パリ2024パラリンピック競技大会特設サイト | パラサポWEB
パリ・パラ閉幕/一人一人の可能性示した(2024年9月11日『神戸新聞』-「社説」)
パリ・パラリンピックが、12日間の熱戦を終えて閉幕した。新型コロナウイルスの影響で原則無観客だった前回東京大会とは異なり、会場に集まった大勢の観客と選手が一体となって、障害者スポーツの祭典を盛り上げた。各競技では選手たちが自らの限界に挑戦し、共生社会の実現に向けて、多様性の尊重というメッセージを世界に発信した。
今大会には史上最多となる168(難民選手団を含む)の国・地域が参加し、22競技、549種目が行われた。男子アーチェリーでは、生まれたときから両腕がなく、足で矢を射る米国のマット・スタッツマン選手が自身初の金メダルを獲得し、観客に感動をもたらした。激しい接触がある車いすラグビー、鈴の入ったボールを投げて得点を狙うゴールボールなど、多彩なパラ競技の魅力が改めて伝わる機会にもなった。
残された身体機能を生かし、競技で最大限のパフォーマンスを発揮する。今年5月に神戸で開かれた世界パラ陸上競技選手権大会と同様、選手たちは一人一人の人間が持つ可能性の大きさを十分に示した。
パリ大会で、日本は金14個、銀10個、銅17個のメダルに輝いた。金は東京大会の13個を上回った。車いすテニス女子の上地結衣選手(明石市出身)は4度目の出場で、シングルス、ダブルスの頂点を極めた。日本勢初の単複2冠はまさに快挙だ。男子シングルスの18歳、小田凱人(ときと)選手も激戦を制し、初出場で優勝した。
大会に暗い影を落としたのは、各地で続く戦争だ。22個の金メダルを手にしたウクライナの選手約140人の中には、ロシアとの戦闘で脚などを失った元兵士も含まれる。今回唯一のパレスチナ代表となった選手も、かつてイスラエル軍の銃弾を受けて下半身まひとなった。
閉会式で大会組織委員会のエスタンゲ会長は「あなたたちは人々の障害に対する見方を変えた。『パラリンピック革命』を起こした」と述べた。障害は個人の問題ではなく、受け入れる社会の側に問題があるとする「障害の社会モデル」という考え方が重要だ。パリ大会への注目を、各国の社会でバリアーをなくしていくきっかけにする必要がある。
パリ・パラ閉幕 共生のメッセージ届いた(2024年9月11日『山陽新聞』-「社説」)
障害のある人のスポーツの祭典、パリ・パラリンピックは12日間にわたる大会の幕を閉じた。新型コロナウイルス禍で原則無観客だった3年前の東京パラから一転。選手と観客が一体となって盛り上がり、多様な価値観を認め合う共生社会実現へのメッセージを世界に発信した。
パリ中心部の観光名所や歴史的建造物を活用した各会場には連日、大勢の観客が訪れた。東京パラしか知らない選手は、活況ぶりに「これがパラ(五輪)か」と感激の声を上げたという。チケットの販売枚数は250万枚を超え、史上最高とうたわれた2012年ロンドン・パラの270万枚に迫った。テレビは150以上の国・地域で放送された。大会が障害者スポーツの認知向上に果たす役割は大きく、多くの人が目にしたことは有意義だったと言えよう。
日本勢は、先に開かれたパリ五輪の代表に劣らない活躍で41個のメダルを獲得した。中でも圧巻だったのは、車いすテニス男子シングルスを18歳で制した小田凱人選手。決勝で世界ランキング1位の英国選手との激闘を制し「やばい、かっこよすぎる、俺」と喜びを表現した。過去2大会銅だった車いすラグビーは悲願の金をつかんだ。
岡山勢は3人が出場。佐藤友祈選手=岡山市=は陸上男子車いすの400メートルで銀、100メートルで銅に輝いた。複数メダルは3大会連続だ。金ではない悔しさもあろうが胸を張ってほしい。生馬知季選手=岡山市=は陸上男子車いす100メートルで予選敗退したが、400メートルユニバーサルリレーではアンカーを務め、4位入賞を果たした。アーチェリー男子の大江佑弥選手=倉敷市=は1回戦で敗れたものの、強豪を相手に健闘した。
