「袴田さんが10歳若ければ控訴したはず」…死刑執行を防ぐ契機を作った世田谷区長が指摘する「検察のメンツ」(2024年10月26日『デイリー新潮』)

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10月14日、検察の控訴断念に際し感謝の言葉を述べる袴田ひで子さん【撮影:粟野仁雄】
 10月8日、東京高検が控訴を断念したことで、袴田巖さん(88)は逮捕から58年ぶりに無罪が確定し、43年ぶりに死刑囚という法的身分から解き放たれた。1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で起こった味噌製造会社の専務一家殺害事件をめぐり、巖さんと姉のひでこさん(91)の戦いを追う連載「袴田事件と世界一の姉」。その47回目は再審裁判を傍聴してきた地元の若い女性と国会議員として袴田さんの命を救った人物を紹介する。【ジャーナリスト/粟野仁雄】
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事件を追い続けた24歳
「えー、わたくしが袴田巖でございます。待ちきれない言葉でありました。無罪勝利が完全に実りました。ついに完全に全部勝ったということで、今日はめでたく皆さまの前に出てきたということであります。こがね味噌事件で無罪勝利ということで、検察も認めたということで……」
 無罪判決の3日後の9月29日、巖さんが静岡市で開かれた報告集会に現れた。その姿を見守った中川真緒さん(24)は「あんなにはっきりと発言されるとは予想もしませんでした。嬉しかった。涙が止まりませんでした」と語った。
 清水市で生まれた中川さんが事件を知ったのは中学生のときだった。2014年3月に静岡地裁で再審開始と釈放が決まった際のニュースで、当時は「自分の故郷でそんなことがあったんだ」という程度だったという。
 強い関心を抱いたのは、昨年3月に東京高裁で再審が決まってから。うつ病に悩まされてきた中川さんだが、静岡地裁に通い続けて8回も傍聴券を獲得し、ブログ「清水っ娘、袴田事件を追う」を綴り続けた。巖さんとはひで子さんと住む浜松市のマンションで会っていた。
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「(当時の自分が)23歳だったので、自分のことを23歳とおっしゃる巖さんに親しみを感じました。今回は車椅子だったのがちょっとショックでした。1月にお会いした時よりも小さくなったかな」
いまだに袴田巖さんが犯人と信じる人たち
 中川さんは事件が起きた清水区の横砂地区など巖さんの足跡を辿った。そこで出会った人たちには無罪を信じない人も多く、大半は口をつぐんだ。ボクサーを引退した巖さんが経営していたバー「暖流」近くの飲食店を訪ねた時のこと。
「マスターも巖さんが犯人と思っていた上、奥さんには『もう。十分に償ったんだからいいでしょう』と言われました」
 再審判決後、「模擬裁判」のイベントに参加した中川さんは、再審で無罪判決を下した国井恒志裁判長(58)に礼を言った。検察が控訴を断念した10月8日の朝も支援者らとオンライン署名を求めるチラシを配り、マイクを握って署名を訴えた。
 10月14日、静岡労政会館 で完全無罪報告集会が開かれた。映画「ロッキー」のテーマソングが流れる中、名リングアナウンサーだった須藤尚紀さん(62)が「WBC名誉チャンピオン、袴田巖―っ」とアナウンスし、巖さんとひで子さんが弁護団と握手しながら壇上に上ると、こう挨拶をした。
「長い戦いがございました。やっと無罪、完全無罪が実りました」(巖さん)
「無罪になって勝ったんだよって言ってるんですけど、まだ(弟は)半信半疑でいるようなところがあるんです。みなさんにお祝いしていただいているうちに実感として沸くと思います」(ひで子さん)
 巖さんはチャンピオンベルトを身に着けた。壇上で2人に花輪を贈呈した中川さんは「再審裁判で巖さんに死刑求刑した検察官の顔は絶対に忘れません。この冤罪事件を後世にずっと伝え続けます」と力を込めた。
 畝本直美検事総長(62)は判決について「到底承服できない。控訴すべき内容」としながらも、「袴田さんが長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれ、控訴は相当ではない」との談話を出していた。弁護団は「犯人扱いしている内容で名誉棄損」と撤回を申し入れた。
もう1人の命の恩人
 巖さんの死刑執行を防いだ人物といえば、2014年に巖さんを釈放した静岡地裁の村山浩昭裁判長(現・弁護士=67)だが、命の恩人はもう1人いる。死刑執行を防ぐ契機を作った保坂展人・世田谷区長(68)だ。国政に携わっていた頃から法務省の矯正局に繰り返し巖さんの様子を聞くなど必死に支援した。
「検察組織は無限に継続できるが、袴田さんは違う。検察はもともと(立件は)無理筋だった事件を再審に持ってきた。再審請求しても死刑を執行する現在、生きて袴田さんがこの瞬間を迎えたことは非常に大きい」
