「消化器外科医」激減で医療崩壊の懸念が
国内では「超高齢化」が確実に進んでいる。これに伴い、日本人の死因トップ「がん」の罹患数も増加していくとみられるが、一方で頼みの綱となる「消化器外科医」は減り続けているという。科学ジャーナリストの緑慎也氏が、その実情をお伝えする。
〈医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし〉
すなわち医者の本分は博愛の心で人命を救うことであると説いた。しかし今、その理想からはほど遠い事態が引き起こされている。
今年4月から、労働基準法の対象である勤務医の時間外労働時間が、原則として「年間960時間以下」「月100時間未満」に制限されることになった。そして、この「医師の働き方改革」が始まってまもない4月25日、日本消化器外科学会のホームページに「国民の皆様へ」と題する衝撃的なメッセージが公開された。それによれば消化器外科医の数はハイペースで減少しており、10年後には現在の4分の3に、20年後には半分にまで激減する見込みだといい、
〈消化器外科医の不足が深刻化している現在の状況を改善しないと、将来にわたり国民の皆さんに本来提供されるべき医療サービスに大きな支障をきたす〉
そう訴えているのだ。
このまま消化器外科医が減り続けると……
消化器外科とは食道や胃、小腸、大腸など食べ物の消化や吸収に関わる臓器に生じた疾患を手術により治療する診療科だ。なかでも重要なのは、日本人の2人に1人が罹患するとされる「がん」である。
国内では高齢化の進行に歯止めがかからず、それに伴ってがん患者の数は今後、ますます増えていくことが予想される。そんな折、消化器外科学会の会員数は2000年前後のピークから2000人ほど減っており、現在は約1万9000人。むろん医師の高齢化も同時進行しており、現在、同会員のおよそ3割が60歳以上だという。10年後には、65歳以下の会員が26%も減少するとみられている。
このまま消化器外科医が減り続ければどうなるか。進行性のがんに罹患した場合、手術が1カ月待ちで済むならまだしも、仮に半年も放置されれば命に関わるだろう。待てど暮らせど手術が受けられないまま命尽きる患者が続出――。まさしく「医療サービスに大きな支障をきたす」ことになるのだ。
労働時間の長さではなく給与水準の低さ
「国民の皆様へ」とのメッセージが出される2カ月前、同会ホームページには「医師の働き方改革を目前にした消化器外科医の現状」と題し、同会に所属する医師を対象としたアンケート結果の報告書が掲載された。
65歳以下の会員2932人から回答を得たという調査では、「時間外労働」について回答者の16.7%は過労死ラインとされる月間80時間以上(うち全体の7.6%は100時間以上)、48.3%は過労死との関連があるとされる月間45時間以上と答えたという。回答者の実に半数近くが長時間労働を強いられていることになる。
だが、意外にもこのアンケート結果は、最大の不満が労働時間の長さではなく給与水準の低さであることを示していた。
「最も不満に思うこと」を一つ選ぶ設問に対し、回答者の11.2%が「労働時間」を選択したのだが、その4倍近い44.3%が「給与」を選択しているのだ。また「後輩等に消化器外科医になることを勧めるか?」との設問には「強くそう思う」「そう思う」合わせて38.2%、「子供に勧めるか?」の問いに至っては、わずか14.6%にとどまったという。
厳しい競争を勝ち抜き、「医は仁術なり」の金言通りに世間では尊く、そして高潔とされる立場にありながら、消化器外科医が目下、将来に強い不安を抱いている実態が、アンケートからはうかがえる。
医療の現場ではいま、何が起きているのか。まずは日々、最前線で患者と向き合っている医師に聞いてみた――。
激務の日々
「起床は6時前で、病院に着くのは6時50分です。そして手術開始が8時15分。普段の帰宅時間は夜8時ですが、手術が長引けば深夜0時を回ることもあります」
前出のメッセージ「国民の皆様へ」の執筆者である広島大学病院消化器・移植外科の黒田慎太郎医師(47)は、そう話す。手術時間は扱う消化器によって異なり、黒田医師が専門とする肝胆膵(肝臓・胆道・膵臓)のがん摘出の場合、4~5時間で終わることはまれで、しばしば10時間以上を要するという。
最近は「ダヴィンチ」と呼ばれるロボットによる手術も行われていると聞く。が、ロボットを使えば手術時間も短縮されるのかと思えば、その逆だという。
「今の手術支援ロボットは『ロボット外科医』ではありません。皮膚の切開、病巣の切除、傷口の縫合などすべての手技は、医師がモニターを見ながらメスなどを慎重に遠隔操作して行います。そのため、ロボットを用いない場合より、かえって手術時間は長くなりがちです。ロボット投入の目的は時間短縮のためではなく、主に患者さんの体への負担を軽くすることなのです」(同)
