福島原発事故、「現代の田中正造」は何を訴える。1審だけで9年「井戸川裁判」傍聴記(後編 )(2024年10月25日『東洋経済オンライン』)

 

 

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井戸川克隆・元双葉町長。変わり果てた故郷にて、先祖の墓の前で手を合わせる(撮影:筆者)
 福島県双葉町の元町長の井戸川克隆は福島第一原子力発電所事故の直後、放射能から守るため、200キロメートルも離れた埼玉県に町民を導いた。だが、国が推し進めた「福島復興」に抗ったため辞職に追い込まれた。
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東京地方裁判所の正門前で支援者に語りかける井戸川克隆・元双葉町
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尋問を終え、疲労の色濃い井戸川。それでも気丈に話した(撮影:筆者)
 さらに漫画『美味しんぼ』誌上で「鼻血の原因は被曝」と話したため、猛烈なバッシングに遭い、メディアからその名前は消えた。それから10年、78歳になった井戸川は変わらずに闘い続けている。
 事故を起こさないはずの「原発安全神話」の嘘、根拠なき被曝基準「年間20ミリシーベルト」を押し付ける国家の無法、被災者にさらなる汚染を強いる「福島復興」の欺瞞……。
 「双葉町長だった自分にしか言えないことがたくさんある」と、井戸川が一人で国と東京電力ホールディングスを相手取り、損害賠償訴訟を東京地裁に起こしてから9年。いまだ一審判決に至らないほどの壮絶な闘いを繰り広げている。
 しかしその結果、周囲から人は離れ、2度にわたり弁護団とも離別した。さらに原発事故の被害者訴訟で国の責任を認めない最高裁判決も出て、ますます四面楚歌の様相を呈している。
そんな「井戸川裁判」は9月18日、ヤマ場と言える原告・証人尋問を迎えた。午前中は孤軍奮闘を支える幼なじみの元副町長が出廷し、汚染で帰れない故郷への強い思いを訴えた。午後はいよいよ井戸川本人が証言台に立つ(「井戸川裁判」傍聴記の前編はこちら)。
■訴えを正面から受け止めない裁判官
 9月18日の午後1時半、東京地方裁判所で弁論が再開された。午前中の元副町長の井上一芳に続き、今度は井戸川の本人尋問だ。弁護士が付いていないため、主尋問は井戸川が作成した質問事項書に沿って裁判官が質問し、それに井戸川が答える形になる。裁判官がどこまで井戸川独自の主張を受け止めるかが尋問の焦点だった。
 井戸川独自の主張は以下の3点に集約できる。
 ① 東電、国、福島県福島第一原発津波対策の必要性を隠した。もし自分が知っていたら、安全協定に基づき東電に運転停止を求めていた。
 ② 政府は原子力災害対策特別措置法で定められた合同対策協議会を開かず、ベント(原発事故時の放射性物質の意図的な放出) など放射能に関する情報を共有しなかった。双葉町は避難が遅れて町民を被曝させた。
 ③ 政府は法令で定められた年間1ミリシーベルトの線量基準を守らず、法令に根拠のない年間20ミリシーベルトを基準に避難指示解除や賠償、除染などすべての対応策を進めた。
 日本の行政機構は国-都道府県-市町村のピラミッド構造が強固なため、自治体は国の指示に逆らえない、また逆らわないと多くの人が思い込んでいる。
 実際、ほとんどの首長は国に盾突くどころか、物申すことさえしない。一方で、地方自治の建前の下、国が地元自治体の意見を聞く仕組みも用意されている。国にとっては聞いたふりをするだけのアリバイにすぎないが、従わない首長が現れない限り、矛盾は表沙汰にならない。
 井戸川はどうだろう。国や県と一緒になって危険を見過ごしただろうか。町民の不利益を受け入れただろうか。そもそも国や福島県が大事な情報を伝えず、意思決定の場から除け者にしたのは、井戸川が「共犯者」にならないため、スムーズに事が運ばなくなることを恐れたからではないのか。
 私は原発事故にとどまらず、日本の国家機構の矛盾を突く尋問になることを期待した。結論から先に言えば、裁判官は矛盾に踏み込まず、空振りに終わった。だが皮肉なことに、空虚なやり取りによって、むしろ井戸川の苦闘ぶりが浮き彫りになった。
■上っ面をなでた尋問内容
 30歳前後とみられる左陪席の裁判官は「双葉町」を「ふたばちょう」(正しくは「ふたばまち」)と繰り返し、最後まで誤りに気付かなかった。肝心の質問も井戸川の行動履歴をなぞるだけの上っ面なものばかりで、関心の低さが見て取れた。