パラリンピックは福祉の一環とみなされていたが、近年は競技レベルが上がり、スポーツ大会としての性格が強くなった。日本では、環境の整ったトップ選手の強化拠点をパラ選手も使えるようになるなど五輪と一体の強化が進んだ。4年後の米ロサンゼルス大会、さらに先を見据え、官民を挙げて継続的に支援していく体制が求められる。
エリート選手のレベルアップが図られる一方で、国内の障害者のスポーツ参加が伸び悩んでいることにも目を向けたい。
スポーツ庁の23年度調査によると、週1回以上スポーツをする20歳以上の障害者の割合は32・5%。上昇傾向だがペースは鈍い。課題となっているのがハード面だ。障害者専用、優先の施設は少ない上、床に傷が付くといった理由で車いすの利用が制限される場所もある。指導員も依然として不足している。
共生社会を目指していく上で、障害の有無にかかわらず日常的にスポーツができる環境があることが望ましい。今大会の盛り上がりを一過性に終わらせず、各地域で障壁を取り除いていきたい。
パリ・パラ閉幕(2024年9月12日『山陽新聞』-「滴一滴」)
▼五輪に比べると試合中継は少なかったものの、各競技の当事者が次々に登場し、自らの言葉で“見方”を伝えていたのが印象深い。ハッと気付かされる場面も少なくなかった
▼例えば陸上女子走り幅跳びで客席から大歓声がわいたとき。知的障害のある選手たちの口元が一様に動いた。「今やるべきことを自分に強く言い聞かせています」と解説者。慣れない環境で己を見失わないこともまた、限界への挑戦という
▼初瀬さんはパラ出場後、障害者雇用のコンサル会社を起こした。祭典の熱気は冷めやすく、現実は変わりにくい。だが共に行動する人が増えればきっと、誰もが生きやすい社会に近づける。
かつてはリハビリや障害者福祉の一環として見られてきたが、最近は競技やアスリートの注目度が高まっている。今回250万人以上が会場で観戦したのはその証しだ。
国際パラリンピック委員会の会長が閉会式で「私たちは世界をよりインクルーシブ(分け隔てない)にする責任がある」と呼びかけた言葉に共感する。わが国も共生社会への歩みを加速させたい。
大会前は各国有力選手たちの交流サイト(SNS)投稿が話題を呼んだ。「パリ・パラリンピックは参加するのではない。競いに行く」。障害ではなく、五輪と同じくらい競技に注目して―。今大会を象徴するメッセージである。
3年前に東京大会を開催した日本は、海外で最多の175人を送った。金メダルは14個と前回を上回り、国別10位と競技力向上を印象付けた。
郷土勢も奮闘した。ゴールボール男子で竹原市出身の田口侑治選手、車いすラグビーでは広島市出身の長谷川勇基選手が初優勝に貢献。柔道女子57キロ級(弱視)は山口市出身の広瀬順子選手が悲願の金メダルを手にした。地元で勇気づけられた人も多かろう。
盛り上がりを一過性で終わらせず、パラスポーツの定着にどうつなげるのか。
日本パラスポーツ協会の調査によると、東京大会後は80%近い国民がパラスポーツを認知していた。それが1年後には72%に低下したことが、浸透の難しさを物語る。
パリ大会のNHKの総放映時間は90時間弱。日本時間深夜という事情は同じだったパリ五輪と比べ、10分の1程度だった。民放や新聞で取り扱うニュース量が増えたのは前進だが、選手からは「中継してほしかった」と残念がる声も上がった。五輪との関心度の差は依然として大きい。
昨年度にスポーツ庁が障害者に実施した調査でも、スポーツをするのに「障壁はない」との回答は17・4%にとどまった。用具がなかったり、利用を拒まれたりするケースもある。物心両面でバリアフリー化を進めるべきだ。
車いすテニスの金メダリスト小田凱人(ときと)選手はSNSで「車いすの人のみしか車いすに乗ってテニスをしていない現状には疑問もあるし、変えていきたい」と訴えた。健常者と一緒に運動をした経験がある障害者は17・1%。相互に交流し、理解を深める機会はもっと増やせるはずだ。
障害の有無にかかわらず、誰もが生きがいを持って暮らせる社会をどう実現するか。手段はスポーツに限らない。パラリンピアンに学ぶべきは目標を見据え、前に進んでいく姿勢そのものである。
パリ・パラ閉幕 競い合う姿が感動呼ぶ(2024年9月10日『北海道新聞』-「社説」)
