山深い群馬の隔離施設に「強制収容」されたのは77年前、9歳の時だった。新潟県魚沼市出身の男性(87)は、不当な隔離政策が長く続いたハンセン病の元患者。施設を出た後も差別と隣り合わせの社会で病歴を隠し続け、2019年には施設への再入所を自ら選んだ。今秋、新潟県を訪れた男性は古里に何を思うのか。そして社会に語りかけたい言葉とは-。
男性は群馬県草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」で暮らす。10月下旬、新潟県出身の元患者を支援する県藤楓(とうふう)協会の「里帰り事業」で来県した。今回は約40年前に勤務先の社員旅行で訪ねた佐渡や新潟市を回った。記憶の中の光景は様変わりしていた。
最初に古里を離れたのは1947年6月のことだ。父の死を機に、家へ保健所職員が来た。ハンセン病による知覚まひを調べるため、体のあちこちに針を刺された。「痛くても我慢して痛くねえと言ったら、これはおかしいとなったらしい」
家が真っ白になるまで消毒され、兄と楽泉園への強制隔離が決まった。患者を輸送する列車が停車するたび、ホームの客から向けられる好奇の目。窓を開けるのも止められた。
当時の療養所では入所者が過酷な労働や重症者の看護などを強いられたが、幼かったからか、男性にその記憶はない。「傷痍(しょうい)軍人さんがかわいがってくれた」と思い起こす。
一方、残された家族は差別に襲われた。村の人が寄り付かなくなり、妹はいじめに遭った。家を焼くよう言われた母は「子どもを連れて身投げしようか」とまで思い詰めたという。
主立った症状がなかった男性は、2カ月で魚沼に帰された。中学卒業後に上京し、電気や建設の仕事に従事。奥只見と関東を結ぶ送電線を張る作業や、1970年の大阪万博の工事にも関わった。
しかし、病歴は「ばれたら付き合いがなくなる」と誰にも言わなかった。薬をもらうなどの目的で楽泉園に何度か出入りしたが、職場には「ちょっと大きい病院に行く」と告げた。
62歳で退職。その頃、手が曲がり、汗も出なくなった。ハンセン病の後遺症とみられるが、周囲には「リウマチじゃないか」と言った。
高齢になり、最後に頼ったのは楽泉園だった。
77年前に隔離された場所で生活を始めて5年。東京や新潟に戻ることはないのか-。「いまさら社会で暮らそうなんて考えられない」。里帰りも「これが最後じゃないかな」と思う。
ただ、心境の変化もあった。「この年でもう隠すことはない」と、これからは語り部として見学者に体験談を話すつもりだ。
差別を助長し、憲法違反とされた隔離政策など「法律のこと」は語りようがない。うまく生い立ちを話せるかも分からない。それでも伝えたい。「苦しい時があった、こういうことがあったと皆さんに覚えていてもらいたい」
県藤楓協会は1969年度から新潟県出身者を招く「里帰り事業」を実施。高齢化などにより、今回の男性が14年ぶりの事業となった。
(報道部・高橋哲朗、佐渡総局・榎本文)