太平洋戦争の後、東南アジアなどの戦地に残された旧日本軍兵士らが数年間抑留された。民間人を含め約80万人が重労働を強いられたが、人々の記憶から失われつつある。歴史に埋もれた「南方抑留者」に注目した研究者のシンポジウムが9月末に東京都内であった。南方抑留の実態と、その歴史を振り返る意義とは。(中川紘希)
◆抑留者数はシベリアより多い
「シベリア抑留が注目されるが、南方でも同じように強制労働があった」。日本政治外交史が専門の増田弘・平和祈念展示資料館館長(立正大名誉教授)が講演で指摘した。抑留者数だけを比べれば、シベリア抑留の約60万人より多い。
増田館長は、東南アジアほぼ全域を占領管理した英国の政策について解説。英国は「現地を破壊した者に再建の義務がある」という考えで、抑留者は劣悪な衛生環境の中で荷役や道路建設などを強いられ、死者や病患者が相次いだという。
一方で現地では食料不足は深刻化し、インドネシアなどで日本人と連帯して独立を目指す機運が高まっていた。日本人の帰国を進めることが得策とみて、1946年4月、軍人ら全70万人を同年10月までに帰還させる方針を示した。小型船で東南アジアの中間地点まで移送し、大型船を持つ米国が同年9月までに約60万人を帰還させた。
◆終戦後も10万人に強制労働させ続けたのはイギリス
ただ英国は、現地から「軍事関係施設の建設に日本人の技術を活用したい」との意見が出たなどの理由から、残る10万人に労働を課し続けた。米国は「日本軍は武装解除後に各自の家庭に復帰する」と記したポツダム宣言に違反していると非難。国際社会でも批判が高まり、英国は1947年3月に抑留者の送還を再開し、1948年1月に完了させた。
南方抑留の実態を伝える記録はこれまで、抑留経験者の日記や回顧録など個人史の形にとどまっていた。増田館長は、米国や英国など戦勝国を訪れ政府文書を調査し分析。日本の文書と比較し全体像の解明を進めているといい「この報告は、世界史に南方抑留の歴史を残すための一歩になったのでは」と話した。
◆抑留延長で「敗戦時と同じ大きさのショック」
二松学舎大の林英一准教授(日本近現代史)は、インドネシアの抑留者について講演。英国が1945年9月に同国に進駐したが、他国からの独立を目指す現地の人々は非協力的だった。労働力が不足し、日本人が使われたと解説した。
連合国側が同国のジャワ島の抑留の期間を延長すると、港湾作業に従事したある抑留者は日記に「敗戦時と同じ大きさのショックを受けた」と記した。林准教授は「抑留の終わりが見えずに絶望し、大量の逃亡兵が発生した」と述べた。
パネルディスカッションで、他の研究者から「インドネシア独立戦争に日本人残留兵が活躍し感謝されているのでは」と聞かれると「簡単なストーリーでは説明できない。インドネシア政府が貢献を認めていればすぐに国籍などを与えたはずだが、そうしなかった。英雄墓地に埋葬されていない人が多い」と応じた。
東南アジアの近現代史を研究する東京大の岡田泰平教授は、フィリピンでの日本の統治や敗戦について紹介した。
戦後79年の今、南方抑留の歴史を問い直す意義とは何か。
増田館長は取材に「抑留の歴史は、抑留者と被抑留者にとっても負の歴史で語りたがらず公にならなかった。研究を続け戦後史の空白を埋めていければ」と話した。