パリ・パラリンピックが閉幕した。
障害者アスリートが限界に挑み、力強く緻密なプレーを見せた。車いすテニス男子シングルスで金メダルに輝いた小田凱人選手は「かっこよすぎる、俺」と喜びをあらわにした。勝利に向け躍動する選手たちの姿は、見る者に感動を与えた。
パラリンピックは福祉の一環と見なされてきたが、近年はスポーツとしての価値の向上が重視されている。参加国・地域が過去最多だった今大会は競技レベルが上がり観客の意識も変わりつつあることを実感させた。
障害者スポーツの普及は共生社会の実現につながる。さらに裾野を広げ高みを目指したい。
日本は前回の東京大会を超える14の金メダルを獲得した。車いすラグビーは過去2大会、銅メダルだった悔しさをはね返した。函館市出身の池崎大輔選手らベテラン勢に若手の橋本勝也選手が加わりチームに厚みが増し、新時代到来を印象づけた。
自転車の女子個人ロードレース(運動機能障害)では53歳の杉浦佳子選手が2連覇し、自身が持つ日本選手最年長金メダル記録を更新した。これらは地道な鍛錬の成果に他ならない。
日本の男子が金メダルに輝いたゴールボールは視覚障害のある選手がボールの鈴の音を頼りに得点を競う。プレーは静寂の中で行われ、ゴールの瞬間に選手と観客が沸き立つ。こうしたパラ独特の光景に魅了された人も多かったのではないか。
選手は「障害を克服した」という観点で称賛されがちだが、そうではなくアスリートとして見てほしいという思いの表れだろう。尊重されねばならない。
一方、スポーツ庁の調査では週1回以上スポーツをしている成人の割合は全体で52%だが、障害のある人は32%だった。
体育館によっては床に傷がつくなどの理由で競技用車いすの利用が制限され、指導員も足りないなどの課題も依然残る。
今大会の盛り上がりを一過性で終わらせてはならない。障害に関係なくスポーツに打ち込める環境づくりが求められる。
パリ・パラ閉幕/共生の姿を生活に広げたい(2024年9月10日『福島民友新聞』-「社説」)
健常者、障害者を分け隔てることのない「共生社会」の素晴らしさに共感した人は多いだろう。これをスポーツの世界にとどめず、同じ気持ちと行動で私たちの日常生活に広げていくことが大切だ。
障害者スポーツの最大の祭典、夏季パラリンピック・パリ大会が閉幕した。無観客だった3年前の東京大会と異なり、各競技会場では観客が大きな歓声と拍手で試合を盛り上げた。励ましに応えるように選手は最大限のパフォーマンスを発揮し、その雄姿は多くの人に感動や勇気をもたらした。
障害者スポーツの魅力や可能性を強く感じた大会だった。誰もが生きやすい、多様性を尊重した社会を実現させる契機にしたい。
日本選手は金14個を含む計41個のメダルを獲得した。県勢も車いすラグビーで橋本勝也選手(三春町出身)を擁する日本が初の金メダルに輝いた。ボッチャでは遠藤裕美選手(福島市)が個人、団体ともに銅メダルを獲得した。
柔道女子48キロ級(全盲)で半谷静香選手(いわき市出身)が準優勝し、4度目の大会で悲願のメダルを手にした。陸上では女子砲丸投げ(上肢障害F46)の斎藤由希子選手(福島市)が4位、同400メートル(視覚障害T13)で佐々木真菜選手(福島市)が7位に入り、それぞれ入賞を果たした。車いすバスケットボール女子では石川優衣選手(郡山市生まれ)が献身的なプレーで日本を7位に導いた。
懸命な努力と強い精神力で出場を果たし、奮闘した選手に敬意を表したい。家族や友人など、日々の練習から選手を支えている人にも感謝の気持ちでいっぱいだ。
パラリンピックで活躍する選手に刺激を受け、さまざまな障害がありながらハンデをものともせず、スポーツに取り組む人が少なくない。県内でも3年前の東京大会を契機にボッチャなどの大会や体験会の開催が増えている。
他県に比べ、障害者スポーツに触れられる機会は多いが、まだ一部に限られる。練習環境の確保や指導者の育成を進め、障害の有無に関係なく、一緒にスポーツを楽しめる場を増やす必要がある。
今大会で活躍した選手の多くが仕事と競技との両立、練習場や移動手段の確保、経済的な苦労などに直面しているという。
