着用する。法廷の雰囲気自体の権威主義的性格は、日本以上に強いといえよう。
もっとも、欧米では、「神の役割の代行は法廷でだけのこと。法壇を降りればただの人間、市民」という感じ方は徹底している。法曹一元制度のアメリカの裁判官は、ランチに出かければ弁護士の友人と親しくあいさつし、時には同じテーブルを囲む。重大な事件では記者の取材にさらされるし、法廷にもカメラが入りうる。やや時代が古くなるが、ハードボイルド小説や映画では、裁判官は、しばしば、その土地の隠然たる権力者、時には悪役として登場する。
つまり、「儀礼はあくまで法廷の権威付けのためのもの。裁判官も法廷を出ればただの人」という共通理解は、裁判官の側にも、社会の側にもある。
では、日本の場合はどうだろうか?
日本では、法廷における儀礼自体はむしろ簡素である。
「裁判官が法廷に入ってくると傍聴人を含めた全員が立ち上がって一礼しますが、これはなぜでしょう?」という問いは何度も受けたことがあるが、前記のとおり、これは、アメリカでは当然のことであって、疑問をもつ人はほとんどいない。その理由については、アメリカの場合、「市民、国民の代表としての裁判官に敬意を表するのは当然」という意識が強くあるからだと思う。日本の場合、人々には、「裁判官は市民、国民の代表」という意識自体が乏しいため、先のような疑問が出てくるのだろう。また、日本の場合、法廷における儀礼自体は比較的簡素なので「全員起立」には違和感があるのかもしれない。
しかし、裁判官が法廷の外、裁判所の外でまで「裁判官のあるべき姿」を無言のうちに期待され、社会も、建前上はともかく、実際には、「裁判官は正しき雲の上の存在であるべき」といった思い込みを強く抱きがちな点では、日本は、アメリカとは全く異なる。
「社会的な役割」がその役割をもつ人間に属人的にべったりくっついて離れないのは日本社会全般の特徴といえ、それが最もはなはだしいのはおそらく皇族の場合だが、裁判官についても、それに準じる側面はある。
私自身、三つめの大学から誘いがあった時点でようやく生活上の条件も整って裁判所から出られたのだが、そのころには、こうしたかたちで裁判官にのしかかってくる無言の「期待」、「圧力」による圧迫感は、もはや、耐えがたいレヴェルにまで達していた。
いうまでもないが、裁判所当局は、こうした無言の期待、イメージをうまく利用して、裁判官統制に生かしている。
日本では、ほかの国々に比べて、次の項目で論じるような裁判官にまつわる各種の「幻想」ないしは「神話」が流布され、「信仰」され続けやすいのは、右のような「人々の法意識」が大きな理由であろう。
幻想の実際
日本における裁判官に関する幻想として最も強力なものは、一貫して、「『大岡裁き』幻想」だ。
「大岡裁き」は「『法』ではなく、『人』による、『情』に基づく裁判」である。そして、日本人が「大岡裁き」を理想の裁判としてイメージしがちな原因については、「超越的な上位者は、法や手続や証拠などといった面倒なものに縛られ、とらわれることなく、法のことなどわからないけれども清く正しい存在である私の『思い』を残りなく汲み取って、私を勝たせてくれるはず」という、きわめて日本的な願望、幻想があると思う。
この裁判観は、法や証拠に基づかない、なまの情理を期待するものであって、「法の支配」、「証拠裁判主義」の対極にあり、裁判官がすべてを見通しうる絶対的な上位者、つまり「神のような人」でなければ成り立たない。ここには、近代法が四苦八苦しながら乗り越え、組み伏せてきた中世的な法感覚が、今なお厳然として生きているのである。
「隣の遊び人がお奉行だよ」という「『遠山の金さん』幻想」は「『大岡裁き』幻想」をさらに庶民的にアレンジしたものである。また、清く正しく美しい、そして、父は最高裁判事で本人も優秀な、本来エリートである裁判官が東京転勤内示を拒否して家裁支部に勤め、現場にまで出かけて少年たちや大人たちを善導するという漫画『家栽の人』〔毛利甚八作、魚戸おさむ画〕は、「『大岡裁き』幻想」の洗練された現代版、その典型を提供したものであった。その後も、日本の映画、テレビドラマ、漫画等に登場するよき裁判官たちのイメージは、大筋その域を出ていない。つまり、表面的なデザインこそ時代に合わせて調整されていても、「これら幻想の強固な本質は、恐ろしいほどに変わらない」のである。
