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「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…
なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?
本記事では、〈刑事司法の病理現象「冤罪」に関する「日本特有の問題」…日本は「冤罪防止」のためのシステムや取り組みが欠如しているという「恐ろしい現実」〉にひきつづき、検察官の「法意識」についてみていきます。
※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
検察官の「法意識」
写真/森清
日本の検察官は、裁判官と同様司法修習生からそのまま採用され、司法官僚としてキャリアシステムにおける「出世」の階段をのぼってゆく。検察は、検事総長をトップとする一枚岩の行政組織だから、裁判官の中では一枚岩的な性格が強い刑事系の裁判官集団以上に、同族意識、組織としての一体感が強い。
また、建前としての無謬(むびゅう)性にこだわりやすい日本の組織の常として、さらには、正義の看板を背負っており、かつ、前記のとおり客観的なチェックの入らない大きな権限をもつ組織の構成員、官僚であることから、誤りのないこと、失点のないことに非常にこだわる。
そして、無罪判決は検察官の最も目立った失点となる。したがって、起訴した事件については、再審の局面をも含め、組織の面子をかけて最後の最後まで争い続けることになる。再審無罪事件の重大なものをみると、身柄拘束の時点から再審無罪判決確定までに30年前後ないしそれ以上の長期間を要しているものが多い。広く報道されてきた袴田事件に至っては、2024年10月9日の再審無罪判決確定までに、実に58年以上が経過している。これでは、冤罪被害者は、たとえ無罪判決を得ても人生の大きな部分を決定的に奪われてしまうことになる。人権侵害の最たるものといわなければならないだろう。
99.9から99.8パーセント(地裁事件統計)という日本の有罪率は、日本の検察の優秀さを示すものというよりはむしろ、日本の刑事司法の異常さや問題を示すものであり、今では社会一般の認識もそうなりつつある(たとえば、有罪率100パーセントといったことになれば、それはもはや専制主義国家の暗黒裁判であろう)。また、高い有罪率への固執は、本来であれば起訴が相当な事件を不起訴にする弊害も伴い、特に裁判員裁判対象事件については、この弊害を指摘する声が多い。しかし、閉じた組織である検察は、こうした外部の声にはきわめて鈍感であり、無謬性に強迫的にこだわることをやめられないのである(検察は、前記の袴田事件再審無罪判決について控訴権を放棄したものの、併せて、「証拠捏造を認めた判決については強く不満」との異例の談話を出した。また、後記の特捜部検察官に関する付審判決定についても、ある検察幹部が「これでは現場は必ず萎縮する」旨のコメントを行っている〔2024年8月9日朝日新聞〕。こうした対応やコメントも、日本の検察ならではのものであろう)。
以上のような組織特性、メンタリティーの帰結としてか、日本の検察官は、刑事裁判官をあまり尊敬していない。それどころか、おおむね自分たちの言いなりになることからあなどっており、また、まれにそうでもなくなることについては、いらだちを隠さない。
政治家鈴木宗男氏の事件(いわゆる国策捜査事案)にからむ容疑で逮捕され有罪とされた経験をもつ元外交官佐藤優氏の『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』〔新潮文庫〕では、捜査担当検察官が、「今後鈴木氏の裁判につきあうのはほどほどに」との旨を佐藤氏に忠告するとともに、「裁判なんて時間の無駄だよ」と語るが、これが典型的だ。付け加えれば、この検察官との間に一種の友情を結んだ著者自身の感懐としても、「供述をしなくても私の有罪を確実にする仕掛けを作る能力が検察にはある。国家権力が本気になれば何でもできるのだ」、「弁護人は司法府の独立をほんとうに信じているようだが、私はまったく信じていない」との記述がある。
さて、『現代日本人の法意識』第1章でふれた『不思議の国のアリス』には、実は、もう一つ、刑事裁判がらみのエピソードがある。幻の巨鳥ドードーをも含めた鳥や獣が集まってするコーカスレースの後の、ネズミの「長くて哀れなお話(ア・ロング・アンド・ア・サッド・テイル)」である。
犬の検察官がネズミをつかまえ、「おまえを起訴して有罪にしてやる」と言う。ネズミが、「でも、陪審員も裁判官もいないじゃないですか?」と反論する。犬は、「裁判官も陪審員も俺がやる。一切合切一人で裁いて、おまえを死刑にしてくれる」と、有無を言わさず切り返す。
これもまた、ナンセンスでシュールレアリスティックなありえない裁判として語られているのだが、私が慄然(りつぜん)としてしまうのは、これが、160年後の「先進国・富裕国」の一つにおける刑事司法の現実についての、強烈なブラックジョークにもなっているからなのだ。
非常に単純化していえば、『アリス』の犬と同様に、「裁判官も裁判員も〔実質は〕俺がやりたい。一切合切一人で裁いて、おまえを確実に有罪にしてやりたい」というのが、表には出てこない、また、彼ら自身意識の表面にはあまりのぼらせない、日本の検察官の「本音」なのではないだろうか。検察官と話していると、穏やかなタイプの人であっても、気を許した会話の中では、こうした本音がちらちらと見え隠れすることがある。
