<連載 被災原発の陰 女川2号機再稼働>後編
ゴーッという山鳴りの後、下から突き上げるすさまじい揺れや長く激しい横揺れが次々襲ってきた。2011年3月11日午後2時46分。福島県浪江町から東北電力女川原発(宮城県)に計器メンテナンスに来ていた今野寿美雄さん(60)は、あの瞬間を思い起こした。震度6弱の地震が起きたとき、ちょうど事務棟で帰る支度をしていた。
◆「地獄絵図のようだった」
「外に出ろー」。叫んで入り口の扉を開け、みんな一斉に建物から飛び出した。車のラジオからは「津波が来ます」と緊迫した声。海を見ると、黒い津波が女川湾の島々をのみ込んでいった。原子炉建屋の方向では、巨大な重油タンクがひっくり返っていた。
防護服を着たままの作業員を乗せたバスが、段差や亀裂だらけの敷地内の坂道を上がってきた。辺りが真っ白になるほど雪が短時間で激しく降った後、風景は一変した。漏れ出た重油でギラギラした海面には魚や住宅の破片が浮き、浜には残された建物の屋根の上に車があった。「地獄絵図のようだった」
その夜、今野さんは元請け会社の社員から、2号機の冷却ポンプの一部が使えなくなったと聞き「手伝おうか」と言ったが、「若いのにやらせるから待機してくれ」と返ってきた。
女川原発の空撮写真(2011年撮影)
◆作業員や社員らがかろうじて大事故を防いだ
実際、女川原発は危機的な状況だった。原子炉建屋がある敷地高さは14.8メートルだったが、地震で牡鹿半島そのものが1メートル地盤沈下。そこに最大13メートルの津波が押し寄せ、敷地まであとわずか80センチまで迫った。
女川原発の事故対策 東北電力は施設の耐震設計の目安とする基準地震動を震災前の580ガルから1000ガルに厳格化し、想定する津波の高さは震災前の最高水位13.6メートルから23.1メートルに設定。2013年に始まった工事で高さ29メートル、総延長約800メートルの防潮堤を新設した。事故時に原子炉格納容器の圧力を下げて破損を防ぐ「フィルター付きベント」を設置し、建屋の水素爆発を防ぐため、水素濃度の上昇を抑制する装置も取り付けた。工費は約5700億円で今年5月に完了。
作業員や社員らの懸命の働きで、かろうじて大事故を防いだ。2号機は地震の40分前に再稼働したばかりで冷温停止は早かったが、1、3号機は12日未明までかかった。東北電の聞き取りに、運転員は「原子炉は常に冷やし続けなければならないため、緊張した時間が続いた」と答えた。
◆「福島のような事故が起きたら、逃げられない」
津波で自宅は流され、道路は寸断。他に行ける場所がなかった。当時は364人が避難していた。ただ、原発が危機に陥っていることについては説明がなかった。原発が避難者を受け入れたと称賛もされるが、阿部さんは「原発の状況を知っていたら、避難しなかったかもしれない…。福島のような事故が起きたら、逃げられない」と話す。
「被災したダメージがどれほどあるのか。まだ事故原因が解明しきれていない福島第1原発と同型の原発を動かしていいのか。何よりも事故が起きても避難が難しいのに、再稼働するのはあまりにもリスクの高いギャンブルだ」(片山夏子)
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