皇と美智子さま、二人の「画期」となった「1975年の事件」をご存知ですか…そこで起きていたこと(2024年11月3日『代ビジネス』)
〔PHOTO〕Gettyimages
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。
この記事では、1975年に上皇ご夫妻が沖縄を訪れたことが、その後二人にどのような影響を与えたのかを、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。
異様な雰囲気
七月十七日午前九時五十七分、皇太子夫妻を乗せた日航臨時便は羽田空港を発った。同日朝、「沖縄海洋博粉砕」「皇太子訪沖阻止」を叫ぶ過激派各セクトは羽田空港周辺で決起集会を開いた。午後零時半過ぎ、山手線新橋駅で中核派、革マル派双方約千人の乱闘があり、同線や京浜東北線、横須賀線などがストップする事件が起きた。
皇太子夫妻は午後零時二十分に那覇空港に到着した。飛行機は着陸前、海洋博会場の本部半島上空で三度旋回。夫妻は政府出展の海に突き出た海洋構造物「アクアポリス」や各パビリオンを上空から視察した。このとき明仁皇太子は沖縄戦の悲劇の島である伊江島(いえじま)に気をとめ「伊江島ではどれくらいの人が亡くなったのか」と尋ねた。
空港には屋良朝苗沖縄県知事と県議会議長、那覇市長らが出迎えた。この日の沖縄は朝から三十度を超す暑さだった。空港周辺には約二万人の県民が集まったが、歓迎の日の丸と反対運動の声の入り混じる異様な雰囲気だった。明仁皇太子は濃紺のスーツ、美智子妃も紺のツーピースにつば広帽子姿。強い日差しのなか、夫妻は零時四十分に車に乗り、南部戦跡へ向かった。約四キロの沿道でも多くの市民が日の丸の小旗を振った。
夫妻の車が糸満市に入った午後一時過ぎ、沿道の白銀病院のベランダから過激派とみられる男二人がビンや角材、石などを投げつけたが、とくに被害はなく、車列はそのまま進んだ。
火炎瓶事件、起きる
一時二十分、皇太子夫妻は「ひめゆりの塔」に着いた。「ひめゆり同窓会」会長で、沖縄女子師範第一高女で教師を務めていた七十一歳の源ゆき子が説明役として付き添った。夫妻は白と黒のリボンで束ねた白菊を塔の前の献花台に供えて黙禱。源の説明に耳を傾けた。源は次のように証言する。
「白菊の花を献花台にささげ、深く長くお辞儀をされて三歩下がられたあたりでご説明をはじめました。献花台のうしろ二メートルほどのところにある壕で亡くなった百八十八人の学徒隊員の悲劇をお話ししようとしているとき、その壕から火炎びんが投げられ、献花台にバーンと破裂して焰と煙が吹出しました。妃殿下が供えられた花束が吹飛び、爆竹の音がいたしました」
壕のなかに潜んでいた赤ヘルと黒ヘル、タオルで覆面をした過激派の男二人が「天皇糾弾!」「帰れ!」などと叫び、火炎瓶や爆竹を投げつけたのだった。火炎瓶は夫妻には当たらなかったが、二メートルほどの距離で炎を上げた。源は言う。
「妃殿下が少しよろめかれ、殿下は後ずさられましたが、取乱したご様子はございませんでした。おつきの方たちがすぐお二人を抱えるように車へお連れし、私がそのそばへまいりますと殿下が「遺族会館で会いましょう」とおっしゃいました。あとでおつきの方に聞かされたのでございますが、お車に乗られるまで殿下はご自分の危険もかえりみず、「源さんはどうした、源さんを見てあげて」と気にして下さっていたそうでございます」
過激派の男らはすぐに取り押さえられたが、警備陣の重大なミスと批判された。男らは数日間、壕のなかに隠れていた。多くの若い女学生が自決した悲劇の戦跡ゆえ「聖域」視され、徹底したチェックができていなかった。のちに沖縄県警本部長が減給処分を受けた。
「一般の人たちにもけがはなかったか」と気遣いながら車に乗り込んだ皇太子夫妻はその後も予定を変えず、猛暑のなか魂魄の塔、健児の塔、黎明の塔、島守の塔の四カ所の慰霊碑を回って供花。平和祈念資料館、旧海軍司令部壕、遺族会館を訪れてから那覇市内のホテルに入った。
七月の沖縄は立ちくらみがするような暑さだった。皇太子の額には汗があふれていた。美智子妃のツーピースの襟元にも汗が光っていたが、二人ともハンカチを使わなかった。
「南部戦跡の「健児の塔」から「黎明の塔」にいたる三百九十七段の石段でも、ご夫妻は途中一度も休まれない。東宮侍従がさすがに心配して、声をかけるんだけど全然、相手にしないんです。遺族会館で三百人の戦争生き残りの人たちと会ったときも、冷房がないものだから、ご夫妻は汗でグショグショ、それでも最前列の五十人にひとりひとり声をかけて歩く」と同行記者の話が報じられた。遺族会館では予定に入っていなかったひめゆり同窓会の人々を呼び、昼の事件についてなぐさめた。
過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、我が国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い、今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。