また、公証人となって元検察官とともに働いた経験をもつかつての先輩・同僚裁判官からも、「瀬木さんの裁判官批判には当たっている部分があるが、自己過信や慢心についていえば、検察官はさらに問題が多いと思うよ」との意見を聞くことがある。確かに、検察官は、被疑者、被告人、刑事弁護人との関係では圧倒的に優位に立っているし、外部から批判を受けて内省する機会も、裁判官以上に少ないかもしれない(なお、公証人は法務省管轄の制度のため、検察官等法務官僚のほうが裁判官よりもなりやすく、数も多い)。
日本の検察についても、大陪審や予備審問のような起訴チェック機関を設けるとともに、検察官定員の一定割合については弁護士から期間を限って採用する人々とするなどの方法により、外部の血を入れ、組織の民主化を図ることが望ましいと思われる。それは、かたくなで一枚岩的な検察官の法意識の改善にもつながることだろう。
特捜検察の問題
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特捜検察は、手続的な正義、透明性のあるシステムという観点からみたとき、きわめて問題の大きい制度である。特定の政治的な勢力の意を受けて行われる「国策捜査」になりやすく、小沢一郎氏が無罪となった陸山会事件(2004~07年)のように、たとえ無罪となっても政治家として大きな打撃を受ける例がある。また、厚生官僚の村木厚子氏が無罪となった郵便不正事件(2004年)のように、検察官による証拠の改竄(かいざん)までが行われた例がある。
さて、その郵便不正事件では、村木氏が犯行に至った経緯として、事件関係者がかかわったとされる19件の面談や電話での会話が検察官の冒頭陳述で挙げられており、これを裏付ける関係者の供述調書が多数あったが、うち1件を除く18件については、現実には存在しない架空のものだった。これについては、村木氏の弁護士であった弘中惇一郎氏が、「組織をあげての事件の捏造(ねつぞう)」であり、一人の検察官による証拠の偽造(フロッピーディスク内文書データの最終更新日時を改竄)よりもさらに重大な問題であると述べている(『特捜検察の正体』〔講談社現代新書〕)。
こうしたフレームアップ、でっち上げは、重大冤罪事件の警察捜査ではしばしばみられるものだ。しかし、それらについては、強引な捜査方法に問題があると警察内部でも取り沙汰されていた人物が見込み捜査を強硬に推し進めた結果である例も多いといわれる。
検察官は、警察の捜査をチェックする立場にある官僚である。その官僚組織中でもエリート集団といわれる特捜検察が「問題のある刑事」と同様の捜査を行っていたということになると、組織の構造的なひずみを考えざるをえないであろう。前記弘中書に書かれている事柄のうち、法律家の目からみて主観による推測の入る余地の乏しい客観的事実だけを取り出してみても、戦後の警察が各種の冤罪事件で行ってきた問題のある捜査方法が、拷問を除き、ほぼそのまま網羅されている感があるのだ。
特捜検察は、捜査の端緒をつかむことから起訴までのすべてをみずから行う。したがって、動き出してしまうと、客観的、合理的で冷静なチェックがはたらかない。それに加えて、前記のような検察官のメンタリティー、面子、特権意識が重なると、暴走を押しとどめることができなくなる。
また、すでにふれたとおり、特捜検察が、政治権力の特定の一部の意向を不明瞭なかたちで受けて立件に動いている可能性も、特に政治家がらみの事件では指摘されている。これは、民主政治の根本をおびやかす事態を生みかねない。
一方、特捜検察は、福島第一原発事故や第二期安倍政権時代の森友・加計学園問題、「桜を見る会」問題等では動かなかった(福島第一原発事故に関する起訴は、検察審査会の議決による強制起訴)。2020年前後の自民党政治資金パーティー裏金事件における起訴も、ごく小規模なものにとどまり、ほとんどの議員は刑事責任を免れた。しかし、これらは、本来であれば特捜検察が積極的かつ果敢に取り組むべき問題だったはずであり、こうした点でも、特捜検察の姿勢は不明瞭といわざるをえない。
前記のとおり特捜検察は検察のエリート集団と位置付けられてきたのだが、以上に論じてきたような問題もあってか、「近年は、特捜検察の積極的志望者が少なくなっている」との話を、私は、検察の内部についてよく知る人物から聞いたことがある。しかし、そうであればなおさら、自己チェック機能の弱体化も懸念されるわけである。
政治の腐敗については事件限りで任命された特別検察官が捜査、起訴を行うというアメリカの方式のほうが、よほど健全であろう。あるいは、特捜検察は捜査の端緒をつかむだけのセクションにして、現実の捜査は警察あるいは別の検察セクションにさせ、起訴も同様にし、また、起訴の当否、必要性については、弁護士等外部から入れた法律家の目をも交えて決めるような組織にすべきであろう。権力が少数の人間に集中し、立件の基準が不明瞭であり、第三者による客観的なチェックが入らない現在のような制度は、まさに前近代的である。
なお、2024年8月8日、大阪高裁は、大阪地検特捜部の検察官に関する付審判請求につき、「検察なめんな」などと一方的にどなり、机を叩いて責め立てたなど取り調べの際の言動に大きな問題があったとして、特別公務員暴行陵虐罪で審判に付する決定を出した。付審判請求とは、公務員の職権濫用罪について告訴・告発を行った者が、検察の不起訴処分に不服のある場合に、事件を裁判所の審判に付する(刑事裁判を開始する)ことを求める手続であり、検察官が審判に付されたのは初めてのことである。また、検察官の取り調べをめぐっては、国家賠償請求訴訟も相次いで提起され、地裁での勝訴判決も出ている。
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さらに【つづき】〈日本はもはや「刑事司法」に関しては「後進国」であるという「否定できない事実」〉では、刑事系裁判官の「法意識」について見ていきます。