大学病院は一般病院と比べ、より専門的で高度な医療技術や知識が求められる。外科であれば新たな手技のトレーニングや治療法の開発、病気のメカニズムの解明に向けた研究が行われる。加えて、研修医の指導にも時間を割かれることになる。治療方針を話し合うカンファレンスに回診、手術や術後の管理といった、医師としての日常的な診療業務に「研究者」「教育者」としての業務が上乗せされるわけだ。
「しょっちゅう机の上で寝ていた」
黒田医師によれば、勤務先で「医師の働き方改革」に向けた準備が始まる以前は、より忙しかったという。
「朝6時前に出勤して、帰宅は毎日、深夜0時前後でした。睡眠時間も含め、自宅で過ごせるのは6時間程度。土日も必ず出勤していました」(黒田医師)
「改革」以前の激務ぶりを別の医師にも証言してもらおう。北里大学病院一般・消化器外科(上部)の鷲尾真理愛医師は、今年2月に産休から復帰。が、それより前、医師になって間もない頃は緊急オペや患者の容態急変のため病院に泊まり込み、1週間以上帰宅できないこともしばしばだったという。
「カンファレンスは朝7時半から行われますが、その前に回診があるので7時には出勤し、8時から手術開始。夜まで続く時もありましたが、昼食を取らない日もありました。卒後10年ほどの間は病院に3日分ぐらいの着替えを用意し、しょっちゅう机の上で寝ていましたが、そんな働き方でも当時はおかしいとは感じなかった。体が“まひ”していたのでしょうね」
医師の健康と医療提供体制をてんびんに……
もっとも、各病院で進められた業務改革のおかげで、現在は二人とも休息の時間が確保されるようになったという。
冒頭で触れた時間外労働の上限規制が、今般の働き方改革のポイントだ。ただし勤務医は、所属する医療機関が特例申請することで年間1860時間までの残業が可能となる(それを超えると使用者たる医療機関の管理者は刑事罰に問われる可能性がある)。
一般労働者の時間外労働の上限は年間720時間。医師のほうが長めに設定されている主たる理由は、医療提供体制の維持にある。オンラインでの予約や診療といった情報通信技術(ICT)の活用などで業務を効率化しても、おのずと限界はある。一般労働者と同程度の残業しか認められなくなれば、医師の長時間労働を前提に成り立ってきた日本の医療は瞬く間に崩壊する。医師の健康と医療提供体制をてんびんにかけ、前者を犠牲にして設定された“上限”なのだ。
主治医制からチーム制へ
黒田医師の労働時間も以前より減ったとはいえ、依然として一般労働者に比べればはるかに長い。それでも「充実した日々を送っている」との実感はあるといい、
「第一に、家族と過ごす時間が増えました。以前ならば、家族旅行や子どもの運動会を理由に休みをもらうなど考えられませんでしたが、今では有給休暇も取得しやすくなりました」
続けて、こう言うのだ。
「『主治医制』から『チーム制』に変わった影響は、やはり大きいと思います」
主治医制とは、ある患者の診療から手術、術後の管理までを一人の医師がすべてカバーする仕組みである。一方、チーム制では複数の医師が情報を共有するため、たとえば診療はせず手術には参加する、あるいは手術はしたが、術後の管理は他のメンバーに任せるといったことが可能になる。
主治医制では担当する患者の容態が急変した場合、土日でも病院に駆け付けねばならない。一方、チーム制ならば土日の当番医がその役割を担うことになる。
「野球に例えるなら主治医制は先発完投型で、チーム制は継投型でしょうか」
黒田医師はそう表現する。また鷲尾医師が属する科でも、チーム制が導入されている。例えば手術時に、病巣の切除と再建でメンバーを入れ替えることにより、昼食の時間も確保できるようになった。そのメリットは、業務の効率化だけではないという。
「いかなエキスパートでも、食事や睡眠が不十分では集中力を保てません。チーム制によって、医療の質も上がったと思います」
8割近くが給与に不満
〈医師は、医師である前に一人の人間であり、健康への影響や過労死さえ懸念される現状を変えて、健康で充実して働き続けることのできる社会を目指していくべきである〉
そううたわれている。両医師の勤務実態に鑑みれば、この部分は改善されつつあるといえよう。ところが、それでもなお消化器外科医の不足は深刻化している。国内の医師数は年々右肩上がりで、20年末の時点で約33万9000人と、20年間でおよそ8万4000人増加。これに呼応するように内科学会や循環器学会、形成外科学会などでは会員数が軒並み増えているのだが、ひとり消化器外科学会だけが10%以上の減少を見ているのだ――。
