日本軍のフィリピン・マバラカット西飛行場跡の特攻隊員慰霊碑
亡くなった御霊(みたま)に心から頭(こうべ)を垂れたい。
第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。特攻隊員を偲(しの)び、日本の独立と平和を維持する大切さを嚙(か)みしめたい。
先の大戦で日本軍は約230万人が亡くなった。太平洋の島々での玉砕など多くの壮絶な戦いがあった。その中で、生還を期さない特攻隊は信じがたいほどの勇気を示した存在として知られる。昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男(せきゆきお)大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。
特攻は戦後、「軍国主義の象徴」などと批判された。選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。現代日本は特攻のような究極の戦術をとらずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。
特攻を「カミカゼ」と呼んだ米軍は、異常な戦術とみなす一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。特攻は、世界が日本人を強い存在とみなす一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵一人一人にさまざまな思いがあったことを想像するとき、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない。
『徳川家康』をはじめ数々の名著を残した作家の山岡荘八は、先の大戦末期に、海軍報道班員として鹿児島・鹿屋の基地に赴いた。そこから沖縄へと、死を決して飛び立つ多くの特攻隊員を見送ったことは、6月に小欄で触れた。
▼その後、山岡の甥(おい)に当たる山内健生さんが自著『私の中の山岡荘八』(展転社)を送ってくださった。時代小説の印象が強い山岡だが、それは一面に過ぎない。「ことに戦中期の体験が戦後の日々を貫いていたことを知って欲しいと願って…」。同封の手紙にそう書かれていた。
▼山岡は戦後、生と死が交わる現場をこう回想した。隊員に宿るのは<澄み切った境地>であり<すすんで民族の危機の先頭に立とうとする愛と犠牲と勇気>だと。<欲望や執着から解放された人々が、いちばん美しい心を抱いて集っていた>とも。
▼隊員への慈愛に満ちた筆が、戦争の美化を意図したものでないことは一読すれば分かる。結婚して間もない隊員が、酒の味さえ知らぬ若者が、敵艦に体当たりする。採ってはならぬ「最も非人道的な戦術」であることは、山岡も認めているからだ。
▼厳しい戦況の中、祖国を危難から守るために犠牲をいとわぬ先人がいた。作家が後世に託したのは、その事実を語り継ぐ使命にほかならない。今年は特攻隊が組織されてから80年になる。最初の出撃は昭和19年の10月だった。終戦までに約6千人の特攻隊員が戦死したとされる。
▼鹿屋で若者を送り出した上官も戦後、務めを果たすように自ら命を絶ったという。「私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界…それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない」。そう書いた山岡は終生、隊員の顕彰に関わり続けた。