〈追悼〉14歳でトップアイドルに、結婚・パリ移住を経て…中山美穂さん(54)が“最終的に目指していたもの”(2024年12月9日『文春オンライン』)

キャプチャ
 12月6日に自宅で亡くなっているのが見つかった、俳優で歌手の中山美穂さん。所属事務所は8日、「死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものと判明」と発表した。
キャプチャ2
  中学入学前の春休みに原宿でスカウトされたことをきっかけに少女モデルの仕事を始め、芸能界デビューした中山さん。アイドル時代に抱えていた葛藤や役者としての“転機”、結婚やパリ移住について、54歳の誕生日の際に報じた記事を再公開する。(初出:「文春オンライン」2024年3月1日 ※日付、年齢等は公開時のまま)
◆◆◆
 38年前の過去から現代へタイムスリップしてきた主人公の男が、自らの持つ昭和の価値観とのギャップに戸惑いながらも活躍を見せ、話題を呼んでいるドラマ『不適切にもほどがある!』(宮藤官九郎作、TBS系)。その第3話では、阿部サダヲ演じる主人公が、風呂上がりにバスタオル1枚だけで部屋を歩く娘を見て、「あれか、『毎度おさわがせします』か」と叱りつける場面があった。
毎度おさわがせします』とは、性に興味津々の中学生たちとそれに頭を抱える大人たちをコミカルに描いたドラマで、1985年から1987年にかけて3作がTBS系で放送された。その1作目で俳優デビューしたのが、当時中学3年生で、きょう3月1日、54歳の誕生日を迎えた中山美穂である。
 上記の阿部サダヲのセリフは、このドラマで中山の演じた中学生・のどかが、下着姿で走り回ったりしていたのを念頭に置いてのものだろう。このほかにも劇中では、毎回のようにエキストラの女性たちが胸をポロリと出したりと、いまから考えるとかなりきわどいシーンが多かった。中山も、シャワーを浴びるシーンで胸が見えそうなカットがあり、それを嫌がって泣いたことがあったらしい。そのため父親役で共演した小野寺昭は《パート2をやるとき、「美穂ちゃんはもう来ないんじゃねぇか」と僕らは心配していたんです。でも、「大事なデビュー作のパート2だから」と、ちゃんと出てくれました》と振り返る(『週刊現代』2013年10月5日号)。
絵に描いたような不良少女
 中山はこのドラマのオーディションを受けたとき、脱色した髪の毛に丈の長いスカート、白いマニキュアという、まさにこの時代の不良少女を絵に描いたような出で立ちだった。だが、ドラマのプロデューサーだった阿部祐三は、《斜に構えてはいたけど、醸し出す雰囲気に、他の子にはない光るものがあった》として、起用を決めたという(『週刊現代』前掲号)。
 悪ぶっていたのは、淋しい気持ちの裏返しでもあったようだ。物心ついたときには家に父親はおらず、母親からはのちに、彼女が3歳のときに生まれたばかりの妹・忍(現・俳優)とともに長野の小さな町から上京したとだけ聞かされていたという。東京に出てからも、母が働くために姉妹はいろんな家に預けられた。そのなかで、中山は忍とよく縄跳びの両端をマイク代わりにキャンディーズの真似などをしていた。ドラマ『3年B組金八先生』の放送が始まると、テレビを見ながら、「私も歌ったりお芝居したりする人になりたいな」と何となく思うようになったという。中学入学前の春休みには、原宿でスカウトされ、少女モデルの仕事を始めた。これが芸能界デビューへとつながっていった。
毎度おさわがせします』で中山が演じたのどかのキャラクターはインパクト大で、初回放送の翌日から彼女は人々に騒がれ、電車に乗れなくなるほどであった。1985年には続けてドラマ『夏・体験物語』で初主演を務め、その主題歌となった「C」で歌手デビューも果たした。この年暮れの日本レコード大賞では最優秀新人賞にも輝く。
大人への不信
 こうして中山はアイドルとしてまたたくまにスターダムにのし上がり、のちに当時の記憶がほとんどないと語るほど多忙をきわめるようになる。人気が出ると、それまでガキ呼ばわりしていた周りの大人たちの態度も一変し、そのことが10代だった彼女の大人への不信に拍車をかけた。
 1987年に出演した『ママはアイドル!』では、結婚して相手の連れ子たちと暮らすようになるというアイドルを、役名もそのまま「中山美穂」で演じた。しかし、本人は内容と自分とのギャップに悩みあぐねる。「ミポリン」というニックネームもこのドラマから生まれたが、その後もそう呼ばれることになろうとは当時は思ってもいなかったし、思っていればとても耐えられなかっただろうという。
