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広島市の平和記念公園で11月22日、日本被団協の地方組織である広島県被団協など広島県内の被爆者7団体が、署名活動を行った。政府に対して核兵器禁止条約への参加を求め、道行く人に署名を募った。署名活動は2カ月に一度、核兵器禁止条約が発効した2021年から継続してきたが、今回はノーベル賞の受賞が決まって初めての活動で、多くの報道陣が詰めかけた。広島県被団協の理事長であり、日本被団協の代表委員の箕牧智之(みまきとしゆき)さんも入院先から駆けつけて、受賞の思いを語った。
「(受賞決定は)長い活動の歴史が世界から認められた瞬間だった」
■気づいたらがれきの下
原田さんは当時6歳だった。疎開するために、広島駅のホームで午前7時半発の列車を一家で待っていた。列車は遅れていた。自宅に忘れたおもちゃも気になる。立ち疲れて、父の膝にもたれた。
その瞬間、上からホームの屋根が降ってきた。8時15分、原爆が投下された瞬間だった。爆心地から1.9キロ。気づいたら、がれきの下に埋まっていた。父がとっさに覆いかぶさってくれていたおかげで、原田さんは奇跡的にほぼ無傷だった。がれきをはって出ると、竜巻のような炎が上がっていた。
背中にケガを負った父と逃げた。生死不明のたくさんの人を踏んで逃げるしかなかった。倒れた人は皮膚が溶けていたので、柔らかい内臓に足がめり込んだ。
「その桃をこの子に譲って」
逃げる途中、大けがを負った女性に声をかけられた。小さな子どもを連れていた。原田さんは手に桃を握っていた。当時、桃なんて見たこともなかった。果物はほとんどなかった時代だ。格別な甘いにおいがしただろう。疎開する原田さんをふびんに思った父が手に入れてくれたのか。その桃を求められたが、どうしても譲ることはできなかった。そのときの記憶は後年、広島市の基町高校の生徒が絵に描いて残している。
■53歳で資料館の館長に
これまでの館長はシャツを脱ぐと、体にケロイドがあった。
「でも、私は無傷でした。だから、被爆の体験談を私がするもんじゃないと思っていました」
だが、気持ちに変化が生じる。きっかけは、館長になって4日後、米国立航空宇宙博物館の館長による広島訪問だった。ワシントンでの展示のために被爆資料を貸してほしいという。警戒した。広島の悲惨な体験を理解したいのであれば、原爆の日の8月6日に広島に来るように伝えた。
再び広島を訪れた館長を見て、「この人に期待してもいいんじゃないか」と思った。被爆で亡くなった13歳の折免滋くんが持っていた「黒焦げの弁当箱」などの貸し出しを求められ、検討をしていた。だが、米国内で反対の声があり、結局展示は実現しなかった。
原爆は多くの人の命を救ったと考える人たちがいたからだ。
国費で健康診断をする「原爆医療法」(57年)や健康管理手当などを支給する「原爆特別措置法」(68年)を実現させた。その後、厚生省(当時)の前で泊まり込みで5日間の座り込み、被爆者調査、国会への働きかけなどを経て、95年には二つの法律を一本化した現行の被爆者援護法が施行された。運動を重ねてきた成果だ。
「被団協の求めに応じて、外務省の高官を広島に呼んだこともあった。国と被団協の間に立ち、調整の努力をしてきた」
■今日はあっても明日は
「今日はあっても明日はない」
原田さんはそんな気持ちを抱いて、平和への活動を続けてきたという。(編集部・井上有紀子)
※AERA 2024年12月16日号より抜粋