今回のアンケートからは、医師らが給与面で強烈な不満を訴えている現状が見て取れる。
回答によれば年収1000万円未満は9.2%で、1000万~1500万円未満が34.6%。1500万円以上が56.2%である。すさまじい過重労働に見合っているかと問われれば疑問は残るが、“医師は高給”という一般的イメージを崩すほどの低賃金ではないだろう。ところがアンケートでは、賃金に関する満足度について「全く不満足である」28.4%、「やや不満足である」48.3%と、8割近くが不満を示しているのだ。
7~8割の勤務医がアルバイトと兼務
なぜ消化器外科医は、決して少なくない年収に満足していないのか。その理由を考える上で注目すべきは「アルバイト」の特殊事情である。
国内の病院では一部を除き副業が認められており、7~8割の勤務医がアルバイトと兼務している。医師向けアルバイト紹介サイトを見ると、問診・聴診だけで時給1万円以上などとうたうところもある。この場合、週3日で6~7時間ずつ働けば、アルバイトだけで年収1000万円を突破する計算である。
常勤で得られる給与が低いほど、アルバイト依存度は高くなる。この傾向が特に顕著なのが大学病院の医師たちだ。黒田医師によれば、大学病院の基本給は市中病院の半分程度だという。従って合間を利用して働かない限り、市中病院の医師らの平均年収(1500万円)を大幅に下回ってしまう。
24年5月6日付の朝日新聞デジタル「夜中に緊急手術しても『時給500円』大学病院医師の訴えに教授は」との記事では、東日本の大学病院に勤めていた30代の男性医師の月収が「額面23万円、手取り18万円」と紹介されている。この医師はアルバイトで月60万円を得ていたという。常勤の月収がバイト代の3分の1なのだ。
アルバイト自体は若手から中堅、教授はもちろん病院長クラスまで幅広く従事しているのが現状なのだが、特筆すべきは大学病院の場合、どの診療科も等し並に扱われる点だ。内科や外科、小児科に眼科、皮膚科から産婦人科に至るまで、所属する診療科にかかわらず医師の基本給は同じなのである。
つまりは、暇な診療科の医師ほどアルバイトに時間を割いて収入アップを目指しやすく、忙しい診療科の医師は安い基本給に苦労するはめになる。後者の筆頭が、消化器外科の医師というわけだ。
アルバイトもままならず
前出の黒田医師が語る。
「外科にもいろいろあり、緊急手術がほとんどなく、また術後の管理にさほど手がかからない科もあります。そういう科の医師は、朝方ちょっと患者さんの様子を見て、お変わりなければ平日の昼間でもアルバイトができる。それに対して私たち消化器外科では、昼夜を問わず患者さんの容態急変が発生します。アルバイトに充てられる時間も土日か、あるいは平日の18時から翌朝7時半といった『当直』勤務しか選択肢がないのです」
家族と過ごす時間は言うに及ばず、日々の睡眠時間も犠牲にしながらバイトに励むことで、大学病院所属の消化器外科医らは、ようやく先に述べた水準にまで年収を押し上げてきたのである。
医師の働き方改革は、消化器外科医に健康をもたらす一方で、アルバイトの時間を奪っていく。常勤先での時間外労働だけでも上限を守るのは難しいからだ。最悪の場合、結果として年収の半分以上を失うことになる。
「以前ならば、医師がお金の話をするのははばかられる雰囲気がありました。でも今の若い人たちはしっかりしています。研修医の先生から『消化器外科も他の科と給料が一緒なのですか』と尋ねられることがよくあります」(同)
楽して稼げる科に流れてしまう問題
研修医は2年間、さまざまな診療科を経験したのち、自身の専門を決める。どこを選ぶかは基本的に自由。長い勉強時間にトレーニング期間、決して安くない学資をつぎ込んだ最終段階で、激務のわりに収入の低い科より楽をして稼げる科に流れるのはやむを得ない。だから、消化器外科医は減少の一途をたどっているのである。
悪循環はすでに始まっている。いかに「チーム制」で負担を分け合ったところで、メンバーが減れば個々の負担が増えていく一方だから、若手医師はますます振り向かない。「医は仁術」の精神を体現しようにも、その担い手が消えようとしているのだ。
緑 慎也(みどり・しんや)
1976年大阪府生まれ。 出版社勤務後にフリーとなり、科学技術などをテーマに取材・執筆活動を行う。著書に『13歳からのサイエンス』(ポプラ新書)、『認知症の新しい常識』(新潮新書)、『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(共著、講談社)など。
「週刊新潮」2024年11月7日号 掲載