 ――福島第一(原子力)発電所について、東京電力または国からいつ情報が入りましたか。
 ――10キロ圏内からの避難指示の情報をあなたはいつ知ったのですか。
 ――避難先の生活はどのようなものですか。
 それでも井戸川は少しこじつけ気味に自説を入れ込んで答えるのだが、裁判官は受け流して表面的なやりとりに引き戻してしまう。例えばこんな調子だ。
 「事前の訓練のシナリオに従えば、(国は)第一報で(福島第一原発から半径)10キロメートルの(範囲を対象に)避難指示を出すべきだったのに、半日遅れで出した。とんでもないことをすると私は憤っていました」
 ――10キロ圏内からの避難指示はどのような形で聞いたんですか。
 「避難していると近所で言うと、『あんたら国の税金で賠償もらって、遊んでていいもんだ』と言われます。遊んでいるわけじゃないんです。働く場がないんです。みんな我慢して生活しています」
 ――あなたは今、双葉町(ふたばちょう)を訪れることはありますか。
 井戸川が最も力を込めた訴えも届かなかった。
 「放射能を被ったことのない、避難を経験していない、故郷を奪われたことのない人たちが、被災者を排除してあれこれ勝手に決めている。(国が一方的に定めた)中間指針、避難指示解除もそう。この事故の対応は嘘の塊だと思います。私は絶対に許すことができません」
 ――あなたの現在の生活状況を教えてください。今、どこで生活していますか。
 この事故の賠償は国の避難指示と連動しており、基本的に避難指示が解除されれば、それ以降は支払われない仕組みだ。この避難指示(および避難指示解除)の基準が年間20ミリシーベルトで、事故から約6年が経っても20ミリシーベルトを下回らない地域は「帰還困難区域」とされる。帰還困難なので、戻ることを前提とする「避難」として国や東電は扱っていない。
 被災者による賠償の請求には、①直接請求、②ADR(裁判外紛争解決手続き)、③損害賠償請求訴訟――の3つの経路がある。井戸川は国が定めた中間指針を完全否定して訴訟を起こしており、直接請求をしていない。
 井戸川が町長を辞めて12年近くが経った。日々の生活費以外に、埼玉県の加須駅前に「東電原発事故研究所」と称する事務所を構え、原発事故に関する書籍を片っ端から取り寄せている。それらの原資はどこから出ているのか。井戸川は明かさないものの、おおよその察しはついていた。井戸川の〝兵站線〟を東電の弁護士は容赦なく攻め立てた。
■井戸川を貶める東電代理人弁護士の尋問
 ――町長を退職した後、日々どのように過ごしていましたか。
 「裁判の準備をしていました」
 ――仕事はしていなかったのでしょうか。
 「やっていません」
 ――ふーん、そうですか。これは株式会社〇〇の東京電力への損害賠償の請求書です。給与受給者のところにあなたの名前があります。給与支払者はあなたの奥さんで、平成25(2013)年2月の(町長)退職の日以降、支払いが開始されている。〇〇の仕事はしていないのでしょうか。お答えください。
 「〇〇としての訴訟準備中です」
  ――〇〇の株式はあなたが100%お持ちですね。
 「はい」
 ――〇〇は裁判外で東京電力に損害賠償を請求して賠償金が支払われている事実はご存じですね。
 「(会社を継いだ)息子が言わないので全容は知りませんが、受けているのは知っています」
 東電の代理人弁護士はさらに攻め立てた。
 ――〇〇は震災後の双葉町の復興事業もしていますね。
 「しています」
 ――加須市内にある〇〇の持ちビルをあなたは事務所として借りていますね。
 「まあ、住まいも兼ねています 」
 ――〇〇はこのビルでどのような事業をしていたのかお答えください。
 「私の希望としては、双葉町から〇〇を引き上げたかった。息子の将来を考えたときに汚染のひどいところに置いておきたくなかった。だけど息子は双葉町の地元を守るという思いが固く、いさかいがあって困っています」
 〇〇は井戸川が30歳過ぎに東京から帰郷し、双葉で創業した水道設備会社だ。町や東電から工事を受注するまでに成長した地域の優良企業だった。井戸川の町長就任後は妻が社長となり、事故後は長男が福島県内を拠点に営業を続けている。
 あなたは(家族を通じて)事実上賠償を得ている。「踏み絵」に応じたではないか――東電の弁護士は暗にそう指摘していた。
■傍聴者に恐怖感を与えるのが目的か? 