トップ選手の国際舞台での活躍は障害者スポーツ全体を先導し、底辺拡大などに貢献しているだけに、行政だけでなく、企業や民間団体などの支援や協力は不可欠だ。大きな夢や希望を抱き、努力を続ける選手やチームを支える機運をさらに盛り上げていきたい。
小田凱人選手(2024年9月10日『福島民友新聞』-「編集日記」)
物事を計算立てて考えると、人の先入観を覆せるかもしれない。地球の赤道を腹に見立て、ピタリと巻いたベルトを想像してほしい。長大なこのベルトを1メートル延ばしたとき、地表との間にどれくらいの隙間が空くか。紙1枚通らなさそうだがー
▼寝転んで号泣する小田選手の傍らに転がる車輪。壊れた? 見ているこちらは驚いたが、車輪を外さないと倒れるのが難しいらしい。こんなこともできるのかー。事前に考えられていた寝転がる演出に、金づちで頭をたたかれた思いがした
▼相手選手は車輪を拾い、起き上がる小田選手に手を貸した。多くの人の心をつかんだこの場面はさすがに計算外だろう。スポーツの素晴らしさに、理屈を挟む余地はなかった。
「最年少記録は二度と作れないが…(2024年9月10日『毎日新聞』-「余録」)
東京大会に続いてパリでも個人ロードレースを制覇し、日本勢最年長金メダルの記録を更新した杉浦佳子選手(中央)=2024年9月7日、ロイター
パリ・パラリンピック閉会式で聖火を消すフランス選手たち=2024年9月8日、ロイター
「最年少記録は二度と作れないが、最年長記録は作れる」。3年前の東京大会で名言を生んだ本人も更新できるとは考えていなかったそうだ。パリ・パラリンピックの自転車女子個人ロードレースで連覇を果たした杉浦佳子(すぎうら・けいこ)選手である
▲ゴール前のスプリント勝負で20代のライバル勢をねじ伏せ、日本勢の最年長金メダル記録を53歳に伸ばした。練習の成果で太もも回りが3年前より4~5センチも太くなったという
▲視覚障害女子マラソンで3大会連続メダルの道下美里(みちした・みさと)選手は47歳。夏冬9回出場、49歳の土田和歌子(つちだ・わかこ)選手は車いす女子マラソン6位で有終の美を飾った。ハードな練習の積み重ねで障害や年齢の壁を乗り越えた選手たちに脱帽する
▲「このために生まれてきたと再確認できた」。車いすテニス男子シングルスを種目最年少で制した小田凱人(おだ・ときと)選手。強い使命感は18歳とは思えない。あこがれた国枝慎吾(くにえだ・しんご)さんの役割を引き継いで次世代の目標になることは間違いない
▲閉幕したパリ・パラリンピックではオリンピックに負けず劣らず日本勢の活躍が目立った。「見るスポーツ」としても魅力的な車いすラグビーやゴールボール男子の金メダルで障害者スポーツの認知度がさらに高まっただろう
▲「12日間のスポーツにとどまらず、社会に存在する障壁を取り除かなければならない」。国際パラリンピック委員会のアンドルー・パーソンズ会長の言葉だ。物理的な壁。制度の壁。心の壁。健常者にも壁を乗り越えるさらなる努力が求められる。
パリ大会閉幕 パラ競技に関心持ち続けたい(2024年9月10日『読売新聞』-「社説」)
手に汗握る逆転劇や、強豪を次々と破る快進撃に日本が沸いた。選手と観客が大会を通じて感動を共有した経験を、今後の障害者スポーツの振興につなげていきたい。
日本は前回東京大会を上回る金メダル14個を獲得した。銀、銅と合わせたメダル総数は41個で、過去最多だった2004年のアテネ大会の52個には届かなかったが、連日の熱戦から目が離せなくなった人も多かったのではないか。
中でも圧巻だったのが、車いすテニスの男子シングルスに初出場し、この種目としては史上最年少となる18歳で金メダルに輝いた小田凱人選手である。
試合前、テレビ放送の機会が少ないとして、「なんのためにメディアに出て、演出してきたか分かんなくなりそうだけど、これが現実」とSNSに投稿した。あえて 尖 とが った発言で大会への注目を集めようとしたのだろう。
「負ける気がしない」と豪語して臨んだ決勝では、最終第3セットで相手にマッチポイントを握られ、万事休すかに思えた。しかし、そこから4ゲームを連取し、逆転勝ちした。
