一生懸命でマジメな政治家ほど、なぜか報われない…そのことを痛感させてくれる「自民党議員の名前」(2024年11月7日『現代ビジネス』)

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海部俊樹〔PHOTO〕gettyimages
「パペット(操り人形)内閣」「いっしょうけんめいカイフくん」と揶揄されながらも、与えられた「総理大臣」の役割を懸命に果たそうと頑張った、宰相・海部俊樹。だが、この「善人宰相」はその後の世界に災厄を招いた中国への円借款再開を行い、今に至る中国の怪物化に手を貸すことになった……。
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永田町取材歴35年、多くの首相の番記者も務めた産経新聞上席論説委員乾正人は、いまこそ「悪党政治家」が重要だと語る。「悪人」をキーワードに政治を語る『政治家は悪党くらいでちょうどいい!』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集してお送りします。
弁論術に秀でても演説の中身は空っぽ
海部俊樹という人物は、何事にも真面目に取り組み、裏表がなかった。
私は平成元(1989)年6月から産経新聞政治部に配属され、官邸記者クラブで2年間、首相番記者を務め、彼を間近に見てきたからそう断言できる。
海部は会社勤めの経験はなく、学生時代から代議士秘書を務め、政治家になった。政治資金をめぐるスキャンダルにはほとんど無縁で、当時の永田町では極めてまれな「クリーンな政治家」だった。
学生時代、中央、早稲田の両大学の弁論部(早稲田は雄弁部)に所属し、「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と称賛されたほど、弁論術に秀でていた。
ただし、残念ながら弁論術には秀でていても演説の中身には独創的な発想はなかったという。
竹下派の「パペット(操り人形)内閣」
三木派の代議士、河野金昇(きんしょう)の地盤を引き継いだ海部は、当然のごとく三木派に所属した。三木武夫政権では官房副長官として重用されたが、派閥が河本敏夫禅譲されると、派内では坂本三十次(みそじ)ら河本側近議員が台頭し、微妙な立ち位置となった。
そんな海部に目を付けたのが、早稲田雄弁会の先輩、竹下登だった。竹下は何くれとなく海部の面倒を見、竹下派旗揚げ後は、「現住所・河本派、本籍・竹下派」と仲間の代議士や記者たちから揶揄されたほど。
だからこそ、リクルート事件などで国民の政治不信が頂点に達し、竹下内閣に続いて宇野宗佑内閣が倒れたあと、竹下が「隠し玉」として海部を説得して次期総裁に担いだのもむべなるかな。
これに対し海部が所属していた河本派は、反発し、領袖の河本敏夫自民党総裁選に出馬の構えをみせたが、当時は竹下派の全盛時代。「経世会にあらずんば代議士にあらず」の流れに抗することはできず、しぶしぶ「海部首相」を容認した。
そうしてできた海部俊樹内閣が、竹下派の「パペット(操り人形)内閣」だったのは言うまでもない。
幹事長に竹下派ホープだった小沢一郎が起用された自民党の党三役のみならず、第一次海部内閣の主要閣僚人事は、「竹下と金丸信、それに小沢の三人で決めた」と噂されたほど。
重要な政策決定の前には、必ず竹下、金丸両人の了承を得る必要があった。
首相時代の海部は朝早く起き、NHKニュースを横目に見ながら全国紙五紙すべてに目を通していたという。
自分があずかり知らぬところで、つまり竹下―金丸―小沢ラインが勝手に政策を決め、メディアにリークしているのが心配だったのと、政府関係の案件で竹下、金丸に伝えていないことが紙面に載っていると、朝一番で両人に電話で説明しなければならなかったからだ。
当然、幹事長の小沢の発言力が増し、首相(自民党総裁)の海部が、部下であるはずの小沢に気を遣う場面に何度も遭遇した。
このころ番記者の間では、小沢が「担ぐ神輿(みこし)は軽くてパーがいい」と酒席で語ったという噂がまことしやかに語られていた。
「いっしょうけんめいカイフくん」
だが、彼は与えられた「総理大臣」の役割を懸命に果たそうとしていた。
週末も「視察」と称して地方や都内に出かけるのは当たり前だった。たまの休みが、毎週のようにつぶれた番記者は「サンデー・トシキ」(このころ、プロ野球ロッテの投手、村田兆次が日曜ごとに登板し、「サンデー兆次」と呼ばれていた)と呪詛していた。
ちなみに「働き方改革」なんて洒落た言葉がなかった当時、若い政治部記者の平日は、早朝から深夜までセブンイレブン(午前7時から午後11時まで)どころか、シックスワン(午前6時から翌日午前1時まで)の「19時間労働」が当たり前だった。
そんな海部の一生懸命さが、「いっしょうけんめいカイフくん」(昭和の終わりに『いっしょうけんめいハジメくん』という人気サラリーマン漫画があった)と揶揄されながらも徐々に国民の共感を呼び、平成2(1990)年2月の総選挙で自民党は勝利を収めた。
海部の働きによって自民党は蘇生したのである。
中国への円借款再開
そんな何事にも一生懸命な彼が、真剣に取り組んだ外交課題が、中国への円借款再開だった。しかもこれが「成功」してしまったことが、その後の日本と世界に厄災をもたらすことになるのだが。
海部政権が誕生する前の平成元(1989)年6月4日、北京で民主化を求めた学生たちを武力で鎮圧、多数の死傷者が出た天安門事件が起きた。
欧米各国は、即座に対中経済制裁に踏み切り、日本も足並みを揃えて第三次円借款の供与を凍結した。
第三次円借款は、竹下が首相時代に訪中した際に約束したもので、中国の近代化支援のため水力発電所や鉄道、港湾整備のため1990年から6年間で総額8100億円を供与することを予定していた。
中国側は、先進各国の制裁を解除させるためには、包囲網の中で日本が最も脆弱だと分析。特に第三次円借款は喉から手が出るほどほしく、円借款凍結解除へ向けてまず、日本の財界に攻勢をかけた。
天安門事件が起きてから5か月後の1989年11月。
当時の中国首相、李鵬(りほう)は、経団連会長、斎藤英四郎が最高顧問を務めた日中経済協会訪中団と会見し、円約款再開へ向け「公表せず、作業を少しずつ始めたらどうか。公表すれば欧米の反響が必ず出るだろう」と述べ、秘密裏に日本側が調査団を送るよう求めたのだ。
これに対し訪中団は「進めてほしい」と易々と中国側の提案に乗った。
斎藤らは帰国後、外相の中山太郎に「いま動けば将来十倍、百倍得るものがあろう」と進言したのである。
日本が率先して中国に助け舟を出せば、日本企業が将来、十倍、百倍の利益が得られるという皮算用をはじいたのだろうが、なんと浅はかだったことか。
新日鉄社長として上海宝山鋼鉄誕生を全面支援した斎藤は、当時は豪放磊落な「大物財界総理」と持て囃されたが、しょせんは未来が見えないただのサラリーマン社長だった。
新日鉄の後継、日本製鉄は2024年、上海宝山鋼鉄と縁を切った。日本最大の「親中企業」は、ようやく中国を全面支援した愚を悟ったのである。
乾 正人(政治コラムニスト・産経新聞上席論説委員)