私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人々々、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〔宮内庁発表資料抜粋〕。
だんじょかれよしの歌声の響
翌十八日午前、皇太子夫妻は那覇新港から巡視船で沖縄北部本部半島の海洋博会場へ向かい、場内を視察した。このあと午後四時から名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪れた。夕方でも日差しが強く暑かった。西日が差す園内で約六百人の患者、職員らが出迎えた。
夫妻は視覚に障害のある患者、病気で手の指が欠損した患者らの手を握っていたわった。このとき沖縄ではめずらしく「皇太子殿下バンザイ!」の声が上った。夫妻が園を去るため車に向かう途中、期せずして視覚障害の在園者らから沖縄の船出歌「だんじょかれよし」の合唱が起こった。「だんじょかれよし」は「まことにめでたい」という意味である。
後日、明仁皇太子はこのときのことを琉歌に詠み、愛楽園に贈った。
だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る(ダンジュカリユシヌ ウタグイヌフィビチ ミウクルワレガウミニドゥ ヌクル)
〈だんじょかれよしの歌声の響と、それを見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている〉
愛楽園の盲人会会長はのちに次のように語っている。
「おふたりがおいでになると、私が琉歌の解説をしながら、陛下〔明仁皇太子〕のご要望のままに5~6曲うたいました。最後に、お見送りにと私が、“ダンジュ カリユシの歌”という琉歌をうたい始めると、一斉に在園者たちの合唱となり、おばあさんの踊りまで加わりました」
夫妻は炎天下で流れる汗をぬぐいもせずに耳を傾けていた。在園時間は予定より四十分以上もオーバーした。「いちばん感激したのは、おふたりがわれわれ在園者の肩に手を置かれて声をかけられたり、握手までされたりしたことです。まさか、われわれと握手などされるとは思わなかったので、みんな涙を流さんばかりに感激していました」と盲人会会長は言う。
ハンセン病に対して根強い偏見と差別が残っていた時代である。夫妻の人間的な姿を目撃した人々は例外なく心打たれた。
愛楽園の人々は明仁皇太子の琉歌に節をつけて口ずさむようになった。そのうちに「曲を作ってほしい」という話になり、美智子妃が作曲することになった。美智子妃は友人の作曲家・山本直純に相談して曲を作った。山本は美智子妃の作った旋律には手をつけず、伴奏と前奏・後奏をつけて楽譜をまとめた。そして「歌声の響」として愛楽園に贈られた。
このとき山本から二番の歌詞の要望があり、明仁皇太子は新たな琉歌を詠んだ。
だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島肝に残て(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン ユウナサチュルシマムチニヌクティ)
〈だんじょかれよしの歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている〉
美智子妃も翌年の歌会始で愛楽園について詠んだ。
いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく
ゆうなの花は沖縄の各地に咲く薄黄色の小さな花だ。美智子妃は沖縄でゆうなの花を見るのを楽しみにしていたが、花の盛りは六月下旬だった。愛楽園では亡くなった人々の遺骨を納めた納骨堂近くの片隅にゆうなの花が一、二輪咲いていた。初めてゆうなの花を見た美智子妃は「これがユウナの花ですね」と喜んだ。
明仁皇太子の「歌声の響き」二番は美智子妃の歌を思い浮かべて作られた。
十九日、厳戒警備のなか皇太子夫妻は海洋博開会式に臨んだ。明仁皇太子は次のような「お言葉」を読んだ。
「海はかつて幾多の生命をはぐくみ、人類にとって無限のものとして考えられてきました。しかし、海への依存がいよいよ増してきた今日、海は人類にとり、無限のものではなくなりました。豊かな抱擁力を持って人類に恵みを与えてきた海はその力を保ち得なくなってきました。〔略〕この国際海洋博覧会に世界の人々が集い、さんご礁の海をめでつつ、平和な海の実現を願い、海の未来をみつめ、考える機会としたいものと思います」
帰京してからも…
ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて(フサケユルキクサミグルイクサアトゥ クリカイシガイシ ウムイカキティ)