 訴訟を起こさなくとも、直接請求という手段を用いれば、中間指針に定められた額の賠償金が支払われる。だが井戸川は個人としては直接請求をしていない。司法の場に訴え出るのには損害賠償訴訟という道以外になかったのだ。しかし生きてゆくには、生活資金が必要だ。東電の弁護士は巧みにそのジレンマを突いた。
 あくまでも会社と井戸川は別人格だ。そもそも人は霞を食っては生きていけない。果てしない闘いを家族に支えてもらうのをどうして非難できよう。
 裁判の結果、井戸川が手にする賠償金が中間指針で定められた額を下回ることはまずないし、万が一、この尋問によって賠償金が減額されたところで、それが東電の経営を助けるような成果にはならない。
 結局のところ、井戸川の人格を貶め、傍聴者に恐怖を与える以外にこの尋問の意義は見えない。そこに償いの意思など微塵も感じられない。
 国の代理人はほとんど質問しないまま、午前と午後で計3時間に及ぶ尋問が終了した。裁判長は2025年2月5日の次回口頭弁論で結審し、同年7月30日の判決を言い渡す方針を表明した。提訴からちょうど10年での一審判決となる。
 閉廷後しばらくして井戸川が東京地裁前の歩道に現れた。足取りはおぼつかず、目は充血して真っ赤だ。疲労もあるだろうが、公開の法廷で自身の家族や生活に土足で踏み込まれて動揺しない人間はいない。
 それでも井戸川は尋問を傍聴した30人ほどの支援者に向かって呼びかけた。
 「私に反論されるから、彼らはゴミみたいな話をずっと私にさせました。ガッカリしたら大間違いですよ。あれで裁判所が被告を勝たせるようなら、日本は法律のない国ですね。これに懲りず来年2月5日に向けてご支援いただければと思います」
田中正造と井戸川克隆、その共通性
 精一杯の強がりに聞こえた。井戸川は司法に絶望したに違いない。
 井戸川が裁判に求めたものは、字面だけの勝訴判決でもないし、残りの人生で使いきれないほどの巨額の賠償金でもない。井戸川が求めていたものは、国策の誤りを満天下に示し、偽りの復興をたたきのめす闘技場だった。だが井戸川の真摯な望みを収めるのに、法廷は小さすぎた。
 「原発事故が起きて国家が無法を働き、道理が届かない世界になった」
 井戸川はしばしばそう嘆く。
 その一途な姿は、日本最初の公害・足尾鉱毒事件で、国家の無法と闘った明治期の義人・田中正造と重なる。
 示談金と中間指針、遊水地と中間貯蔵施設、谷中村と双葉町……。名ばかりの償いで国民を欺き、被害者にさらなる犠牲を強いて、すべての幕引きを図る非情な国策は100年以上が経っても何も変わらない。そして純粋でありすぎるがゆえに、周囲から人が離れていった田中正造と井戸川克隆も酷似している。
 国家の働いた無法は、政府の公文書や裁判の判決文によって歴史に刻まれるものではない。たとえ独りになっても現場から離れず、矢尽き刀折れても闘い抜いた義人の生きざまを通してのみ語り継がれる。
 渾身の訴えも聞き届けられず、生きる術を貶められたこの日の尋問は、井戸川克隆という原発事故を象徴する義人が受けた苦難の1ページとして歴史に刻まれる。=敬称略=
 
日野 行介 :ジャーナリスト・作家