ベトナムに220人の里子が…「福祉は一方通行だ」杉良太郎がそれでも活動を続けてきた“本当の理由”(2024年12月11日『文春オンライン』)

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 俳優・歌手の杉良太郎氏は、長年にわたって福祉活動に尽力してきたことでも知られている。「福祉は一方通行だ」と語る杉氏が、それでも活動を続けてきた理由とは?
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〈杉の福祉活動は国内にとどまらず世界各地に及ぶ。特に、ベトナムでの活動は広く知られている。1989年、ハノイ市郊外にあるバックラー孤児院を初めて訪ねた杉は、その孤児院にいた4人の姉弟を里子にしたが、のちに里子の数は220人に膨れ上がる。〉
 その子供たちももう大人になり、海外で働いたり、あらゆる方面で活躍している。結婚して子供が生まれた子も多いよ。だから僕には孫もたくさんいる。
活動を続けてきた理由
 福祉は一方通行だ。感謝を期待してはいけないし、期待したこともない。それに、どんなに頑張ったって満足できることはない。「俺にはなんて力がないんだろう」と無力感を覚えることの連続だ。ベトナムにだって孤児院は1つじゃないし、もっといえば困っている子供たちは世界中に存在している。
 同じハノイにあるグエン・ディエン・チエウ盲学校の支援を続けたり、ミャンマーでも1000人の孤児の面倒をみてきた。バングラデシュでは約50か所に学校を建てたけど、それでもまだ足りない。残念ながら僕個人ができることは限られている。
 それでも、活動を続けてきて良かったと思えることもある。その1つが、バックラー孤児院の子供たちの成長した姿を見ることだ。新たな家族を持ち、それぞれの道を歩んでいる彼らの姿が、僕に希望を与えてくれる。もう少し長生きしたら曾孫も見られるのかな……なんてささやかな楽しみも抱いているんだ。
〈長年にわたるベトナムでの功績が認められ、ベトナム政府から友誼勲章(外国人に授与する最高位の勲章)を2度、さらに労働勲章(ベトナムのために顕著な活動をした人に贈られる)を授与されている。労働勲章が外国人に贈られるのは極めて珍しいことだ。日本においてもその活動は高く評価され、日越・越日特別大使や、日・ASEAN特別大使などを歴任。大使としての活動の中心は文化交流だったが、政治・経済分野に引っ張り出されることもあった。
 2010年、尖閣諸島中国漁船衝突事件による日中間対立により、中国からのレアアースの輸入が停滞。当時の菅直人内閣で経済産業大臣を務めていた大畠章宏が「藁にもすがりたい」と頼ったのが、杉だった。〉
 連絡を受けて大臣室を訪れると、大畠大臣は切羽詰まった様子だった。
レアアースが入ってこないと、日本の産業は停滞してしまう。ただちに別の輸入先を探さなくてはならない。特命でベトナムに行き、ベトナム政府と交渉してくれないか」
 
 僕は首を縦に振れなかった。というのも、その時ベトナムでは「ハノイ建都1000年祭」という大規模なお祭りが開かれており、各国の要人が詰めかけていた。加えて、当時の首相は海外出張中で不在、政権を担うベトナム共産党幹部も地方出張中で、要人に会って交渉するなど難しいと思ったからだ。でも大畠大臣は「頼む、なんとかしてくれ」と拝み倒さんばかりの勢いで、しまいには「松下忠洋副大臣も同行させるから」と。根負けして、「やるだけやってみます」と答えたものの、「弱ったな」というのが本心だった。
「まるで遠山の金さんだったよ」
 すぐにハノイに渡り、関係機関に「大事な用件があるので、レアアースに関係する大臣にお会いできないか」と頼むと、何人かの大臣がハノイに戻ってきてくれた。
「日本は今までベトナムに協力してきました。ベトナムの人たちには、何かお返しをしたいという気持ちがあるのではないでしょうか。もしそうだったら、日本が困っている今、ぜひ力を貸していただけませんか」
 すると大臣の方々は口々に「できるだけのことはしたい。レアアースの輸出について事務的な話を進めましょう」と。松下副大臣同席の場で、確約をもらうことができたんだ。その後、菅首相ベトナムに渡り、レアアース開発に関する共同声明を発表した。
「あの理詰めの交渉は、まるで遠山の金さんだったよ」
 一部始終を知る人たちには、そう評された。そしてこうも言われた。
「杉さんが手を尽くしたのに、これでは首相がやったかのように見えて、杉さんの手柄にならないね」
 でも、僕はそれでいい。これまでもこの国のために、と働いてきて、自分自身のことは考えていない。
(聞き手・構成=音部美穂・ライター)
 本記事の全文 は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
杉 良太郎/文藝春秋 2024年3月号