〈木や草が深く生い茂っているそのあいだをめぐった戦跡にくり返しくり返し思いを馳せながら〉
花よおしやげゆん 人知れぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て(ハナユウシャギユン フィトゥラヌタマシイ イクサネラヌユユ チムニニガティ)
〈花をささげます、人知れぬ御霊に。戦争のない世を心から願って〉
外間は「摩文仁の戦跡地を巡られた思いを「くり返し返し思ひかけて」と結句されたのは、殿下の悲痛なご心中の飾りのない表白であったのだろう」と思った。「くり返し返し」という表現は、琉歌では慣用句になっていたが、明仁皇太子は「私の実感として、どうしても「くり返し返し」「思ひ」をかけたいのです」と言った。
木や草がふさふさと繁っているさまを沖縄方言で「フサケーユン」という。皇太子はそれを古典的琉歌語で「ふさかいゆる」と表現した。古典琉歌の作法通りだったことに外間は感心した。五七五七七の語句の短歌に対し、琉歌は八八八六の音から構成される沖縄独特の定型詩で、地元の人でも簡単に詠めるものではない。
「いつのまにそのような琉歌語を学ばれたのであろうかと私は不思議に思ったが、ふとした折にそれらの謎が氷解したことがある。しばらく後のことであるが、殿下が、ご自身の実感にふさわしい言葉の選択に難渋なさった時に、やおらノートを取り出されたことがある。なんとそのノートには、琉球国王の詠んだ琉歌が四十数首、びっしりと書き込まれていた。殿下ご自身でノートなさったものだということであった。琉歌の意味と用字用語、表記法の規範は、国王の琉歌にあるというご明察があったからのご学習だったのであろう。それにしても、三千余首の中から国王の琉歌を選り抜かれて、ノートに書き綴る殿下のご学習には頭のさがる思いだった」
沖縄初訪問はあらゆる意味で皇太子夫妻にとって画期となった。豆記者との交歓から始まった沖縄との関わりは、現地に足を踏み入れ、文字通り地に足がついたものになった。明仁皇太子の沖縄への思いはここからより深いものになっていく。
ハンセン病療養所への訪問は初めてではなかったが、「沖縄愛楽園」訪問は社会の片隅で日の当たらない場所にいる人々との触れ合いが次代の象徴として重要な役割だという確信を深めた。
そして、はからずも火炎瓶事件は皇太子夫妻の戦争と皇室の歴史に向き合う覚悟と真心、強さを示すことになった。日ごろ明仁皇太子に辛口の週刊誌も沖縄で見せた姿勢を称賛した。「“浩宮のパパ”とか“ミッチーの亭主”といった従来のイメージを振り切って、皇太子はよくやりました。意気ごみからして違っていた」「こういっちゃなんだけど、こんなに迫力、感動のある皇太子は見たことがない」という同行記者の言葉を紹介した。
井上 亮(ジャーナリスト)
比翼の象徴 明仁・美智子伝 上巻 戦争と新生日本 単行本 – 2024/7/29
井上 亮 (著)
「富田メモ」ジャーナリストが描く、決定版評伝!
軍国主義の時代に生を受け、「神の子」とされた明仁皇太子。敗戦後は価値観が転換する中で「新生日本のホープ」として期待されるも、自身の運命に実存的な煩悶を抱く。小泉信三、バイニングから民主主義の精神を学び、エリザベス女王戴冠式出席のため欧米を訪問する過程で、自信を得、将来の象徴天皇としての責任を自覚していく。
目 次
序
第1章 万世一系と「神の子」
〈昭和8年〉
史上初、「生まれながらの皇太子」
「宙ヲ飛ビテ」奏上
鳴った、鳴った、サイレン
奉祝提灯行列の光の波
〈昭和9年〉
「御親子分離は御三才位が可なるべし」
親の思う通りに子供を教育できない
正田美智子の誕生
〈昭和10年〉
親子別居に反対した鈴木貫太郎
養育担当に決まった石川岩吉
〈昭和11年〉
二・二六事件、東京にいなかった皇太子
〈昭和12年〉
若き傅育官「ヤマ」と「ヒガ」
「一人暮らし」の始まり
同年代の遊び相手
〈昭和13年〉
苦痛だった「出張幼稚園」
〈昭和14年〉
国際協調派・山梨勝之進の学習院院長就任
〈昭和15年〉
教育方針「御学友は御作りせざること」
席は中央の前から三番目
授業に立ち会う東宮傅育官
要領が悪く積極性に欠ける
第2章 亡国の危機に
〈昭和16年〉
毎週土曜日、同級生の「お呼ばれ」
迷走する皇太子の空襲避難先選定
運動会「一等になる必要はない」
教室で聞いた宣戦の詔勅
〈昭和17年〉
日本初空襲、防空壕に避難
〈昭和18年〉
水泳で得た自信と忍耐力
見送られた軍人への任官
〈昭和19年〉
沼津へ集団疎開
体力、気力で同級生を上回る
日光疎開学園の開園
皇后からの歌と菓子袋
〈昭和20年〉
館林に疎開した正田家
疎開地へ父母からの手紙
生まれて初めてのひもじさ
「死んではならぬ、生きて殿下を守り抜け」
奥日光の南間ホテルへ
用意された皇太子の「影武者」
混乱のさなかの東宮職設置
雑音で聞こえなかった「玉音放送」
第3章 師との出会い
〈昭和20年〉徹底抗戦派から皇太子を守れ!
