進藤氏が保管していた真珠湾攻撃関連の機密書類
私の手元に、古ぼけた書類の束がある。手製の表紙をめくると目に入ってくるのは軍の最高機密を意味する「軍機」の朱印だ。昭和16年12月8日、日米開戦の象徴となった真珠湾攻撃に関する詳細な計画、命令書である。なぜこんなものが私の元に来たのか、そして軍の機密のその中身とは――。
元海軍少佐“進藤三郎”の人生
平成12(2000)年2月2日、ひとりの元海軍少佐が88歳の生涯を終えた。その人の名は進藤三郎。太平洋戦争に興味のある人ならまず知らない人はいないであろう戦闘機乗りである。
進藤は昭和15(1940)年9月13日、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国側記録では被撃墜13機、被弾損傷11機)、空戦による零戦の損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾った。続いて、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃では、空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。その後、激戦地ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長、空母龍鳳飛行長などを歴任し、筑波海軍航空隊飛行長として派遣先の福知山基地で終戦を迎えた。
戦争中はその華々しい「活躍」がしばしば新聞にも載るほど著名な海軍軍人だったが、戦後は一転して平凡な会社員生活で、戦争の話はよほど心を許した相手にしか、最後まですることを好まなかった。
箱に収められた書類
進藤氏が保管していた真珠湾攻撃関連の機密書類(表紙)
その進藤が大切に保管していたのが、今回紹介する真珠湾攻撃に向かう指揮官たちに配布された機密書類である。
じつは、これらの書類は個人が保管していいものではない。だが進藤は、真珠湾攻撃から帰ってそのまま入院、さらに練習航空隊の飛行隊長となり、処分する機会を失ったまま最前線ラバウルへの転勤命令が出た。そこで進藤は、広島の生家に暮らす退役海軍機関大佐の父・登三郎に、「中身は見ないように」と念を押したうえで預けた。登三郎はそれを桐の箱におさめ、釘で厳重にふたをし、家の藏の奥底に隠していた。登三郎はそのことを誰にも言わないまま、昭和50(1975)年に亡くなった。
これらの書類に進藤が「再会」したのは昭和53(1978)年、自動車ディーラーを退職し、原爆の爆風で傷んだままだった家を改築したときだった。数十年ぶりに藏に入った進藤は、奥に煤けた木の箱があるのに気づいた。釘を抜き、ふたを開けてみると、なかには厚さ5センチを超える黄ばんだ書類の束が入っていた。
「軍機・布哇(ハワイ)作戦」とあるのは、真珠湾攻撃に関する書類、「軍極秘」とあるのは、昭和15(1940)年の夏以降、中国戦線における零式艦上戦闘機(零戦)の戦闘行動を記した書類、「用済後要焼却」の印が押されているのは、主に作戦のたびに行われた研究会の文書。いずれも、進藤が深く関わった作戦についての詳細が記されている。
「大変なものを、焼却もせずに持っていてしまった…………」
と、進藤は狼狽したという。
眠っていた機密文書
もし進撃途中に敵機と遭遇した場合の取り決めが記されている
太平洋戦争が終わるまで、日本陸海軍の軍事機密情報は、最高刑を死罪とする「軍機保護法」により、厳格な運用が定められていた。退役軍人である父も、「軍機」「軍極秘」の意味を十分に認識していたからこそ、誰の目にも触れぬよう大切に保管していたのだ。
だがすぐに、狼狽は苦笑いに変わった。戦争は33年も前に終わり、海軍も消滅した。いくらなんでも、もう時効だろう。