 21年前、当時の巖さんは「俺には姉なんかいない」と3年近くひで子さんとの面会を拒絶していた。そこで保阪区長は、東京拘置所を担当する矯正局と示し合わせて「今日は畳の交換の日だから」と巖さんを別室に連れ出し、ひで子さんと面会させた。その時の支離滅裂な会話を知った森山真弓法務大臣(当時=1927~2021)が委員会で「(巖さんは)精神に異常をきたしている」と発言したのだ。
刑事訴訟法の条文からも、これで死刑執行はないと確信しました」(保坂区長)
 この面会が実現した当時、ひで子さんは70歳だった。
「当時よりさらに逞しくなった印象。肝が座った戦いを続けてこられた信念の強さが無罪を確定させた。その中心軸だったのがひで子さんですね」(保坂区長)
 また、再審が始まるかもしれないという朗報を伝えようにも、当時の巖さんは弁護士とも会わなかった。そんなエピソードを振り返る保坂区長は、感慨深げに言う。
「袴田巖さんには『二重の縛り』があった。物理的に拘置所の牢獄で、長期間、収容されているだけでなく、心の中も別人にならざるを得ないという縛り。今回、報告集会で本人が出てこられたのをニュースで見て『よかったなあ』と思いました。これまで期待しては覆りを繰り返してきたので、縛られていた心のロープは簡単には切れなかった。今、完全に切れたわけではないけど、袴田さんが全能の神から(人間に)戻ったという瞬間を感じました」
「10歳若けりゃ控訴した」
 検事総長談話については「まさに検察のメンツ」と断じる。
「まさに検察のメンツ。裁判所が捏造としたことが気に入らない。検察は5点の衣類だけで有罪になっているわけではないとして他の要因も入り込ませた。『疑わしくは被告人を罰せず』の推定無罪の原則を全く逆にして『無罪を立証できなきゃ有罪』のロジックにしてしまった。袴田さんが10歳若ければ控訴したはずで、そこに根本的な反省はない。ただ、控訴すると検察批判が渦巻くことを恐れたのでは」(保坂区長)
 控訴断念については「政治的配慮」もあるとみている。
「その配慮も自己防衛のため。『控訴したかったけどしないよ』という姿勢。静岡県警と検察はすり合わせたかのように巖さんを長く法的に不安定な地位に置いたことを反省してみせた。不安定どころか、いつ死刑執行されるかの状況に対する反省や検証はまったくない」(保坂区長)
 保阪区長は当時、衆議院議員国政調査権により袴田さんと会った。「当時は袴田さんの異常も『仮病ではないの』なんて言われていた。国会で選出される人は人権の問題にしっかり取り組んでほしい」と政治家らしく締めくくった。
 NHKは10月12日朝、検察が事件の遺族に控訴断念を謝罪したというニュースを報じた。遺族が巖さんを犯人だと思い、検察が「袴田巖が犯人」と思わせているようにも取れる。だが、再審の終盤、検察が代読した遺族の思いに、巖さんが犯人といった記述はなかった。訴えていたのは、事件で唯一生き残った長女が事件と関係していかのように報じられ、苦しんでいたことだけだった。検察の「印象操作」をNHKがそのまま報じただけだった。
 
粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に『袴田巖と世界一の姉』(花伝社)、『サハリンに残されて』(三一書房)、『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件』(ワック)、『検察に、殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)、『アスベスト禍』(集英社新書)など。
 
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袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い 単行本(ソフトカバー) – 2024/8/26
粟野 仁雄 (著)
いよいよ審判が下る、戦後最大の冤罪事件
見込み捜査と捏造証拠により死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきた袴田事件
数奇な運命をたどってきた88歳の死刑囚と91歳の姉、そして「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願が、いま実現する——
無実の人・袴田巖を支え続けた姉・ひで子と、弁護団・支援者たちの闘いを追った、渾身のルポ
●目次●
序 章 袴田巖が帰ってきた
第1章 事件発生から逮捕へ
第2章 証拠をめぐる疑惑の数々
第3章 袴田事件と交錯する人生
第4章 雪冤への長い道のり
第5章 〝開かずの扉〟の先にあるもの
終 章 「常識」を取り戻す闘い
本書によせて 袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会事務局長 山崎俊樹
解説 ルポライター 鎌田 慧