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戦後最大の冤罪事件「袴田事件」。見込み捜査と捏造証拠により袴田巌さんは死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきました。88歳の元死刑囚と袴田さんを支え続けた91歳の姉、「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願がようやく実現――。ジャーナリスト粟野仁雄氏、渾身のルポルタージュ『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』から一部を抜粋して紹介します。
会見でVサインをする袴田巌さん、ひで子さん、小川秀世弁護士
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◆判決まで3か月を前に袴田ひで子さんが渾身の挨拶
若き日の袴田巖さんと家族づきあいしていた渡邊昭子さん(90)が登壇し、「警察がすぐに来て、アルバムの巖さんの写真をはがしていった。夫 (蓮昭さん)は巖君が犯人のはずがない、と怒っていた。
『太陽』(夫がバンドマンだったキャバレー)の女性もみんな、おなかちゃん (巖さんのあだ名)がそんなことをするはずがない、って言ってました」など、長男秀昭さんに付き添われて語ってくれていた。
その前に、ひで子さんがあいさつしたが、いつもは簡潔に話をする彼女も、さすがに積年の思いが募ってきたのか、珍しく15分以上語った。そのまま紹介する。
今日は6月30日で、事件が起きてから58年でございます。58年前というとわたくしは33歳でございました。年月が過ぎるのは早いものですねえ。
今まで再審開始になるまでは、年月なんて関係ないように思っておりましたの。それが再審開始になりまして、精神的にちょっとあれがあってなんとなく、しばらく考えていましたら。
なるほど58年は長い。何でこんな長い間、わたくし(聴取不可)でねえ、過ごしていたんですよ。
自分が91なんてぴんと来ないんですよ。若いつもりでいるんですが。91歳には間違いございません。まあ、58年前は大変でした。
◆恐ろしい思いをした警察での取り調べ
巖がとっつかまって、私たち家族は、警察に連れられましてね。兄(長男)も母も嫁いだ二人の姉もわたしも。たまたま養子に行った兄(二男)は下田にいたもんですからね。家宅捜査はありませんでしたが。
わたくしの狭い6畳ひと部屋の粗末なアパートにも、朝7時ごろかなあ、警察官が4人くらい来ましてね。捜索令状って見せるでしょ。それに「袴田巖、強盗殺人犯」って書いてある。
それを見て、「これ、なんだろうなア」と思いました。何のことだろうと思って家宅捜索を受けました。
家具があるわけじゃなし、押し入れと箪笥、食器棚、冷蔵庫くらいでした。その中を(警察は)ひっかき回していました。巖がその前に来てお味噌を持ってきたんです。こがね味噌の。
それを3つか4つお勝手に置いていった。そしたら持っていくものがないから、それを持って行ったんです。なんか探してたんでしょう。
浜松中央警察署に連れていかれました。私はさっぱりわからないから怖いとも何とも思いません。取調室っていう狭い部屋に連れていかれて、私を一番奥に入れて、刑事が出れないように入り口にした。
何か質問したんですが。その質問がもうすっかり忘れておりますの。それでお昼になりまして、カツ丼取ってくれたんです。私はそれをがつがつ食べちゃったんですよ(笑)。
朝ごはんも食べてなかったんで。後から考えれば、食べなきゃよかったとも思ったんですが。まあ懐かしいというよりも、そういう恐ろしいことがありました。
◆巖が出てきた時、本当にうれしかった
50年の苦労なんてすっ飛んじゃってねえ。喜んで喜んで、喜んで笑顔になりました。
その前は恐ろしい顔してて、言いたいことだけ言って、すっと帰ってくる、集会でもそういうことばかりしていました。
それが巖が出てから、やたらにニコニコしてねえ。私、もともとニコニコする性分なんです。33歳からパタッとニコニコがなくなりました。それが復帰しました。
この頃はね、猫ちゃんを飼ってるんです。2匹保護猫を。(私は)巖とはほとんど話しないけど、わかるから。必要なことは巖が言ってくるから。「そうしよう」、「こうしよう」とか言う。
「ボタンが取れて困った」と言うからつけてあげたり。お風呂なんかも自分で入れて入ってちゃんとしますの。(湯を)入れてあげようとすると寝ちゃったりする。
私が作ったものも食べるんですが、この頃は毎晩ウナギを食べております。それで「髪が黒くなった」なんて言ってるんです。本人は「ウナギ食べてりゃ死にやせん」と言うんです。
自分の思うようにさせてやりたい。私は風呂入っても栓抜いてしまう。巖は夜中に風呂入れて入っている。1時間も入ってるので。心配して覗いてみると、頭から足の先まで洗っている。