作文「新日本の建設」と父の敗因説明
「みじめな東京」には戻らず
「東宮様ノ御教育ニツイテモ根本的ニ考ヘヲ改ムル要アリ」
車窓に見渡す限りの焼け野原
「共産党を取り締まる必要はないのでしょうか」
〈昭和21年〉
米国側が構想した女性家庭教師
祖母の影響で歌作を始めた美智子
小金井御仮寓所で自給自足の野菜作り
家庭教師はバイニングに決定
「殿下のため、世界への窓を開いてほしい」
皇室に民主主義の精髄を伝道する
第4章 日本のホープ,青春の煩悶
〈昭和22年〉
戦後間もない時期の「女帝」「退位」論議
退屈と窮屈に慣れた生活
聖心女子学院への転校
小泉信三との初対面「実に好少年」
学友とケンカ、「絶交する」
太って日焼けした顔、あだ名は「チャブ」
〈昭和23年〉
「復興日本のシンボル」と失われる自由
小泉を皇太子教育の最高責任者に
福沢諭吉『帝室論』の講義
〈昭和24年〉
「私はすべての生き物が好きです」
皇太子、幻の留学計画
「世襲の職業はいやなものだね」
マッカーサーとの対面
小金井の御仮寓所全焼
〈昭和25年〉
「外ヅラの悪さでは天下一品」
竹山パーティーでの内面的成長
「殿下の勉強と修養は日本の明日の国運を左右する」
「自分で考えよ!」
第5章 成長への旅立ち
〈昭和26年〉
目白清明寮と終生の友
初の皇太子妃報道、実名で候補六人
異性と交流する機会がない
〈昭和27年〉
庶民の家にあこがれる
国の儀式の立太子礼と「臣・茂」
馬術大会、目前での死亡事故
欧米十四カ国訪問が決定
〈昭和28年〉
「荒潮のうなばらこえて船出せむ」
船内で元気いっぱいの皇太子
英国にくすぶる捕虜問題と経済摩擦
厳粛かつ華麗、戴冠式の盛儀
「日英親善の急速促進」は日本の新聞の過大評価
もっとも楽しかったベルギー王室との交流
北欧王室の家庭的な接待
政治的だったアメリカの対応
日系人街をオープンカーで巡る
日本の身の丈を知った旅
第6章 人生最大のカケ
〈昭和29年〉
『ジョージ五世伝』による象徴学
〈昭和30年〉
「虫くいのリンゴではない」
「ミチコさん」に振られる
〈昭和31年〉
民主主義下のお妃選考と『孤独の人』
「一生、結婚できないのかもしれない」
〈昭和32年〉
敬愛され、気品あふれるプレジデント
八月十九日の軽井沢会テニスコート
「正田さんも呼んであげてほしい」
〈昭和33年〉
正田美智子をお妃の第一候補に
選考を難航させた戦後社会の「自由」
小泉の申し入れに動揺する正田家
美智子、欧州への逃避行
「皇太子さまと結婚する意思などまったくございません」
連夜の電話攻勢
美智子に決意させた明仁皇太子の言葉
「思いやりの深い人に助けてもらいたい」
良子皇后らの反発
「とてもご誠実で、ご立派で」
国民が歓喜した「美しい革命」
反対勢力の本陣「常磐会」
ミッチー・ブーム
第7章 世紀の結婚と新たな皇室
〈昭和34年〉
「虚飾はいらない」
国会で追及された恋愛結婚
「ボクは彼女を好きになって結婚するんです」
「いのちの旅」と「こころに開きたる窓」
ご成婚パレード――日本メディア史最大級のイベント
皇太子をしのぐ美智子妃人気
「贔屓の引き倒し」のマスコミ報道
早かった懐妊と旧習・乳人制度の廃止
〈昭和35年〉
窓越しの写真撮影、いわれなき批判
「八方ふさがりのような気持」
過酷な米国訪問
消耗する美智子妃
〈昭和36年〉
『風流夢譚』事件
「でんでんむしのかなしみ」
事実無根の「聖書事件」
〈昭和37年〉