昨年引退した国枝慎吾さんを上回るようなパワープレーと、崖っぷちに追い込まれても諦めない不屈の精神に、拍手を送りたい。
車いすラグビーは、豪州、米国といった強豪を倒し、悲願の金メダルをものにした。リオデジャネイロ大会、東京大会はともに銅メダルだった。メンバー12人のうち11人が東京大会の経験者で、抜群の連携が生かされた。
大会閉幕で、せっかく高まった障害者スポーツへの関心や理解が再びしぼんでは元も子もない。
スポンサー離れで資金不足を訴える競技団体があるほか、施設側の無理解で利用を断られたという選手の声も出ている。官民を挙げて対策を練っていきたい。
今大会は各地で紛争が続く中での開催となった。ロシアの侵略を受けるウクライナは金メダル22個を獲得した。
障害の有無や国情にかかわらず誰もが安心してスポーツに取り組めるよう、国際社会は平和を取り戻す努力を続けねばならない。
パラリンピック・パリ大会が閉幕した。パリ郊外のフランス競技場で行われた閉会式のハイライトは、長く盛大な大観衆の拍手だった。
閉会のあいさつに立った大会組織委員会のエスタンゲ会長は大会を「人生を変える特別な出会いの物語だった」と総括し、満員の観衆に「偉大なアスリートにもらった刺激、誇り、感動の大きさを伝えるため、立てる方は起立し、最も盛大で熱烈で長い拍手喝采を送ろう」と呼びかけた。
歓声とともに始まった拍手はなかなか鳴りやまず、エスタンゲ会長のスピーチの再開さえ容易には許さなかった。
東京大会の悲運を思う
パリ五輪から続く「パリ2024」は終始、大歓声と盛大な拍手に包まれた。それが今大会の最大の特長である。
パリパラ大会はチケットの販売枚数が250万枚を超えた。これは「過去最高の大会」とうたわれた、2012年ロンドン大会の270万枚に迫る。
会場はどこも満員の観衆の熱気に包まれ、大歓声と喝采に後押しされて選手らは熱戦を繰り広げた。
エッフェル塔、凱旋(がいせん)門、グランパレ、コンコルド広場など誰もが知る多くの名所旧跡が大会会場となった。エスタンゲ会長はそうした競技会場の素晴らしさを誇りつつ、「一番大事なのは人間であり、アスリートと観客の存在なくしては、こうした会場も空っぽの舞台でしかなかった」と述べた。
それは悲しいかな、3年前の東京大会の姿でもあった。
東京パラ大会における関係者の目標は、「ロンドン超えの大成功」だった。東京でも見事な競技が展開されたが、無観客の寂しさは、どうにも否めなかった。パリの成功を目の当たりにして、余計にそう思う。
ならば日本は、もう一度、五輪・パラリンピックの大会招致に挑むべきである。
東京五輪後に数々の不正が明らかになり、五輪はもういい、との忌避感が高まった。冬季五輪の招致を掲げていた札幌市もその手を下げた。だが、不正のない五輪招致、大会運営を堂々と目指せばいいのだ。日本は、五輪・パラ大会を開催できる国であり続けるべきである。
パリのパラ大会は、存分にその価値をみせつけた。それは人の限界に挑戦する勇気や工夫であり、障害を克服して向上を続ける競技力そのものであり、これを目撃する感動である。特に日本の子供たちに、リアルタイムで見てほしいのだ。パラリンピアンの姿を。
選手の姿に目をみはれ
走り幅跳びで人類初の9メートルジャンパーを目指す、レーム(ドイツ)の浮遊感、トラック種目での車いすの疾走、男女のチームで競う車いすラグビーの衝突の迫力、ボッチャ選手が会心の一投にあげる雄たけび、こうしたシーンに驚嘆してほしい。
金メダルを喜びコートに倒れこむ小田に駆け寄り、外した車輪を拾い上げてくれたのは、敗れた世界ランク1位のヒューエット(英国)だった。
女子車いすテニスの上地結衣が優勝時に泣き崩れて動けなくなったところにも、敗れた女王のデフロート(オランダ)が駆け寄り祝福した。ゴールボール男子で金メダルの日本選手も、一人一人が敗れたウクライナの選手たちに抱きしめられた。
選手たちの超人的な活躍ばかりではなく、こうした姿を見てほしいのだ。
小田は優勝後のインタビューで「僕が試合をすることで、何かが変わると信じているし、変わってほしい。その旅はまだ続く」と話した。