また、「大岡裁き幻想」は、「紛争の解決はともかく和解が一番」という「和解(江戸時代には「内済」)至上の幻想」とともに、江戸時代以来、権力者、司法官僚が好み、被支配者としての人々もまたこれを共有しがちだった幻想であることにも、留意すべきである。
「日本的」右派も「日本的」左派も共有する「裁判官幻想」
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前記のようなイメージを右派的な方向にもってゆけば、「世間や社会の『雑音』に左右されることなく、弁明も釈明もせず、毅然としてただ権力補完機構の役割を全うし、果たしきる裁判官」ということになり、これは、私が若かったころの保守的な裁判官、ことに刑事系にはよくみられた。「裁判官たる者、○○であってはならない」といった物言いがその典型であり、「社会の雑音に左右されてはならない」以外にも、たとえば、「裁判官たる者、体調を崩すなどということがあってはならない」といった非合理的なメッセージが、平気で通ってしまう。その結果、実に、現在でも、裁判官には「官吏服務紀律」(明治時代の「勅令」すなわち「帝国議会の協賛を経ず天皇の大権により発せられた命令」)が適用され、休職の制度すらないのである。
左派(一応、「伝統的なイデオロギー的左派」と限定しておく)の裁判官イメージも、実をいえば、根は同じで非常に古い。「『裁判官の子は親の背中を見て育つ』幻想」などの「みずからを厳しく律して裁判に身命を捧げる裁判官」イメージは、左派も大好きだし、左派がことのほか強調してきた「よき庶民的裁判官イメージ」も、たとえば、前記『家栽の人』等にみるとおり、実は、大岡越前や水戸黄門のイメージと通底するものを、強くもっているのである。「現場にまで出かけて少年たちや大人たちを善導する」という、近代の裁判官の踏み越えてはならない一線を堂々と無視した行動をとる裁判官を日本の左派が好んだという事実は、実に象徴的といわなければならない。
そして、メディア(これも、表に掲げる「看板」としてのイデオロギーにかかわらない)がおちいりがちな「庶民的な裁判官こそいい裁判官」という発想も、こうした幻想を濃厚に引きずっている。よい意味で気さく、庶民的な裁判官は確かに存在するが、彼らは、そのことを人前で強調したりしない。記者等の前でそうした言動をとるのは、まずは、そのようなイメージが人々に「受ける」ことを知りつつ意図的にパフォーマンスを行ってそれを利用しようとする人々、また、演技性的・自己愛性的な傾向の強い人々なのである。
また、裁判官が庶民的な事柄を愛することと、彼または彼女が庶民の心を理解できる裁判官であることとは、全く別のことである。かつて左派法律家が広めた「『赤ちょうちんにもゆけない裁判官』幻想」は、「日本の裁判官は庶民的な行為ができない」ことをアピールしたものだったが、同時に、「赤ちょうちんにもゆけるような庶民的な裁判官=いい裁判官」という誤った認識、幻想を振りまくものでもあった。実際には、昔でも、赤ちょうちん的な酒場に後輩を連れて行ってお説教をしたりからんだりする裁判官はいたけれど、いい裁判官とはいえない人が多かったのが事実だ。
裁判官が私生活において「自由な一市民」であることは非常に重要だが、裁判官の「庶民性」を強調する議論には、右のような意味で、よくよく注意すべきなのである。
こうした各種の幻想は、以上のとおり人々や社会の願望、期待に基づいているのみならず、権力・システムや裁判所にとっても都合のよい側面がある。また、わかりやすくて記憶に残りやすい。そのため、繰り返し繰り返しかたちを変えて再生してくる。
この種のメッセージに出合ったら、とりあえずは、距離を置き、冷静かつ客観的にその内実を検討していただきたいのである。
さらに【つづき】〈多くの一般人は知らない、日本の「司法とメディア」のすさまじい「癒着と腐敗」〉では、ジャーナリズムと司法・裁判官幻想との関係についてみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)