桐箱は、原爆の爆風で蔵が傾いたときにも無事で、箱に納められた書類も、経年による傷みはあるものの、十分に判読できる状態であった。進藤はこれらの書類を、定位置にしているソファから手の届く棚に置き、折に触れて読み返した。
そんな書類がなぜ私の手元に来たか。それは平成12(2000)年2月に進藤が亡くなり、進藤の妻・和子が夫の遺品整理をするなかで、「海軍時代の紙の束は、私には不要だからチリ紙交換に出そうと思う」と危うく処分されるところを、「奥さんがいらないのなら私に預けてください」と、広島まで救出に行ったからだ。
機密文書の中身とは
淵田美津雄中佐による第一次発進部隊命令(軍機)
前置きが長くなったが、書類の中身を見てみよう。本文のなかにはパソコンで表示されない旧字もあるので、適宜新字、新仮名遣いに直して紹介する。
最初に綴じられているのは、11月24日付、1ページめに「軍機」の朱印が押された「機密第一次発進部隊命令作第一號」。第一次発進部隊指揮官・淵田美津雄中佐の名前がある。
2ページめ以降には第一次発進部隊の編成表、発艦時刻、集合、進撃の要領がこと細かに書かれ、それぞれの隊の攻撃目標も記されている。
淵田中佐直率の水平爆撃隊(九七艦攻、800キロ爆弾を装備。高度3000メートルで編隊を組み、水平飛行をしながら爆弾を投下する)の目標は〈一・主目標 戦艦四隻以内爆撃 二・副目標 (一)空母(二)甲巡(三)其の他の艦艇〉とある。村田重治少佐率いる雷撃(九七艦攻、魚雷攻撃)隊は〈一.主目標 戦艦(四隻以内)空母(四隻以内)二・副目標 (一)甲巡(二)其の他の艦艇〉、そして高橋赫一少佐の率いる急降下爆撃隊(九九艦爆、250キロ爆弾装備)はフォード島とヒッカム飛行場の格納庫、地上の敵機、板谷茂少佐率いる制空隊(零戦)は〈空地ノ敵機〉とある。
奇襲作戦の全貌
第一次発進部隊の敵地上空での展開、突撃、攻撃要領も記されている
発艦時刻は「X日」(攻撃決行日)の午前1時30分。ちなみに、旧海軍の作戦上の時刻表記は、どれほど時差があるところでも日本時間が使われる。発艦後は各空母の周囲を旋回しつつ、高度500メートルで集合していく。集合が終ったら高度を上げ、決められた隊形、高度、速度で真珠湾に向かう。
〈進撃 (イ)基準針路一八〇度(注:真南)(ロ)基準高度三〇〇〇米(注:メートル)(ハ)気速125節(注:ノット。時速約235キロ)(ニ)隊形〉
などや、各隊の高度差、オアフ島北端のカフク岬の30度(北東)30浬(約56キロ)で総指揮官が「號龍一發」(信号弾1発)を撃って「突撃準備隊形制レ」を知らせるなど、必要なことがこと細かに定められている。
また、〈五.突撃〉には、〈總指揮官機カネオヘ湾上空附近ニ達シ敵所在を確認スルニ至ラバ「全軍突撃セヨ」(ト連送)ヲ下令〉(注:ト連送は、モールス信号の「ト」・・―・・を繰り返す)し、奇襲に成功した場合は雷撃隊、水平爆撃隊、急降下爆撃隊の順に攻撃に入り、制空隊はそれを掩護する。敵の警戒が厳重で強襲になった場合は、制空隊、急降下爆撃隊、水平爆撃隊、雷撃隊の順に突入し、時間を置かずに攻撃するとある。ほかに「接敵」「突撃」「目標の配分」「避退集合帰投」など、こまごまと定められているが、あまりに煩雑になるのでここでは省く。
場面ごとの指示
敵戦艦が真珠湾に在泊している場合の雷撃隊の針路図
次の書類は、「機密第一次発進部隊第三集団(注:零戦隊)命令作第一號」で、零戦隊の動きについて。興味深いのは、重い魚雷や爆弾を積み、速度の遅い攻撃隊のスピードに合わせて飛ぶのが困難ならば、編隊の外側を旋回して調節せよ、というくだりである。各空母零戦隊ごとの攻撃目標、帰投用の電波の周波数〈制空隊電波 四五九五〉も決められている。
三つ目の書類は、〈第一次發進部隊第三集団打合セ事項覚書〉で、11月24日、旗艦赤城で打ち合わせがされた零戦隊の編隊の組み方、空戦がなく地上銃撃だけのときは増槽(航続距離を延ばすための落下式燃料タンク)はつけたまま地上銃撃をすることなど、より詳しい戦闘要領が記されたもの。
