大正12年(1923)6月、人気作家の有島武郎が、軽井沢の別荘でひとりの女性と心中した。
約1ヶ月後、2人の遺体が発見されると、新聞各紙はこぞってこの衝撃的な事件を報じた。
後に、有島と共に命を絶った女性が、中央公論社の雑誌『婦人公論』の記者であり、夫のいる波多野秋子であることが判明した。
秋子の美貌は当時『婦人公論』に執筆していた作家たちの間でも評判で、普段は原稿執筆を渋る気難しい作家たちも、彼女からの依頼であれば原稿を引き受けたほどであった。
この波多野秋子とは、どのような女性だったのか、彼女の人生とその背景を探る。
実業家の娘として生まれ、20歳の時に略奪婚で学生妻に
明治27年(1894年)10月、秋子は実業家・林謙吉郎と新橋の芸者タマとの間に東京で生まれた。
2人は結婚していなかったが、秋子は父親に大切に育てられ、生活に困ることはなかったという。
秋子は実践女学校高等部に進学し、卒業後は女子学院英文科に入学した。その後、青山学院英文科に転学しながら英語の勉強を続けた。
この頃、彼女は13歳年上でアメリカ帰りの英語塾経営者、波多野春房と出会う。
春房は既婚者だったが、秋子は彼に夢中になり、波多野もまた彼女の美しさに惹かれていった。
大正3年(1914年)、秋子は父親の反対を押し切って波多野と結婚したが、実はその前から2人は同棲しており、いわば略奪婚であった。
結婚後、秋子は青山学院に通いながら学生妻としての生活を送り、大正7年(1918年)に卒業。卒業後は中央公論社に入社し、雑誌『婦人公論』の編集記者として働き始めた。
夫である波多野は、当時としては珍しく、妻である秋子に多くの自由を与え、自分の道を追求することを許した。また、波多野は秋子に貞淑な妻であることを望まなかったという。
一見すると寛大な夫に見えるが、波多野には女性関係の噂が絶えず、道徳的な観点からは疑わしい部分もあったとされる。
「美貌の記者」として作家の間でも評判となる
秋子は『婦人公論』の美人記者として、文壇界で有名だったという。
雑誌『中央公論』の編集記者であった木佐木勝は、秋子の記者としての姿勢について「思い上がった態度」や「美貌を意識した高慢さ」といった印象を語っている。
しかし、秋子の美貌と強い性格は、仕事の面で大きな効果を発揮していた。
特に有名なのは、小説家の永井荷風とのエピソードである。
永井は当時、「新聞や雑誌のために原稿を書かない」と公言し、原稿依頼に訪れる記者たちをことごとく追い返していた。
しかし秋子が訪ねると、永井は「これはあなた個人に差し上げます。それをあなたがどう使うかは自由です」と言い、彼女に原稿を渡したのである。
芥川龍之介との関係も同様で、他の記者が2ヶ月かけても手に入れることができなかった原稿を、秋子が直接訪ねて頼むと、芥川は「3日後に渡す」と約束し、その約束通り小品を仕上げたという。
たとえ、それが秋子の美貌と魅力によって得たものであったとしても、彼女は確実に腕利きの記者として評価されていた。
大正11年(1922年)の夏、秋子はさらに最も困難とされていた作家・有島武郎からの原稿も取ってきた。
有島は6年前に妻を亡くして以来、本格的な作家活動に入り、『或る女』などの名作を発表して多くの女性ファンから支持を受けていた。
秋子は頻繁に有島邸を訪れるようになり、彼の作品の校正や原稿の筆記を手伝い、次第に親しい関係になっていった。
有島は友人たちに、「美貌の女性記者が、僕を誘惑に来るんだ」と冗談交じりに語っていたという。
人気作家との真剣な恋愛の末、軽井沢で心中する
やがて、波多野秋子と有島武郎は互いに深い愛情を抱くようになり、肉体的にも関係を結んだ。
しかし、2人の関係が夫の波多野春房に露見すると、秋子は事実を白状させられ、波多野は有島に対して賠償金として1万円(現在の価値で約1千万円)を要求した。
波多野は「喜んで秋子を譲るが、その代わりに代金を支払え」と有島に迫ったが、有島は「命がけで愛する女性を金銭に換えることはできない」と断り、姦通罪で投獄される覚悟もあることを示した。
それに対して波多野は、「有島の兄弟たちからでも構わないから、何としてでも金を取る」と一歩も引かない姿勢を見せた。
大正12年(1923年)6月8日、有島の親友である足助素一は、波多野に渡すための1万円を準備し、有島を訪ねた。
しかし、有島は足助の提案を断り、「愛が飽満された時に死ぬという境地、死を享楽するという境地をわかってくれ」と伝えたという。
その夜、足助はもう一度説得しようと、有島の旧友と共に再び家を訪ねたが、有島に会うことはできなかった。
翌日の6月9日、有島武郎と秋子は、軽井沢にある有島家の別荘・浄月庵で首を吊り、心中を遂げた。
この時、有島は満45歳、秋子は満29歳であった。
心中事件のその後
約1か月後の7月6日、2人の遺体は軽井沢の別荘で発見された。
梅雨時だったために遺体は腐乱が進み、顔の判別ができないほどであったが、残された遺書により、有島武郎と波多野秋子であることが確認された。
この事件は、当時の社会に大きな衝撃を与え、「有名作家と、夫のいる美貌の記者との心中」というスキャンダラスな内容に、世間は異常なほど反応した。
新聞各紙を始めとしたメディアは競うようにこの事件を報道し、多くの著名人が感想を述べた。
しかし、世間の反応は特に秋子に対して非常に冷ややかであった。
多くの人々は彼女を「悪魔的存在」や「純潔なる生活の破壊者」などと呼んで非難したのである。
劇作家の水谷竹紫は「彼女にあの目でじっと見つめられたら、有島氏でなくても誰もが死ぬ気になるだろう」と語った。
小説家の広津和郎は、有島が「恋人を金銭に換えることはできない」と金銭要求を断って心中を選んだことを「いかにも武郎的であった」と論じている。
秋子は、友人に宛てた遺書の中で、夫の波多野との結婚生活を「子供のような、妹のような心持ちで続けていた」と記しており、真剣に恋をした相手は有島武郎であったことを明かしている。
心中事件が報道された後、有島の熱狂的な女性ファンが自殺するという悲劇的な事件も起こった。
また、有島作品が教科書に掲載されていた女学校では、「不道徳な死を遂げた作家の作品を、そのまま教科書に載せておくべきかどうか」という議論が、教育関係者の間で巻き起こったという。
有島の親友である足助素一は、有島を訪ねた際に「子供を孤児にするつもりか」と涙を流しながら訴えたが、有島は最終的に秋子と共に心中する道を選び、秋子もまたそれを望んだのである。
有島が心中を選んだ背景には、作家としての美学もあっただろう。
しかし、それだけではなく、秋子の美貌には、人を死の世界へいざなうほどの魔力があったのかもしれない。
参考文献
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社 2015
にんげん史研究会「こんな女性たちがいた!」講談社 2000
文 / 草の実堂編集部