認知症にはいい面もある?生物学者が「認知症を悲観的にとらえなくてもいい」と言う理由(2024年12月14日『ダイヤモンド・オンライン』)

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 認知症患者が年々増加しているなか、老後の発症を恐れている人は少なくないだろう。認知症というと絶望的でネガティブなイメージしか沸かないが「認知症にもいい面はある」と生物学者池田清彦氏は語る。その意外な理由とは?※本稿は、池田清彦(著)、南 伸坊(著)『老後は上機嫌』(ちくま新書筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
 
● 生物が環境にあわせる 「適応論」が怪しい理由
 南伸坊(以下、南) 僕は、池田さんに会ったら、聞きたいと思っていたことがあって。
 池田清彦(以下、池田) なに?
 南 擬態の話。どうやったらあんなにソックリになるのかって……。
 池田 あっちこっちで、だいぶ話しているんだけど、擬態は半分はインチキだと思っている。普通は「こういう形だから、この生物はうまく生きてるんですよ」って言うじゃん。でも俺の考えでは「変な形であっても、死なないで生きてる」と言うべきだと思うよ。
 生物には、大きさに応じて斑紋パターンを決定する変換関数みたいなのがあって、例えば、あるグループだと、このぐらいの大きさになるとこういう斑紋になるとか、決まってくるんだよね。
 それが、たまたま生息している場所の植物の色とかに似てると、擬態とか言うんだけど、生存に有利な形質のものが子孫を残すという自然選択の結果、徐々に似てくるわけじゃないと思う。もちろん、似た後で機能する場合もある。似てるから、他の生物に食われにくいとか。だけど、機能しない見てくれだけの擬態もあると思うよ。
 南 熱帯のジャングルにいるコノハムシとか、ものすごく上手じゃないですか。虫なのに、葉っぱにしか見えない。むちゃくちゃ手がこんでる。
 池田 コノハムシの雄は擬態しないし、飛ぶんだよ。雌だけだよ、飛べなくて、あんなにのろのろとしか動けないのは。葉っぱに擬態しなかったら、すぐ食われちゃうのかもね。
 南 葉っぱに似てるやつが、生き残ったってこと?
 池田 とりあえずそうだろうと思う。雄だってちゃんと生きてんだから、雌も雄と同じように飛べば、別に擬態しなくても死なずに生き残るはずでしょう。なんで、雄は擬態しないで、雌だけあんなややこしい擬態をするんだって思うわけだよ。そういうことについては説明しないで、都合のいい説明だけする。だから、生物が環境に合わせる適応論って怪しいんだよ。
● ナマケモノが絶滅しないよう オウギワシはコントロールしている?
 池田 ナマケモノも擬態しているから死なないっていわれるけど、食われそうになったら擬態なんかしてないで、とっとと逃げればいいじゃん。何で、あんなにじっとして動かないんだ?
 南 なまけ者だからでしょ(笑)。
 池田 よく生きてると思うよ、絶滅してもおかしくないのに。ナマケモノは、オウギワシに食われちゃうんだよね。オウギワシは全長1メートル、翼を広げると2メートルにもなる世界最強の猛禽類で、餌の半分以上はナマケモノなんだよ。ナマケモノがいなくなったら、多分、生存できないと思う。
 南 オウギワシ、なまけ者に依存して生きてる(笑)
 池田 ナマケモノが絶滅しないのは、もしかしたらオウギワシがコントロールしてるからかもしれないね。これ以上食うと、餌が足んなくなって自分たちが滅ぶから、このぐらいにしておこうって。分かんないけど。
 