この思いに、応えられる社会でありたい。五輪やパラ大会に感動できる人でありたい。
パラ五輪閉幕 全ての選手をたたえたい(2024年9月10日『新潟日報』-「社説」)
並々ならぬ努力を積み重ねてつかんだ晴れの舞台で、どの選手も輝いていた。ハンディをものともせず、感動と勇気を与えてくれた選手たちの奮闘をたたえたい。
原則無観客開催の前回東京大会にはなかった観客との一体感も生まれた。150以上の国・地域でテレビ放送された。共生社会に向けた機運を醸成したに違いない。
日本勢は海外大会最多の175選手が参加し、計41個のメダルを獲得した。うち金は14個と前回東京大会を上回った。
悲願の金メダルを初めて取った種目も多かった。
車いすラグビーの障害が最も重いクラスに属し、障害と性別の二つの壁を乗り越えてきた。国内に女性の登録選手は7人しかいないという。彼女の活躍が競技人口の裾野を広げると期待したい。
ベテラン勢の奮闘が目立った。陸上男子400メートル銅の伊藤智也選手は、61歳で日本選手最年長メダリストとなった。53歳の杉浦佳子選手は自転車女子個人ロードレースで2連覇し、自身の日本選手最年長金メダル記録を更新した。
今後が楽しみな若手の台頭もあった。車いすテニス男子シングルスで18歳の小田凱人選手が優勝した。卓球女子シングルスは21歳の和田なつき選手が金メダルに輝いた。卓球で日本勢のシングルス制覇は男女を通じて初の快挙だ。
一方、「平和の祭典」に厳しい国際情勢も影を落とした。
紛争や飢餓などに苦しむそれぞれの祖国の人たちに力を与えたことだろう。
(2024年9月10日『新潟日報』-「日報抄」)
パリを舞台にしたオリンピックとパラリンピックが幕を下ろした。いずれも多くの感動を与えてくれた。現地とは時差が7時間あった。日本では未明の試合が多く、寝不足になった方も多かっただろう
▼新型ウイルスの影響で無観客だった東京大会とは異なり、客席や沿道からの声援が選手を後押しした。本紙はパリ五輪に記者とカメラマンを派遣した。試合終了後に記者と話すと興奮冷めやらぬ口ぶりで、記事からも熱気が伝わってきた
▼歴史的建造物のグラン・パレがフェンシングの会場になるなど、パリならではの大会だった。新潟市西区出身で、フェンシング男子エペ団体の銀メダル獲得に貢献した古俣聖(あきら)選手も「すごい会場で試合ができて、本当に幸せだった」と話していた
▼課題の多い大会でもあった。特に問題となったのがインターネット上での選手に対する心ない言葉だ。国際オリンピック委員会は五輪期間中に8500件を超える誹謗(ひぼう)中傷の投稿が確認されたと発表した。パラリンピックでも問題は終わらなかった
▼トップ級の選手は、どうしても結果を求められる。帰国した古俣選手に五輪の印象を尋ねると、最初に出た言葉は「いろいろなプレッシャーから解放され、ほっとしました」だった
▼全身全霊で競技に打ち込み大きな重圧と戦う選手に、言葉の刃(やいば)を匿名で浴びせる。こうした行為には怒りやむなしさを覚える。「結果だけが全てではない」と言われて久しい。4年後は名実ともに、そんな大会であってほしい。
大会には史上最多の168カ国・地域と難民選手団が参加。大観衆で盛り上がった直前のパリ五輪の余韻が残る中、会場には多くの観客が詰めかけ、素晴らしい雰囲気となった。
日本からは海外開催の大会では最多の175選手が参加し、金メダル14個を含む総メダル数41個を獲得。金は前回東京大会の13個を上回る活躍だった。
出雲市出身で車いすテニスの三木拓也選手(35)は、小田凱人選手(18)とペアを組んだ男子ダブルスで決勝に進出。英国ペアに敗れて優勝は逃したものの、4度目のパラリンピック出場で自身初めてとなる銀メダルを手にした。山陰両県出身者のパラリンピックでのメダル獲得は、実に20年ぶりの快挙だ。
パラアスリートには障害がある分、五輪選手にないドラマがある。三木選手は出雲高校3年だった2007年、島根県高校総体の男子ダブルスで準優勝を飾ったが、その後、左脚の骨肉腫が判明。医師からテニスは無理だと告知され、「『何で俺なんだ』と愛用していたラケットをたたき折った。思い切り荒れた後は無気力状態が続いた」と当時を振り返っている。