そして四つめの書類は、11月25日付の「第二次発進部隊命令」である。この第二次発進部隊制空隊(零戦隊)指揮官こそが、これらの書類を遺した進藤三郎大尉だ。
第二次発進部隊には雷撃隊はなく、攻撃目標は水平爆撃隊(250キロ爆弾、60キロ爆弾装備)は飛行場の格納庫と敵機、急降下爆撃隊(250キロ爆弾)は敵飛行場と第一次で撃ちもらした敵艦を狙う。また、進撃途中で日本側の艦隊を攻撃に行くとおぼしき敵機を発見した場合は〈制空隊ノ一部又ハ全部ヲ之ニ指向ス〉とある。また途中で敵艦隊と遭遇した場合は急降下爆撃隊の一部をもってこれを攻撃することとなっていた。
艦爆隊の編隊の組み方や攻撃隊形
第二次発進部隊の空襲計画(2)
五つ目の書類は「第二次発進部隊命令抜粋及艦爆搭乗員ニ対スル注意事項覚」で、これはおそらく艦爆搭乗員に配布されたものだろう。内容はそれ以前の書類と重複するが、艦爆隊の編隊の組み方や攻撃隊形、搭載する機銃弾(機首の7.7ミリ機銃二梃に各400発、後席の旋回機銃に弾倉6個)など、より具体的な内容となっている。また、高度な機密事項である味方潜水艦の配備については〈口述〉とあり、万一撃墜されて書類が敵手に渡ることがあっても、情報が洩れないようになっている。
この書類で、やむを得ず不時着する場合はハワイ諸島西部のニイハウ島近くに救助用の味方潜水艦がいること、ニイハウ島の住民は〈全部日本人ナリ〉と書かれている。だが、結果的に言えばこのとき指定の海面に味方潜水艦はおらず、島民も日本人だけではなく先住民のほうが多かった。空戦で被弾した第二次発進部隊の飛龍零戦隊・西開地重徳一飛曹は空戦で被弾、事前の指示にしたがってニイハウ島に不時着したが、先住民に拳銃と書類を奪われ、日系二世の原田義雄に保護されて書類の奪還を試みたものの12月13日、先住民によって殺害され、原田も自決した。誤った情報が西開地一飛曹を死なせたのだ。書類には続けて、〈救助セラルル見込ナキ時ハ潔ク自爆スベシ〉とも書かれている。
六つ目の書類は「軍機」の朱印が押された「機密第二次発進部隊第三集団(注:制空隊=零戦隊)命令作第一號」で、この書類は〈第二次発進部隊第三集団指揮官
進藤三郎〉の名前で出されている。進藤大尉が率いる第二次発進部隊制空隊の発艦から帰投までの動きを丁寧に記した書類だ。見出しを列記すると、〈第一・編制〉〈第二・發艦集合法〉〈第三・隊形〉〈第四・進撃法〉〈第五・空戦〉〈第六・對地上戦〉〈第七・引揚ノ時期〉〈第八・雷爆銃撃効果ノ偵察〉〈第九・集合〉〈第十・通信〉の10項目におよぶ。
攻撃前日から当日にかけてのスケジュール
真珠湾攻撃前日から当日にかけてのタイムスケジュール表
そして次のページでは「X-1日」(攻撃前日)から当日にかけてのスケジュールが記されている。機動部隊は日本時間で動いているので時差の分、感覚的にズレが生じているが、攻撃前日、つまり日本時間12月7日は20時30分総員起床、20時50分整列、21時飛行機準備開始、23時零戦13機、九九艦爆18機試運転開始、23時30分九七艦攻27機試運転、終了後爆弾、魚雷の信管装着、12月8日0時45分第一次搭乗員整列、1時30分第一次発艦、次回(第三次攻撃用)魚雷準備、1時40分第二次搭乗員整列、2時13分搭乗次第第二次発艦、5時30分頃第一次帰着・収容後第三次準備……などとなっていて、結果的に行われなかった第三次攻撃も予定に組み込まれていたことがわかる。
七つ目の書類は南雲忠一司令長官名で出された、「機密第一航空艦隊命令第一五八號」で、空母の飛行甲板上に置いた数枚の布板の形で上空哨戒中の飛行機に状況を知らせるのに使う「布板信号」が定められている。
八つ目の書類は艦長による「布哇空襲征途ニ上ルニ祭シ訓示」、なぜこのような事態になったのかを、〈米国の圧迫は皆も知る通り通商条約を廃棄し、鉄を売らず油を売らず、ABCD封鎖線を結成して日本の生命線を脅かす〉と、このままでは日本は手も足も出ずに屈服しなければならなくなる、と説く。
