「『103万円の壁』引き上げでは抜本的解決ならず」法政大・山田久教授(2024年11月7日『日経ビジネス』)

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山田久(やまだ・ひさし)氏。 京都大学経済学部を卒業後、1987年住友銀行(現三井住友銀行)入行、93年に日本総合研究所調査部に出向。98年、同主任研究員。調査部長兼チーフエコノミストなどを経て2019年に同副理事長に就任。23年より現職。
今回の衆院選で与党は議席数を大きく減らし、政治的な不透明感が強まりました。これまで政府が力を入れてきた賃上げや労働市場改革の行方が気になります。
山田久・法政大学経営大学院教授(以下、山田氏):経済政策では各政党とも大きな違いはありません。微妙な差はあるものの、ほぼ一緒だと言ってもいいでしょう。関心が集まっている賃上げについても、あらゆる政党が取り組むべき項目として掲げています。人材にしっかり投資をして賃金を増やすことについて、既に大筋で合意は出来上がっているのです。ですから今後どんな政権の枠組みになろうと労働政策に大きな転換は起きないと思います。
与党と政策協議を進める国民民主党は、所得税が発生する「年収の壁」について、基礎控除等の非課税枠を103万円から178万円に引き上げることを目指しています。
山田氏:労働力不足を短期的に緩和する効果はあるかもしれません。ただ女性の経済的自立を促進するという社会的な動きからは逆行する施策ではないかと思います。年収の壁それ自体をなくし、女性が労働時間を気にすることなく、就業調整を強いられることなく働ける環境を構築していくことが重要ではないでしょうか。それに非課税枠を引き上げたところで、賃金が上がっていけばまた壁に直面することになります。社会保険料が発生する106万円や130万円の壁も残っています。しかも税収は大幅に減りますし、高所得者ほど減税の効果が大きいという指摘もある。こうした課題はどうするのでしょうか。少なくともストレートに賛同できる施策ではありません。
今回の選挙では最低賃金の引き上げにも注目が集まりました。
山田氏:いずれかの時期に最低賃金が(全国平均で)1500円になることはほぼ間違いないと思います。問題は時期です。石破茂首相は2020年代の達成を目指していますが、実現には毎年7%程度の引き上げが求められます。物価や政策次第の面はあるものの、これはかなり高い目標です。特に中小零細企業には厳しい話でしょう。
 引き上げのペースは安倍政権の頃から上がってきましたが、これまでマイナスの影響はほとんどありませんでした。最低賃金の水準がかなり低く、この近辺の賃金で働いている人自体がそもそも少なかったからです。でも今は状況が違います。影響率(最低賃金額を改正した後に、改正後の最低賃金額を下回ることになる労働者割合)を見ると、10~15年前は数パーセントだったのが、足元では20%を超えてきています。さらに最低賃金をハイペースで上げていくとすれば、中小企業の人件費負担は相当重いものになるでしょう。設備投資をする余力がなくなり、競争力や生産性が低下する恐れがあります。
 賃上げができない企業は淘汰されればいいという見方もあります。実際に人手不足は深刻化していますから、いわゆる「ゾンビ企業」は必然的に淘汰されるでしょう。ただ賃上げが難しいのはゾンビ企業ばかりではありません。高い品質の製品を手掛けているけれども取引先との関係で価格転嫁をうまく進められないとか、素晴らしい技術を持っているが競争が厳しくて価格を上げられないとか、賃上げしようにもできない「グレー」な領域で苦しむ中小企業は少なくありません。では賃上げができないからといって、こうした企業をどんどん潰していっていいのでしょうか。それは結局のところ経済全体の体力を弱める結果になりはしないでしょうか。
 何がなんでも賃金を上げればいいという話ではありません。政府が賃上げをリードし、プレッシャーをかけることは大事でしょう。ただし労働政策は強権的に導入しても効果は限られます。それに人手不足は構造的な問題ですから、今後は放っておいても賃上げの動きは続くはず。ですから今後は最低賃金を引き上げるにしても、一定の時間をかけて、納得感を醸成しながらやっていく方が経済全体としてはプラスになると思います。
政府が賃上げについて号令をかけるだけでは限界があるとして、では継続的な賃上げの実現に政府が貢献できることは何なのでしょうか。
山田氏:実質賃金を安定的に1%以上上げないと景気を持続させるのは難しいでしょう。では実質賃金はどう決まるか。大きく影響するのは労働生産性労働分配率、それに交易条件です。うち労働生産性はそこそこ上がってきているし、労働分配率を政策でコントロールするのは難しい。そもそも中小企業の分配率は既に高止まりしています。
 そこで注目すべきなのが交易条件です。産業構造の転換が遅れたことで悪化した条件を改善させないといけない。賃金が交易条件で決まるというのは直感的には分かりにくいのですが、これが結構効いてくるのです。
 
 交易条件とは貿易での稼ぎやすさを示す指標で、輸出物価指数と輸入物価指数の比で表されます。まず輸出ですが、かつて日本がずば抜けて強かったエレクトロニクス分野は新興アジア勢との価格競争に巻き込まれ、輸出価格を上げられない状況に直面してしまいました。一方の輸入価格は化石燃料に依存せざるを得ないため上がっていく構造にあります。つまり交易条件は基本的には悪化する傾向にあるのです。
 海外に製品やサービスを安く売らざるを得ず、しかも高い燃料を買っているわけですから、このままでは所得は国内から海外に移転する一方です。国内で一生懸命に生産性を上げても実質賃金が伸びにくい構造になっていると言えます。
 産業構造の転換を急ぎ、稼げる産業のバリエーションを増やしていかないといけません。あとはエネルギー政策。化石燃料の輸入を減らしてカーボンニュートラル(CN)を進めていく必要があるでしょう。CNを軸にした生産システムをつくり出すなど、政府はビジョンを示して、もっと積極的に取り組んでいくべきだと思います。労働政策ばかりに注力するのではなく、エネルギー政策とか産業政策にもっと重点を置くべきなのです。
衆院選に先立って行われた自民党総裁選では、解雇規制の見直しも議論の俎上(そじょう)に上がりました。今後大きなテーマになるでしょうか。
山田氏:考えにくいでしょう。解雇のハードルを下げないと不採算事業の整理が進まないという指摘もありますが、これはちょっと古い議論だと思います。というのも、既に大手企業は早期退職を募ったり、再就職支援サービスを導入したりして不採算事業の整理を進めているからです。紛争になった場合に金銭で解決する事例も少なくありません。
 金銭解決の制度が求められるのは、むしろ中小企業の方でしょう。不当に解雇されたのに泣き寝入りを強いられるケースはあります。こうした事態を防ぐために制度が必要だという議論に賛同する向きは強まっていると思います。ただ、いずれにしても導入に際しては野党の反対が避けられないでしょうし、強引に導入した場合は国民の反発を受け、選挙を乗り越えるのが難しくなる。だから解雇規制の緩和を進めるのは実情としては難しいでしょう。
 大企業を中心に、労働市場流動性をもう少し高める必要はあるかもしれません。ただ流動性を高めることと解雇規制の緩和は必ずしもイコールではない。だから岸田文雄前首相はリスキリング(学び直し)による能力向上支援や職務給の導入、それに成長分野への労働移動の円滑化という「三位一体の労働市場改革」を掲げて、流動性を高める環境整備を進めてきました。改革の方向性はおおむね正しいと思います。これを着実に進めていくことが現実的ではないでしょうか。
 
飯山 辰之介