新たな一歩を踏み出すきっかけになったのが、08年の北京パラリンピックだった。医師たちから車いすテニスを勧められ、その大会で男子シングルスを制した国枝慎吾さん(40)=23年に引退=の映像を見て衝撃を受け「自分もこの場(パラリンピック)に立ちたい」との思いを強くしたという。
今度は三木選手自身が、同じように挫折した若者の「憧れの人」となり、励まし、背中を押す番になる。
パラリンピックに出場する選手は、障害者としてではなく一人のアスリートとして見てもらいたいとの意識が強い。今回、国際パラリンピック委員会(IPC)は、選手は「参加するのではない。戦いに行くのだ」とのキャンペーンを張った。障害者は参加するだけで称賛されることが多いが、競技力を評価してほしい、という訴えだ。
その通り競技としてのすごさを感じさせた場面も多かった。車いすテニス女子の上地結衣選手は強敵のライバルに粘り勝って2冠を手にし、男子ダブルスで三木選手と組んだ小田選手も強烈なショットでシングルスを制した。いずれも一つのスポーツとして完成度は高かった。
一方で、パラスポーツが競技性の高さだけでは語れない部分が、そのユニークさだ。障害に応じて選手一人一人が持てる力を発揮する姿が、見る者を引きつけ、障害への理解を深める。
障害者にとっては、障害は克服したり乗り越えたりするものではなく「個性」だと言える。周囲から特別視されず、個性の一つとして受け入れられるようなインクルーシブ(包摂的)な社会の実現に向け、パラリンピックはきっかけに過ぎないかもしれないが、それを確かな一歩にしなければならない。
敵に背を向ける(2024年9月10日『山陰中央新報』-「明窓」)
戦いで敵に背中を向ける行為はすなわち負けを意味する。最後尾で敵軍を食い止める殿(しんがり)は自軍が逃げる時間を稼ぎつつ、背を見せずに退却する命懸けの任務だった
▼逆に車いすテニスは背中を見せないと勝てない。車いすは横に動けない。正対すると左右どちらにも行きにくくなるため、ボールを打った後にくるりと車いすを回転させて後ろを向き、相手を肩越しに見る構えが最も理にかなっているという
▼どれだけ背中を見せてきたのだろう。パリ・パラリンピック車いすテニス男子ダブルスに出場した出雲市出身の三木拓也選手(35)である。高校3年時に左脚に骨肉腫を発症し、失意の底からはい上がった。「リミッターは『上に行く』と思っている人しか外せない」。同学年の松江市出身の錦織圭選手に憧れて、限界まで追い込み、時に吐くまでラケットを振った
▼18歳の俊英、小田凱人(ときと)選手に声をかけてペアを組み、パラ4度目で自身初の銀メダルを獲得した。ハイライトは準決勝だろう。互いに1セットを取り、迎えた10点先取のマッチタイブレーク。8-8から会心のバックハンドを決め、2時間を超す激闘を制した
▼かねて「見ている人に可能性を届けたい」と語っていた。英国ペアに敗れた決勝は不完全燃焼だっただろうが、集大成と位置付けたパリ大会で確かな可能性を示した。何万回と背中を見せた末につかんだ最高の色のメダルだった。(玉)
【パリ・パラ閉幕】共生への意識を強く(2024年9月10日『高知新聞』-「社説」)
選手たちが躍動する姿は多様な可能性を認識させ、爽やかな感動を残した。障害の有無にかかわらず、誰もが分け隔てなく認め合う社会への思いを強くさせた。
観光名所や歴史的建造物を活用し、街や観客との一体感を演出して盛り上げた。個性を発揮する選手に感嘆し、なじみが薄かった競技に面白さを感じた人もいるだろう。
ジェンダー平等も打ち出した。女子選手のエントリーは過去最多で、女性比率は最も高くなった。今後の大会でも意識されるはずだ。
日本は前回東京大会を上回る14個の金メダルを含め、41個のメダルを獲得した。
高知県勢の活躍も光った。車いすラグビーで日本は悲願の金メダルを獲得し、3大会連続で主将を務めた池透暢(ゆきのぶ)選手は高知にパラ大会で初の「金」をもたらした。2016年のリオデジャネイロ、21年東京と2大会続けて銅メダルだっただけに、喜びはひとしおだ。