零戦による上空哨戒の方法
開戦にあたっての連合艦隊司令長官訓示。〈皇国の荒廃繋リテ此ノ聖戦ニ在リ 粉骨砕身各員其ノ任ヲ完ウセヨ〉
その後は単冠湾出港後の、主に敵哨戒機と遭遇した場合や味方識別の方法、零戦による上空哨戒の方法などをこまごまと指示する書類が出ている。無線は封止しているから、これらは赤城から手旗信号で各艦に伝えられた。
そして12月3日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から麾下部隊に対し、天皇陛下に拝謁し、勅語を得たとの書類がある。これは瀬戸内海に錨泊している旗艦長門あるいは通信所から、暗号で発信されたものだろう。続いて「聯合艦隊司令長官訓示」、〈皇国の荒廃繋リテ此ノ聖戦ニ在リ 粉骨砕身各員其ノ任ヲ完ウセヨ〉の書類が続くが、進藤三郎は、
「これじゃ日本海海戦の東郷平八郎司令長官の〈皇国の荒廃此の一戦にあり 各員一層奮励努力せよ〉と変わらないじゃないかと苦笑いしました」と言い、加賀の零戦隊分隊長だった志賀淑雄大尉(のち少佐)も、「あまりの工夫のなさに思わずズッコケました。これなら東郷さんのままの文面でよかったのに」と私のインタビューに語っている。この訓示を考えたのは連合艦隊参謀長の宇垣纒少将である。
〈朕は帝国の自存自衛と東亜永遠の平和確立との為 遂に米英両国に戦を宣するに決せり〉
とある。
真珠湾攻撃の実施
日本機の攻撃を受け炎上する真珠湾の米艦隊
そして12月8日に真珠湾攻撃が実施される。その後の書類の日付は攻撃後になっていくが、12月9日に南雲中将から発した、部下をねぎらう訓示には、やはり日露戦争時の東郷平八郎連合艦隊司令長官の「勝って兜の緒を締めよ」を引用した〈勝ツテ兜ノ緒ヲ締メ以テ有終ノ美ヲ完ウセンコトヲ期スベシ〉との言葉がある。日露戦争でロシア・バルチック艦隊に圧勝した日本海海戦、それを指揮した東郷平八郎の影が、昭和の海軍にも生きていたのがわかる。
その後も機動部隊内の事務的な書類がいくつか続くが、12月15日の「機動部隊信令第二九號」に記された、〈特令スル迄待機戦闘機ノ兵装七・七粍全弾装備ノミトス〉は興味深い。機動部隊の帰途も、万一に備えて上空哨戒の零戦を毎日待機させていた。零戦に装備された機銃は機首に7.7ミリ機銃2挺、主翼に20ミリ機銃2挺だが、威力の大きい20ミリ機銃弾は積むな、と言っているのだ。これには理由があって、戦後、防衛庁防衛研修所戦史部が著した公刊戦記『戦史叢書』によると、生産が間に合わず、真珠湾攻撃に参加した各空母には零戦1機あたり150発の20ミリ機銃弾しか積めなかった。当時の零戦二一型には1回の出撃で片銃55発、計110発の20ミリ機銃弾が搭載される(仕様上は片銃60発だが、弾丸詰まりを防ぐため、じっさいに搭載したのは55発)。つまり真珠湾攻撃が終った時点で、1機あたり数十発しか20ミリ機銃弾が残っていなかった。――最初からこんなギリギリの準備で大戦争に突入するほど、当時の日本は(現代から見ると無謀な限りだが)追い詰められていたとも言える。
隊員への禁止事項
乗組員が帰国後、民間人に話してよいことといけないことを記した12月19日付の書類
機動部隊の内地帰還が近づいてくる。12月19日に旗艦赤城から発せられた「機動部隊信電令第二號」には、乗員たちが上陸したさい、一般人に「言っていいこと」が列記されている。
〈(イ)各自がハワイ作戦に参加せること、(ロ)オアフ島空襲に参加せること(搭乗員)、(ハ)飛行機大集団をもって敵艦隊および航空兵力を雷爆銃撃しこれを全滅せしめたること、(ニ)敵に与えたる損害(新聞発表程度)、(ホ)連合艦隊および部隊指揮官より出たる「皇国の荒廃」云々の電報および信号〉
禁止事項も併記されている。
