平和を望みつつも、日米開戦を決意した昭和天皇。その心の揺らぎを伝える側近の記録が近年、相次いで明らかになった。そうした史料で実証的な歴史研究に取り組んでいる日大の古川隆久教授(62)に話を聞き、戦前の統治機構に縛られ、戦争に引き込まれていった天皇の実像に迫る。
「戦争は不幸なるものよ」
今から5年前、昭和天皇の侍従長を1936年から44年まで務めた百武三郎の日記が、遺族から東京大学に寄託されました。そこで注目を集めたのは、日米首脳会談の構想が頓挫したため、開戦に前のめりになった天皇の姿を伝える記述です。
41年10月13日「切迫の時機に対し已に覚悟あらせらるが如き御様子」(松平恒雄宮内大臣)、「時々御先行を御引止め申上ぐる」(木戸幸一内大臣)、11月20日「決意行過ぎの如く見ゆ」(同)など、12月8日の開戦前に重臣が感じとった決意が書かれていた。その描写は、開戦詔書では読みとれない天皇の決意のほどを鮮明にしました。
この年の6月、同盟関係のドイツがソ連と開戦します。7月の日本の南方進出を受け、翌月、米国が対日石油禁輸に踏み切りました。
昭和天皇は国際情勢を心配し、9月1日には「御歩行活溌にあらせられず」という状態でした。すると5日後の御前会議で、日露開戦に直面した明治天皇が平和を願い、作ったとされる和歌を読み上げます。外交を優先すべしという考えを歌に込められたと、百武は書き留めました。
日記をさらに遡ると、盧溝橋事件が日中戦争に拡大した37年9月にも、戦争を望まない天皇の姿が残されています。百武が、制空権確保の祝賀を伝えても、空爆された中国の犠牲者を思い、「戦争は不幸なるものよ」ともらしたのです。
戦争と平和の間で揺れ動く天皇の姿は、大日本帝国(明治)憲法で「統治権の総攬者」と規定され、国の存亡をひとり背負わされた人間の孤独をよく表しています。
「全体陸軍は虚偽を云ふ」「どうも陸軍のものは常識が乏しい」。百武はそんな天皇の言葉も記しました。軍部を巡る天皇の苦悩は根が深く、やはり5年前に公開された「昭和天皇拝謁記」を読み解くと、より切実なものとして理解することができます。
「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」は、戦後の初代宮内庁長官田島道治(みちじ)が、1949年から53年までの天皇との拝謁(面会)を記録した史料です。天皇は、戦前の軍部の動きを「下克上」と呼び、うまく対処できなかったことを何度も悔いています。
その後悔の出発点は、即位の2年後、27歳で経験した軍部の謀略「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」でした。中国に駐留し、勢力拡大をもくろむ関東軍が、列車を爆破して乗っていた満州軍閥の張作霖を殺害したのです。昭和天皇は、「処罰を曖昧にした事が後年陸軍の綱紀のゆるむ始めになった」「敗戦に至る禍根の抑々(そもそも)の発端」という思いを田島に漏らしました。
軍部の専横、貫けなかった理想
爆殺事件の関係者を軍法会議で処罰すると天皇に報告した田中義一首相は、前言を翻し、行政処分で済ませようとしました。天皇がこれを叱責(しっせき)すると、田中内閣は総辞職し、処分はそのままになりました。
31年の満州事変では、朝鮮駐留の部隊が、独断で中国に越境する統帥違反を犯します。朝鮮軍司令官の林銑十郎(せんじゅうろう)は処分を覚悟し、おびえる心境を日記に残しているのに、「軍事上やむを得ない」と、注意だけで済まされました。
20歳の頃、欧州を視察した昭和天皇は、議院や内閣に信を置く英国王ジョージ5世の抑制的な立憲君主像を模範としました。しかし、「明治以来、戦場に立って日本を守ってきたのは我々だ」と自負する軍部の専横により、その理想を貫くことはできなかったのです。
重臣は殺害され、孤立
軍部は自分たちの意にそぐわない天皇像を認めようとしませんでした。摂政時代、即位後と天皇を補佐した侍従武官長奈良武次(たけじ)は、昭和天皇は軟弱で西洋かぶれだと、回想記の中で批判しています。天皇も奈良の2代あとの侍従武官長宇佐美興屋(おきいえ)について、「(天皇の)所信を伝えて陸軍の誤りを正そうと努めず、本当に頼りない」と、侍従長百武三郎に嘆きました。
昭和天皇は国際協調路線を望んでいました。しかし、それを支持する政治家たちが、急進的な軍人の関与したテロに狙われます。天皇は36年の「2・26事件」こそ、強い姿勢で反乱軍を鎮圧しましたが、努めて軍部の輔弼(ほひつ)(補佐)に従いました。政党政治が崩壊、頼りの重臣も殺害され、孤立した状態だったのです。