歴史に「もし」はないというが…(2024年9月16日『毎日新聞』-「余録」)

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オゾン層保護に尽力した松本泰子さん=東京都千代田区で2007年9月10日午前11時、平田明浩撮影
 歴史に「もし」はないというが、偉業を振り返る時には話題となる。現在、オゾンを壊すフロン類を使用しない冷蔵庫が店舗に並ぶ。「この人がいなければ、この光景を目にできただろうか」と衆目の一致する人物が松本泰子さんだ
▲1985年、南極上空のオゾンが極端に減少するオゾンホールが報告された。太陽からの有害な紫外線がたくさん地上に降り注ぎ、がん患者が増えるのではないか。人々に衝撃が走った
▲英語教師だった松本さんは翌年、英国に留学する。目にしたのは、高い調査能力で世論の支持を集める環境団体だった。帰国後、「グリーンピース」の一員となり、フロン類の使用禁止運動を始めた。「霜取りができない」などと企業の抵抗にあうが、データを一つ一つ示し、納得させた
▲各国で生産・消費規制が進み、オゾン層は回復の途上にある。2007年、松本さんはこの分野で傑出した功績を上げた人に与えられる米環境保護局の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」に選ばれた
▲京都大准教授に転身し環境政策を研究するさなか、パーキンソン病を発症した。10年に及ぶ闘病生活の末、71歳で亡くなった。先月しのぶ会が開催され、国内外の官僚や学者らが、その輝きをたたえた
▲意見が異なっても、最後は仲間に引き込む情熱と温厚な人柄。「環境破壊は人類の未来を危うくする。どんなに解決が難しくても諦めたら負け」と訴え続けた。きょうは、国連が定めた「オゾン層保護のための国際デー」。不屈の精神を引き継ぎたい。

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松本泰子(地球環境学堂・准教授)
現場を持ってきたものの視点から
先日の新聞で、オゾン層保護に対する松本泰子先生(地球環境学堂准教授)の傑出した貢献に対してアメリ環境保護局が「ベスト・オブ・ザ・ベスト」として表彰したと知りました。センターでは、先生のユニークな生き方や 研究者になられた経緯などをお聞きしたいと考え、インタビューをさせていただきました。以下はインタビューの概要です。
■大学卒業後、英語教師を12年間お勤めの後、イギリスに留学されましたが、一旦辞職し、留学されることについて帰国後の生活について不安はなかったですか。
「道具」としての英語のパワーに魅せられて、「私は英語を使って学生に何を教えたいのか」を探しに行きました。失敗しても後悔しないぞ!という気持ちが強く、次職のことは心配しませんでした。留学先はノーリッジ(ロンドンから3時間の町)で、いろいろなNGOが活発に活動している地域でした。30歳を過ぎての留学で、時間もお金もなかったし、ケンブリッジの英検に合格したかったので、自分の語学力をブラッシュアップしようと、毎夕、地域の市民団体の集会に参加していました。
■ その中で、環境保護運動に出会ったのですね。
もともと野生生物保護に興味がありましたが、プロとして、職業としてNGO活動をする人達に出会ったことが驚きでした。欧州には、NGOが環境問題を解決するために有用な方法論があり、日本にも導入すべきだと考えました。私にとって「道具としての英語」とはこのことだと思いました。
■帰国されてすぐにWWF(World Wide Fund for Nature)に採用されたのですか。
帰国後数か月後です。その間は出身大学でアルバイトをしていました。WWFでは、トム・ミリケンという米国人のボスについて、フィールド調査のコーディネイト、マスコミ対応、地元協力者との対応などを徹底的に教えてもらいました。正規職員でしたが1年で退職しました。今、採用試験を受けるとすれば、博士号が条件であることが多くもったいないことをしたなと思います。(笑)
■なぜ、おやめになったのですか。
WWFでは、トンボの保護の研究者として有名なノーマン・ムーア博士に教えを受け、自分が知らないといけないことがあまりに多いことに気づいたのです。彼の活動拠点であるイギリスに行き、イギリスの自然保護区の管理のありかたを学びたいという気持ちが強くなって、イギリスに飛び出して行ったのです。
■その後、グリーンピースに入られたのですね。
ロンドンにいる時に、WWFの時の上司だったミリケンが、グリーンピース・ジャパンで、温暖化とオゾン層の担当を探していると教えてくれました。グリーンピースのことも、温暖化やオゾン層のこともそれまでは余り知りませんでした。好奇心半分で本部のあるアムステルダムに行き面接を受けましたが、面接者たちの有能さとパワーに大きな刺激を受けたことで、新しい分野に挑戦する決心をしました。グリーンピースにいた8年は、主に欧州で本当にいろいろなトレーニングを受けました。常に時間に追われ、非常に厳しい状況で仕事をしてきましたが、これらは今の私に大変役立っていると思っています。グリーンピースでは、温暖化の問題とオゾンの問題に並行して取り組んできましたが、「温暖化」の問題は世論の後押しがあり、新聞にも取り上げられるが、「オゾン」の問題は、全くというぐらい取り上げてもらえないという状況に苦慮していました。ならば自分でやろうと奮起し、はじめて論文を書き、「環境と公害」に投稿しました。私は、オゾン層の問題の解決のために促進されてきた温室効果ガスである「代替フロン」への取組み、すなわち国際協定間の政策矛盾の問題への取り組みが必要であると考えていまして、世論やグリーンピースの活動の重点が二酸化炭素問題に移行しつつある中で、諦められずにいました。
■そこで、大学の研究者に転じられたのですね。
代替フロンの問題に、じっくりと取り組みたいという思いでいた時に、参加していた環境問題の研究会から、大学の教員という話を紹介していただきました。そして2つの大学、研究所を経由して、京大に来ました。環境問題は一つの学問範囲におさまらないものですから、各専門分野における学問の深化と同時に学際的なアプローチが必要とされます。そういう意味では、この地球環境学堂は、いろいろな分野の研究者がいて大変刺激的なところですし、私自身ももっと役に立って行きたいと思っています。
■京大の教員としては特色ある経歴をお持ちですが、京大には、ずっと大学で研究一筋という研究者の方が、まだ多い状況です。そのような研究者との違いをどんな所に感じられますか。
いろいろな意味(笑)で、違うなと思います。京都大学において、私に求められている役割は何か、何ができるか?その答えを探しながら、毎日を葛藤の中で暮らしています。学生には、現場を持ってきた者の視点で情報を発信していきたいと思っています。
■センターの活動について、ご意見をください。
母の介護を経験した中で、出産・育児の場合だけでなく,家族の中に介護が必要な人、病気、障害のある人がいる場合、何らかの支援があればいいなと思いました。男女にかかわらず、出産・育児、介護等で大変なある期間だけ仕事量を一定程度減らすことを認め、求められる業績のレベルにも大学として公的な配慮があればいいと思います。
(聞き手:登谷美穂子)