秀子さんは巖さんの髭を剃りながら、「巖にきく薬は自由しかない。自由にさせとけば自然と良くなる。だから精神科医にもかからない」と語った(写真/(c)Rain field Production)
「この社会のどこかで隔離された独房の中にあり、誰にも会うことができず、孤独にひっそりと息をしている人がいる。そのことを知ったのが、すべての始まりでした」
こう語るのは、全国で順次公開されているドキュメンタリー映画『拳と祈り ─袴田巖の生涯─』の監督・笠井千晶さんだ。
映画の主人公・袴田巖(88)さんは、1966年に起きた静岡県一家4人強盗殺害放火事件で死刑判決を受けたが、去る10月9日、実に58年を経て無罪が確定した。
笠井監督が巖さんの存在を知ったのは、静岡放送で報道記者をしていた2002年のこと。
「当時、巖さんは確定死刑囚として東京拘置所に収監され、再審請求の訴えもことごとく棄却されていた。事件自体が世間から忘れられつつあった。確定死刑囚は、死刑執行のためだけに生かされている存在だと感じました」(笠井監督、以下同)
毎日死と向き合う極限状態で生きる巖さんのことを知るべく、笠井監督は巖さんの獄中からの手紙を読むため姉の秀子さんを何度も訪ねる。次第に秀子さんと親しくなり、テレビ番組制作後も個人で取材撮影を続けた。
「秀子さんの背筋をピンと伸ばして生きる姿勢に心を打たれたんです。女性は生活のために結婚するのが当たり前の時代に、手に職をつけて人生を切り拓かれた。世間がどう思おうと弟の無罪を信じ続け、自分にできることを淡々とやる。秀子さんの存在があって、22年間取材を続けられました」
映画は、2014年に突如、巖さんが釈放されて以降の姉弟の暮らしを丹念に追う。獄中生活の影響から妄想などが現われる拘禁反応を発症した巖さんだが、秀子さんの支えを受けて時間をかけながら、一人で散歩にでかけ、欲しい物を自分で買う自由を楽しむまでに変化する。
笠井監督は、事件が起こる前の巖さんの人生にも焦点を当てる。プロボクサーとして青春を駆け抜けた巖さんは、30歳で突然、逮捕された。
「巖さんについての報道はいつも1966年の事件が出発点ですが、その前に、殺人犯や死刑囚という肩書きのない普通の子ども時代や青春時代があった。そのキラキラした時代こそが本人にとって大事な時間で、巖さんという人を理解するためにも重要だと考えました。死刑囚ではない巖さんの人生を伝えたかった」
刑事司法に翻弄された釈放後の巖さんと秀子さんの10年間の生活と、青春時代を追った映画に、笠井監督は『拳と祈り』というタイトルをつけた。
「拳は、青春時代に打ち込んだボクシング。祈りは、いまの巖さんを表現するならどんな言葉がいいのかと考えた末に浮かんだ言葉です。普段の巖さんは寡黙で、自宅では椅子に腰かけて過ごす時間が長い。その静かに佇んでいる時に、心の中では神の世界を反芻し、闘われている。その姿は祈りだと感じました。拳という肉体の闘いから、獄中を経て、心の内の闘いに移行されていった。巖さんは若い頃からずっと“闘う人”なのだと思います」
映画には、9月26日の無罪判決後の姉弟の様子までが収められているが、監督曰く「撮影にゴールはない」。今後も2人の普段の生活を記録し続ける。
【プロフィール】
笠井千晶(かさい・ちあき)/1974年生まれ、山梨県出身。ドキュメンタリー監督・ジャーナリスト。静岡放送、中京テレビで報道記者としてドキュメンタリー番組等に携わり、2015年に独立。 2017年、映画『Life 生きてゆく』で第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞。2019 年、小学館ノンフィクション大賞受賞作『家族写真 3.11原発事故と忘れられた津波』刊行。映画『拳と祈り─袴田巖の生涯─』は、東京・ユーロスペースをはじめ、全国50館以上で順次公開。
写真/(c)Rain field Production 文/城川佳子
※週刊ポスト2024年11月8・15日号
解説
死刑囚として47年間の獄中生活を送った袴田巖さんの闘いの軌跡を追ったドキュメンタリー。
1966年6月に静岡県で起きた味噌会社専務一家殺人放火事件の犯人として死刑判決を受け、47年7カ月もの獄中生活を送ってきた袴田巖さんが、2014年3月に突然釈放された。プロボクサーとして青春を駆け抜けた袴田さんは30歳の時に逮捕され、無実の訴えは裁判所からも世間からも黙殺された。明日にも死刑が執行されるかもしれないという恐怖の日々を耐え続け、釈放時には78歳になっていた。
死刑囚が再審開始決定と同時に釈放されるという前代未聞の事態が劇的に報道されるなか、22年間にわたって袴田さんを追い続ける笠井千晶監督が、その舞台裏を記録。カメラは半世紀近く引き裂かれていた袴田さんと姉・秀子さんの2人の生活をとらえ、対話を重ね、袴田さんの心の内面深くに迫る。
2024年製作/159分/G/日本
配給:太秦
劇場公開日:2024年10月19日