 それでも、同作で演出を務めた吉田秋生は、中山が悩む姿に女優としての感性を見出していたようだ。吉田いわく《今、自分でやっていることに“これでいいんだろうか?”そう思ってないと人は大きくなれない。そういう意味では彼女は常に、違うんじゃないか…違うんじゃないか…違うんじゃないか…って、イヤになるくらい考えていた子だった。弱冠十六歳ですでに。いつも自分に、世界に、疑問を持っていた。そういう悩みを持つ人間というのは演者としてとても魅力的に思えます》(『月刊カドカワ』1997年1月号)。
アイドル時代の葛藤
 アイドル時代の彼女は、周囲のスタッフと話しても、なかなか本心が伝わらないことにも葛藤を抱いていた。《でも、そのうちに、しゃべる代わりに書いて伝えるということを覚えて、書くことに楽しさを感じるようになりました》という(『anan』2016年3月23日号)。デビュー以来ずっと仕事をしていたレコーディング・ディレクターに手紙を書いて渡したのもこのころで、そこから徐々にコミュニケーションがとれるようになっていった。
 17歳だった1988年2月リリースの6thアルバム『CATCH THE NITE』では、好きだったミュージシャンの角松敏生をプロデューサーに迎えた。このときも、事前に自分のことを知ってもらうため、中山から望んで角松と二人きりで話をしている。当人はのちに《今考えると、話し合いにはなってなかったかもしれないなあ(笑)》と顧みたが(『月刊カドカワ』1993年11月号)、角松は、彼女が《物静かに訥々と「こういう音楽をやりたいんです」と話していたことを覚えています》という(『週刊現代』前掲号)。
 レコーディングで角松は、彼女が上手く歌えずに、何度もやり直しをさせて泣かせてしまったこともあったらしい。しかし彼女は、自分の力量以上のものでも頑張ろうという意識が強く、泣いてもけっして途中で帰ったりはしなかった。
 20代に入るとますますアーティスト志向が強まる。22歳となった1992年には初のセルフプロデュースによるアルバム『Mellow』をリリースした。WANDSとコラボレーションしたシングル「世界中の誰よりきっと」が180万枚を売る大ヒットとなったのも、この年である。
「演じることなんて大きらい」
 一方、俳優としては、1989年の『君の瞳に恋してる!』を皮切りにフジテレビ系の月9ドラマの主演を何度も務め、高視聴率をマークしてきた。だが、じつのところ中山は、主役より脇役志向が強かった。映画にしても、長年彼女を支えてきたマネージャーいわく《300館のロードショーではなく単館上映の映画をやりたが》っていた(『AERA』2010年1月18日号)。
 1993年にはついに、デビュー以来毎年続いていたドラマ出演が途切れる。その年末、雑誌に寄せたエッセイでは、それまでの不満をぶつけるかのように、《演じることなんて大きらい。他人を演じて何が楽しいものかと思う。身を切り裂くようなスケジュールのなかで、精神まで奪われて。(中略)自分のために自分自身として生きているほうがよっぽど大切……》とつづった(『月刊カドカワ』1994年1月号)。
 それからまもなくして転機が訪れる。岩井俊二監督の初の劇場長編映画『Love Letter』(1995年)への出演だ。それまでずっと「地味でいいから手応えのあるものをやりたい」と思っていた彼女にとって、同作は《大作という看板も背負ってなくて》(『月刊カドカワ』1997年1月号)、まさに待望していたものであった。劇中、まったくの他人ながら風貌がそっくりな二人の女性を一人二役で演じた中山は、ブルーリボン主演女優賞を受賞するなどその演技が高く評価される。
『Love Letter』での達成感は大きく、以来、中山はローテーションで回っていた仕事をセーブするようになる。1997年には、写真家の荒木経惟と陽子夫人をモデルとした映画『東京日和』で、監督を務めた竹中直人と夫婦役を演じた。竹中からは「何も考えなくていいよ。そのまま、スクリーンの中にいてくれればいいよ」と言われ、出演を決めたという(『キネマ旬報』1997年11月上旬号)。これら作品への出演を通じて、彼女は創作に参加する歓びに目覚めていった。
結婚、パリに移住
 私生活では2002年、作家でミュージシャンの辻仁成と結婚する。その後、生まれてくる子供には親が芸能人であることなど意識せず、伸び伸びと育ってほしいとの思いから日本を離れ、パリに移住した。長男を出産したのは2004年であった。それからは、辻とともに子育てに専念する。