〈禁止事項 右以外の事項特に左の事項は厳秘とすること
機動部隊の行動一切(集合地共)、(ロ)部隊編成および飛行機数、(ハ)魚雷爆弾の種別、(ニ)補給関係一切、(ホ)行動中の天候、(ヘ)敵情偵知に関する事項、(ト)他部隊特に先遣部隊に関すること〉
そして12月20日、旗艦赤城より航空母艦各艦に宛てて、23日に飛行機を発艦させ、一航戦(赤城、加賀)の零戦は大分県の佐伯基地に空輸し、24日中に山口県の岩国基地に移動させることが命じられた。他の艦上機も23日に発艦、鹿児島県の鹿屋基地または佐伯基地を経由して、24日中に岩国基地、大分県の宇佐基地に移動させることになる。
命令書の書類は「『ハワイ』作戦戦死者の葬儀ならびに遺骨遺品取扱覚書」で締めくくられている。その後のページは「気象参考(ハワイ諸島及ミッドウェイ島附近気象)」、オアフ島地図、ハワイの各米軍基地の詳細図、「諜者(スパイ)報・真珠港内施設概略」、「1941年7月1日人口表 ハワイ衛生局調 軍人は含まず」、「航空機通信関係抜粋」……と続く。「諜者報」は、「森村正」と名を変えた日本海軍のスパイ・吉川猛夫がもたらしたものだろう。
そして終戦に向けて
荒天の北太平洋をハワイに向け航行する空母加賀(左)と瑞鶴(右)
「人口表」によると、当時のハワイの人口は、先住民14,246人、先住民と他民族のハーフが52,445人、プエルトリコ人8,460人、白人141,627人、中国人29,237人、日本人159,534人、朝鮮人6,681人、フィリピン人52,060人、その他が849人の計495,339人で、数で言えば日本人(日系人)がいちばん多かった。
体の不調をおして真珠湾攻撃に参加した進藤三郎大尉は、帰艦するとそのまま私室にこもり、祝勝会にも出ることはできなかった。帰国し、赤城零戦隊を率いて岩国基地まで戻った進藤は呉海軍病院に赴き、そこで「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、二週間の加療が必要と診断される。その後の進藤の戦いや戦後の生き方については、また別の主題になるだろう。
昭和20年8月15日、戦争が終ると、進藤は広島の生家に戻った。広島の街は原爆で一面の焼け野原だったが、爆心地から南東に2.8キロ離れた蓮田のなかの一軒家であった生家は、爆風で梁は「く」の字型に折れ、屋根瓦は飛び、柱も曲がっていたもののかろうじて残っていた。
ところが、戦争から帰った元軍人に対する人々の視線は冷ややかだった。
あるとき、進藤が焼け跡を歩いていると、小学校高学年とおぼしき子供たちが、
「見てみい、あいつは戦犯じゃ、戦犯が通りよる」
と、石を投げつけてきた。真珠湾攻撃のあと、帰郷した進藤に憧憬のまなざしで挙手の敬礼をした子供たちだった。
“進藤三郎”の最期
平成12(2000)年2月2日の午後、進藤は、いつも午睡をしていたソファに座ったまま、眠るように息を引きとった。その顔はおだやかで、微笑んでいるようにさえ見えたという。享年88、大往生といえるのかもしれない。
進藤に、これまでの人生を振り返っての感慨をたずねてみたことがある。進藤は即座に、
「空しい人生だったように思いますね」
と答えた。
「戦争中は誠心誠意働いて、真剣に戦って、そのことにいささかの悔いもありませんが、一生懸命やってきたことが戦後、馬鹿みたいに言われてきて。つまらん人生でしたね……」
予期せぬ答えに、この言葉をどう受け止めるべきなのか、戸惑いを感じたことを昨日のことのように憶えている。おそらくこれが、国のため、日本国民のためと信じて全力で戦い、その挙句に石を投げられた元軍人たちの本音だったのかもしれない。
――進藤が亡くなって24年が過ぎたが、この言葉はずっと、私の胸に棘のように刺さったままだ。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)