 
 南 あー、そうか、あり得るね。頭いいすね。
 池田 ライオンも、結果的にそうだよね。狩りがすごく下手で、成功率は2割から3割じゃん。ほぼ成功とかになったら、ライオンの数は増えるだろうけど、餌がどんどん減ってくから、共倒れになっちゃうよな。
 食う、食われるの関係のバランスをうまく取っている生物だけが、生き残っているんだと思うよ。そういう意味では、人間はヤバイよね。人口が増え過ぎて、餌が足んなくなってきているから。オウギワシやライオンを見習ったほうがいいよ。
 南 やっぱり!面白いなあ。池田さんの話は。
 池田 澤口俊之くん(神経科学者)とも自我について話をしたことがあって、彼は、自我は前頭葉の前頭連合野という場所に局在していて、その中で神経細胞がぐるぐるコミュニケーションして、その結果出てくるものだって言ってた。
 だけど、前頭葉の細胞の中身だってどんどん入れ替わっているし、コミュニケーションのパターンも昨日と今日は違うのに、どうして同じ自我がそこにあるのかっていうのが、俺の興味なんだよね。
 南 細胞が全取っ換えになっても、脳は変わらない。
● 「統合失調症」の発症は 巨大地震が起こったようなもの
 池田 正確に言うと、脳の細胞自体は分裂しないから新しい細胞に変わることはないんだけれど、脳の細胞を構成する分子が毎日新しいものに入れ替わっている。構成する物質の種類は変わらないから、細胞がクルマだとすると、部品を新しいものに変えてるようなものだね。だから昨日の細胞と1カ月後の細胞では、中身を構成してる物質が違うものになっている。
 それから、シナプスのつながり方も常に一定じゃない。どうつながるか、どうコミュニケーションするかっていうのは、どんどん変わっているわけだから、自我を作り出しているプロセスもどんどん変わっている。どんどん変わっていくにもかかわらず、自我が同じだと思うのはどうしてなのかっていう問題ね。
 我々が自我だと思っているものは、厳密にはどんどん変わっているにもかかわらず、ある範囲の中で変化しているものに関しては「これは同じだ」と思うことができる。人間はそういう能力を根本的に持っているんじゃないかと俺は思う。
 だけどあまりにも変化しすぎて、ある範囲を超えてしまうと、自我の同一性を保つのが難しくなって変調をきたす。その一例が、統合失調症だよね。いきなり統合失調症を発病した人に話を聞くと、「ドアを開けたら世界が変わってる」と言う。すごく怖いみたいだよ。でも、変わったのは世界じゃなくて自分なんだよね。自我に変調をきたして、それまでとは現実の認識の仕方が全く違うようになってしまった。
 池田 ただ、自我があるといっても漠然としたもので、「昨日の私と今日の私はちょっと違うな」と思う時もある。でも、それは通常の感覚の範囲内。「10年前の私と今日の私はかなり違う」と思っていても、自我としては同じだと思い込んでいる。地震に譬えれば、揺れを少ししか感じない程度の小さな震度で、自我が揺らぐことはない。
 それに対して統合失調症の発病は巨大地震が起こったようなもので、いきなり自我が大きくズレてしまう。ドアを開けたら世界が一変していたという感覚も、巨大地震に似ているよね。とてつもない恐怖を感じるのは当然だと思う。
● 「早く認知症になりたい」 介護施設で感じた疎外感
 南 そうねえ、まるっきり変わっちゃったら。
 池田 通常は自我が衰えていっても、似ている状態で何となくつながっているから、自我がずっと不変だと思い込むんだよ。その自我がなくなるっていうことは、自分の中にある同一性が消えちゃうことだから、人は死ぬのが怖いんだろうな。
 宗教はほぼ全部、自我不滅説をとっている。死んだ後でも心は残っている、魂は永遠だと説く。死の恐怖を和らげるためだろうね。心や魂は何かっていうと、自我だから。
 死ぬのが怖くないのは、認知症の人。前頭連合野は思考や創造性、意思決定といった役割を担う脳の最高中枢なんだけど、ここの細胞がかなり減っているから、自我を構成するプロセスがうまく作れなくなって、自我が薄くなるんだよね。そうすると、死ぬのが怖くなくなってくる。
 池田 認知症になるのを恐れている人が多いけど、認知症にはいい面もあるんだよ。死ぬのが怖くなくなるということ、それから痛みを感じにくくなること。
 南 それはいい。痛いのやですよねえ。
 池田 がんの末期に痛みに耐えかねて、鎮痛剤のモルヒネを打ってくれとか言うのはだいたい健常者で、認知症の人はあまり欲しがらない。痛みに対する感受性が、全然違うみたいだね。だから神様は人生が終わる頃に、認知症にしてくれるのかもしれないよ、死ぬのが怖くなくなって、痛くなくなるように。
 池田 それから、認知症の人の一部にはすごく楽しそうな人いるよな。女の人にそういう人が多い気がする。女性は90歳過ぎると平均6割以上の人は認知症になるんだけど、そんなに悲観しなくてもいいんじゃないかな。
 俺の友達のお母さんが介護施設に入っていて、グループで活動する時に1グループ4、5人ぐらいに分かれるんだけど、その中で自分だけ認知症じゃないからすごく寂しいって言ってた。「他の人たちは、みんなで自分にはつまらない話をして、にこにこ笑って面白がっている。でも私は退屈。だから早く認知症になりたい」なんて言ってるらしいけど、「なりたい」って言ってなれるもんじゃない。
 南さんは、『おじいさんになったね』(だいわ文庫、2019年)に、年寄りは機嫌がいいやつのほうが長生きするみたいなこと書いてたよね。
 南 どうせならご機嫌なほうが……ねえ?
池田清彦/南 伸坊