「今日はあっても明日はない」 ノーベル平和賞受賞の陰に広島県被団協副理事長の覚悟(2024年12月11日『AERA dot.』)

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原田浩さん(はらだ・ひろし)/1939年、広島市生まれ。63年から広島市職員。93~97年、広島平和記念資料館第9代館長。98年まで広島市国際平和担当理事を兼務(写真:編集部・井上有紀子)
 日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)は12月10日、ノーベル平和賞の授与式に臨む。受賞に至るまでの道のりには、被団協だけでなく市民の努力の積み重ねがあった。
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 広島市平和記念公園で11月22日、日本被団協の地方組織である広島県被団協など広島県内の被爆者7団体が、署名活動を行った。政府に対して核兵器禁止条約への参加を求め、道行く人に署名を募った。署名活動は2カ月に一度、核兵器禁止条約が発効した2021年から継続してきたが、今回はノーベル賞の受賞が決まって初めての活動で、多くの報道陣が詰めかけた。広島県被団協の理事長であり、日本被団協の代表委員の箕牧智之(みまきとしゆき)さんも入院先から駆けつけて、受賞の思いを語った。
「(受賞決定は)長い活動の歴史が世界から認められた瞬間だった」
 ノーベル平和賞受賞の陰には、被団協だけでなく市民の努力の積み重ねがあった。自身も被爆し、21年から広島県被団協の副理事長を務める原田浩さん(85)もその一人だ。
■気づいたらがれきの下
 原田さんは当時6歳だった。疎開するために、広島駅のホームで午前7時半発の列車を一家で待っていた。列車は遅れていた。自宅に忘れたおもちゃも気になる。立ち疲れて、父の膝にもたれた。
 その瞬間、上からホームの屋根が降ってきた。8時15分、原爆が投下された瞬間だった。爆心地から1.9キロ。気づいたら、がれきの下に埋まっていた。父がとっさに覆いかぶさってくれていたおかげで、原田さんは奇跡的にほぼ無傷だった。がれきをはって出ると、竜巻のような炎が上がっていた。
 背中にケガを負った父と逃げた。生死不明のたくさんの人を踏んで逃げるしかなかった。倒れた人は皮膚が溶けていたので、柔らかい内臓に足がめり込んだ。
「その桃をこの子に譲って」
 逃げる途中、大けがを負った女性に声をかけられた。小さな子どもを連れていた。原田さんは手に桃を握っていた。当時、桃なんて見たこともなかった。果物はほとんどなかった時代だ。格別な甘いにおいがしただろう。疎開する原田さんをふびんに思った父が手に入れてくれたのか。その桃を求められたが、どうしても譲ることはできなかった。そのときの記憶は後年、広島市の基町高校の生徒が絵に描いて残している。
■53歳で資料館の館長に
 戦後は広島市の職員になった原田さん。あまりの悲惨さに、被爆体験を語ることはなかったが、1993年、53歳で、広島平和記念資料館の館長に抜てきされた。
 これまでの館長はシャツを脱ぐと、体にケロイドがあった。
「でも、私は無傷でした。だから、被爆の体験談を私がするもんじゃないと思っていました」
 だが、気持ちに変化が生じる。きっかけは、館長になって4日後、米国立航空宇宙博物館の館長による広島訪問だった。ワシントンでの展示のために被爆資料を貸してほしいという。警戒した。広島の悲惨な体験を理解したいのであれば、原爆の日の8月6日に広島に来るように伝えた。
 再び広島を訪れた館長を見て、「この人に期待してもいいんじゃないか」と思った。被爆で亡くなった13歳の折免滋くんが持っていた「黒焦げの弁当箱」などの貸し出しを求められ、検討をしていた。だが、米国内で反対の声があり、結局展示は実現しなかった。
 原爆は多くの人の命を救ったと考える人たちがいたからだ。
核兵器の悲惨さを伝えなければ、核兵器廃絶は実現しない」
 原田さんの平和行政に関わる覚悟が固まった。その後、広島市側の窓口として、被爆者団体と向き合った。その一つが被団協だ。
 日本被団協とは1956年に結成された被爆者の全国組織。原水爆の禁止を掲げ、世界で核兵器廃絶を訴えてきた。
 国費で健康診断をする「原爆医療法」(57年)や健康管理手当などを支給する「原爆特別措置法」(68年)を実現させた。その後、厚生省(当時)の前で泊まり込みで5日間の座り込み、被爆者調査、国会への働きかけなどを経て、95年には二つの法律を一本化した現行の被爆者援護法が施行された。運動を重ねてきた成果だ。
「被団協の求めに応じて、外務省の高官を広島に呼んだこともあった。国と被団協の間に立ち、調整の努力をしてきた」
■今日はあっても明日は
 同じころ、市民は原爆ドーム世界遺産登録を目指していた。「当時窓口だった文化庁は全く動かなかった。それなら我々行政と住民が動こうと」。署名活動は全国に広がり、165万人の署名を添え国会に請願した。
「今日はあっても明日はない」
 原田さんはそんな気持ちを抱いて、平和への活動を続けてきたという。(編集部・井上有紀子)
AERA 2024年12月16日号より抜粋