 しかし、子供を儲けて10年後、離婚する。このとき、日本のマスコミから「親権を放棄して子供を捨てた」と書き立てられ、中山は傷ついた。実情は異なり、もともと彼女は、フランスの法律では離婚すると親権は半分になるので、そちらを選ぶつもりでいたが、結局、日本の法律において離婚したため、親権はどちらか一方が持たざるをえず、最終的に辻に譲ったのだ。彼女は雑誌での連載エッセイでそう釈明したうえで、《法律上では子どもに対する権利を失ってしまいましたが、息子との関係の中で親であることは永遠に変わらないと言い聞かせて親権を譲ることにしました。そして、それが離婚を承諾してもらうための条件でした》と明かした(『美ST』2014年10月号)。
離婚後に「毎日胸が痛みます」
 幼い頃、母親と離れて暮らしていた時期も長かっただけに、親権を譲るのは苦渋の決断であっただろう。前出の連載ではその後の回でも、《いちばんに願うのは息子の幸せです。寂しい思いをさせてしまったことは、毎日胸が痛みます。これから思春期に入っていく彼の微妙な変化も何もかも、すべて受け止めて支えてあげられたら》などとつづり、《今までと同じようにいかなくても、同じではいけないと感じても、挑戦することを諦めないでほしい。自分を大切にすることも未来を生きるために大切なこと。小さなことからでいいから、一つ一つクリアにして、やりたいことを心から楽しむ! 迷いがあっても、何かできることはきっとあると思うんです。あなたはあなたしかいない、と私自身にも言い聞かせながら》と結んでいる(『美ST』2015年6月号)。
 その言葉どおり、ここ10年、中山は以前にも増して新たな挑戦を続けている。日本に戻り、2015年末に音楽特番『FNS歌謡祭』への出演を皮切りに芸能活動を本格的に再開させると、翌年には東京・下北沢の本多劇場で上演された四人芝居『魔術』で初めて舞台作品に挑んだ。舞台にはその後もたびたび出演し、昨年末から今年初めにかけても、東京・明治座などで上演された『西遊記』で鉄扇公主を演じている。
 映像作品でも新たな挑戦が続く。2017年にはドラマ『貴族探偵』で初めてドラマの鍵を握る脇役を演じている。映画では、『蝶の眠り』(2018年)で5年ぶりに主演し、アルツハイマー病で余命宣告をされた女性を熱演した。
 近年の出演映画のなかでも異色なのが、2019年に公開された松尾スズキ脚本・監督・主演の『108~海馬五郎の復讐と冒険~』である。松尾は、前出の阿部サダヲ宮藤官九郎が在籍する劇団「大人計画」の主宰者でもある。
切り拓いた新境地
『108』で中山は松尾と熟年夫婦を演じた。劇中、彼女は年下のダンサーと浮気したのが夫にバレ、家を出てしまう。夫はそんな妻への復讐心からほかの女性と次々と関係を持つのだが、そこでの性描写はかなり激しい。それだけに中山美穂が出演したことに驚かされる。しかし、彼女は悲劇とも喜劇ともつかない松尾の独特の世界観をしっかりと受け止め、この役を見事に演じきり、新境地を感じさせた。
 音楽活動にも積極的で、2019年には旧知のミュージシャンの浜崎貴司が主催する「GACHI」という対バン形式のライブに誘われ、ゲスト出演した。その際、弾き語りであることが条件だったため、ギターを約3ヶ月間猛特訓したという。同年には20年ぶりとなるアルバム『Neuf Neuf』をリリース、これを機に翌年、50歳を迎える3月1日にバースデーコンサートを開催するはずが、コロナ禍のため中止を余儀なくされる。お預けとなった単独コンサートは、ようやく昨年、24年ぶりの全国ツアーとして実現した。全国ツアーは今年も4月から予定されている。
「最終的に目指すのは…」
 いまから四半世紀ほど前、憧れの女性像を問われた中山は、《最終的に目指すのは、素敵なおばあちゃん。かわいい、語りすぎない、家族の多い、そんなおばあちゃんになりたいんです》と答えていた(『anan』1998年1月2・9日号)。その思いは、活動再開後ますます強まっているようだ。4年前のインタビューでは、次のように語っていた。
《役を演じる上で、技術的な部分や熱量以外に、自然に滲み出る何かが、一番その人のオリジナルなんだと思う。だとしたら、年を重ねること、経験を積むことすべてがお芝居の肥やしになる。80歳ぐらいのおばあちゃんって、陽だまりの中で座っているだけででも、何かが見えちゃうじゃないですか。私もそういう豊かさが欲しいんです。年齢を重ねて、ちゃんと自分の“味”を出していきたい》(『週刊朝日』2020年1月3・10日号)
 20代ではまだ漠然としていた“おばあちゃん像”が、さらに具体的なものになっている。それも仕事のみならずさまざまな人生経験を積んできたからこそだろう。
近藤 正高