アジア三カ国の旅での皇太子の異変
地方の勤労青年男女との懇談
美智子妃のプライバシー問題
アジアでの戦争に向き合うフィリピンの旅
第8章 美智子妃のかなしみ
〈昭和38年〉
精神的な疲労と流産
沖縄・豆記者との出会い
人生最大の危機、長い療養の日々
奥日光で二人だけで過ごす
〈昭和39年〉
「東洋の魔女」の金メダルに涙した人間的姿
〈昭和40年〉
前代未聞、週刊誌での〝反論〟
神谷美恵子との心の交流
「兄は自由に、弟は窮屈に」
〈昭和41年〉
小泉信三死去、「耳に浮かびぬありし日の声」
私生活のクローズアップ、「遊んでる」との誤解
〈昭和42年〉
南米の旅、熱狂的歓迎
「日本人」として夫妻を迎えたブラジル日系人
〈昭和43年〉
浜名湖の水辺に蛍追ひし思ほゆ
〈昭和44年〉
さし始めた光、「花びらのごと吾子は眠りて」
庶民と密着、「皇族の概念を変えるもの」
公害問題に対する〝警告的影響〟
第9章 沖縄への思い
〈昭和45年〉
大阪万博会場を巡る
「三島由紀夫さんの話は聞かない」
〈昭和46
年〉
批判された手つなぎスケート
さらにひたぬれて君ら逝き給ひしか
戦争責任の認識ギャップ
〈昭和47年〉
沖縄本土復帰、「傷つきしものあまりに多く」
天皇は本来政治から中立、明治は例外
〈昭和48年〉
天皇と皇太子の〝政治的発言〟で波紋
左右からの「威厳がない」批判
〈昭和49年〉
「天皇は庶民大衆に近づいて、その中にとけ込んでもらいたい」
もう一度かみしめたい「平和国家、文化国家」
〈昭和50年〉
支援物資とともにバングラデシュへ
「皇太子訪問は沖縄県民に対する踏み絵である」
火炎瓶事件、「一時の行為や言葉であがなえるものではなく」
だんじょかれよしの歌声の響
〈昭和51年〉
「あなたは皇太子の何を知っているか」
沖縄の傷みを自らの傷みに
皇太子=パ・リーグ論
第10章 大いなる助走
〈昭和52年〉
膝をつくスタイルの定着
良子皇后の腰椎骨折、認知症の進行
英詩朗読会で読んだ南吉の詩
〈昭和53年〉
五島美代子が伝えた詩魂
「天皇は古い時代から象徴的存在」
「当方、弱冠18歳、学生の身分」
〈昭和54年〉
「皇室は祈りでありたい」
東欧・社会主義国で成し遂げた友好親善
〈昭和55年〉
浩宮成年「音さやに懸緒截られし」
ロンドン・リンネ協会の外国会員に
〈昭和56年〉
外交カードとして酷使される危うさ
記憶しなければならない四つの日
「あらゆる人々の人格が尊重される社会を」
〈昭和57年〉
ヒゲの殿下の〝反乱〟と皇族の存在意義
健康を取り戻した美智子妃
〈昭和58年〉
黒木東宮侍従長の急死
アフリカの旅と浩宮の英国留学
結婚して初めて味わった「心の安らぎ」
〈昭和59年〉
「努力賞」と「感謝状」
魚類学者・明仁皇太子の活躍
第11章 去りゆく昭和
〈昭和60年〉
政治・経済効果を期待される「皇室外交」
「開かれた」北欧王室をめぐる旅
帰国した浩宮の警備批判
〈昭和61年〉
消えた皇太子夫妻の訪韓
礼宮のプロポーズ
満州開拓団への思い
三原山噴火、被災者の前で膝をつき
〈昭和62年〉
天皇の手術で皇太子が国事行為臨時代行
天皇の名代としての沖縄国体出席
「浩宮妃」候補に浮上した小和田雅子
〈昭和63年〉
「浩宮の結婚が一番心配」
四照花の花咲き満ちしとき母逝き給ふ
天皇吐血、深夜に駆けつけた皇太子夫妻
冷徹に進められたXデー準備
長崎市長の「戦争責任」発言
〈昭和64年〉
ターミナル・ステージ(最終段階)