朝は早い時は6時ごろ起きる。巖は最近、早く起きて自分の部屋に籠っている。座り込んで考えごとしてるんです。昨日も今日も。そして所定の位置に座ってテレビ見ている。
ちょっとは元に戻ったようなところがあるような、ないような、まだ妄想の世界の中におります。妄想の世界から抜けだせないみたいです。治らないのはしょうがないと思っています。昨日、大阪行ってきましたの。
◆「なぜ今まで頑張れたのか?」とか聞かれる
どこの集会も。わたくしは「巖は無罪だから頑張れた」と言ってるんです。そう思っています。
刑務所に48年間、おりましたでしょ。まあ、48年、3畳の狭い部屋で運動もできない、何もできないという、苦しい戦いをしていたのは巖なんです。巖に自由はありません。それこそ死んじゃったほうがいいと思った時もあったのではないかと思う。
この頃、巖を見ておりまして、どういう風に拘置所の中で生活していたのかを見て(想像して)おりますの。いい悪いではなく、長年の習慣と言いますか、鼻紙を今もきちっと折っております。10年前と変わりございません。
少し物言うようになりましてね。それも夜中に私を起こすんです。「猫が腹をすかせて困ってるから、餌をあげてくれ」って言うんですよ。「ご飯をあげて」とか。
巖の子供の頃は、拾ってきた猫飼ってた。犬も拾ったりして庭で飼っていた。今みたいなカリカリ(ペットフード)とかではなく、粗末なものでも猫も犬も生活できた。
巖は揚げ物なんか買ってきて「猫の餌だ」と言ってる。毎日買って来るんです。困ってお店と交渉して返品させてもらってます。「それ買っちゃダメ」って言えないんですよ。言っても聞かない。
まあ、ともかく(巖は)元気に生きております。わたくしも91だけど割合と元気と思っている。再審開始(無罪)になることを願っていますが、9月26日にはいよいよ判決です。
判決が出たら巖にしっかり説明したいと思っております、今まで、全然説明していません、「今日は清水行ってくる」とかだけ言ってる。「留守番頼むね」というと「ああわかった」。裁判だろうなとは薄々感じていると思うのですがね。
今日は「58年前の6月30日」ということを話せばひょっとすると巖はわかるかなと思っていますが、それはわからんようでございます。
今日帰ってからも話は致しません。9月の26日までは、まあお預けということで、この裁判の話をしないつもりでございます。
今日、渡邊(昭子)さんが話してくださいます。渡邊さんは巖が青春時代、唯一、一家総出の家族づきあいしてくれた方なんです。私もここ(集会)へ来るようになってお世話になってからご主人とお会いしたこともあります。ご主人は亡くなってしまったけど奥様はお元気です。懐かしい話になると思います。
◆今現在の巖は妄想の世界を行ったり来たりしております
2014年の3月27日に釈放されて。わたくしはその時にもう勝ったと思っております。絶対勝ったと思っている。後の裁判とかそういうものは、やらなきゃしょうがないからやってると思ってる。
わたくしは気楽にしておりますが、弁護士さんの先生方は、大変でございます。いちいち(検察に)反論したり、書類を作ったり。それもやっと終わりました。
9月26日には大いに期待して、待っております。皆様、本当に長い間、お世話になりました。おかげで再審開始になりました。
それこそ皆様の後押しがあってこそ、でございます。ありがとうございました。もうしばらくお付き合いいただきたいと思います。9月26日までよろしくお願いいたします。失礼いたしました。(拍手)
※本稿は、『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)の一部を再編集したものです。
粟野仁雄
袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い 単行本(ソフトカバー) – 2024/8/26
粟野 仁雄 (著)
いよいよ審判が下る、戦後最大の冤罪事件
見込み捜査と捏造証拠により死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきた袴田事件。
数奇な運命をたどってきた88歳の死刑囚と91歳の姉、そして「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願が、いま実現する——
無実の人・袴田巖を支え続けた姉・ひで子と、弁護団・支援者たちの闘いを追った、渾身のルポ
●目次●
序 章 袴田巖が帰ってきた
第1章 事件発生から逮捕へ
第2章 証拠をめぐる疑惑の数々
第3章 袴田事件と交錯する人生
第4章 雪冤への長い道のり
第5章 〝開かずの扉〟の先にあるもの
終 章 「常識」を取り戻す闘い
本書によせて 袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会事務局長 山崎俊樹
解説 ルポライター 鎌田 慧