立ちはだかった「準決勝の壁」を突き抜け、決勝で米国を破った際のチームメートとの抱擁は感動的だった。「最高の喜びがここにあった」というコメントに実感がにじむ。準決勝オーストラリア戦で勝利を呼び込んだ終盤の得点も忘れがたい。
陸上の女子円盤投げでは鬼谷慶子選手が銀メダルを獲得した。初出場で、自身が持つアジア記録を更新しての快挙だ。競技アシスタントの夫とともに技術を磨いてきた。夫婦のすがすがしい笑顔が印象に残る。
バドミントンの藤原大輔選手は惜しくも3位決定戦で敗れた。2大会連続のメダル獲得とはならなかったとはいえ奮闘に拍手を送りたい。カヌーの小松沙季選手は棄権となり無念だろうが、積み重ねてきた努力は誇っていい。
障害者スポーツはリハビリの一環にとどまらず、競技性や国際化が進んでいる。多種多様な障害の選手が公平に競うためにはクラス分けの重要性が増す。混乱を招かないように精度を高め、内容への理解を広げることが必要だ。
大会が障害者スポーツの認知向上に果たす役割は大きい。選手や関係者の交流にとどまらず、障害者への社会の視線の変化にもつながっていく。それだけに、地域社会を巻き込んだ活動へとつなげ、継続していくことが大切になる。
日常的にスポーツを楽しむ環境は生活を充実させ、競技力の向上や選手の発掘へと広がる。だが、障害者は健常者と比べてスポーツを楽しむ機会が少ないという。競技施設の不足やバリアフリー対応の課題があり指導員らの確保ものしかかる。
パリ・パラ開幕 心の壁なくすきっかけに(2024年8月31日『西日本新聞』-「社説」)
パリ・パラリンピックが開幕し、さまざまな競技の熱気が連日伝わってくる。限界に挑む約4400人の選手を応援したい。
日本から出場するのは海外開催で最多の175人で、10代や20代の選手が増えた。競技の裾野が若い世代に広がった証しだろう。
今年の大会で連覇を果たした小田凱人(ときと)選手は、パリ・パラリンピックで金メダルが期待される18歳だ。飯塚で成長し、車いすテニスで世界の頂点に立った国枝慎吾さんを追いかける。2人は競技の発展に確かな足跡を残した。
大会会長の前田恵理さんは「回を重ねるごとにスポーツとして認められ、選手と観客の距離が縮まった。障害の有無による心の壁がなくなった」と実感している。
競技の魅力が知られるようになると観客が増え、市民や企業の支援の輪が広がった。歩道の段差をなくし、車いすで利用できるトイレや飲食店が増えるなど、地域にも変化をもたらした。
競技をきっかけに障害を超えた交流が生まれ、誰もが生きやすい社会づくりに共感が広がる。パラスポーツの意義と可能性を定着させたい。
競技の普及にも一定の効果があり、障害がある人もない人も一緒にボッチャなどを楽しむ機会もできた。パラスポーツは私たちの生活に身近なものになりつつある。
並行して、社会から障壁をなくす取り組みをさらに進めたい。今年4月、改正障害者差別解消法が施行され、障害者への合理的配慮の提供が事業者に義務付けられた。
車いすの人が段差を越えるためにスロープを渡す。筆談や読み上げなど、分かりやすい方法で従業員が応対する。こうした配慮が自然に、当たり前にできることが共生社会への一歩となる。
パリ大会は東京大会と違って、観客が大きな声援と拍手で選手を後押しする。盛り上がる競技を楽しみつつ、大会が発信するメッセージをしっかりと受け止めたい。
誰もが認め合う「共生社会の実現」を目標に掲げる障害者スポーツの祭典、パラリンピック・パリ大会が開幕した。競技に臨む選手らへの応援を通じ、障害者と健常者が尊重し合っていくことの大切さを考える機会としたい。
県勢では、東京大会で銅メダルの車いすラグビーで前大会も出場した橋本勝也選手(三春町出身)が代表入りし、金メダルを目指している。陸上の女子400メートル(視覚障害T13)に2大会連続出場の佐々木真菜(福島市出身)、女子砲丸投げ(上肢障害F46)に斎藤由希子(福島市)の両選手が出場する。初出場の斎藤選手は5月の世界選手権で銅メダルを獲得しており、好成績が望めそうだ。
女子車いすバスケットボールには石川優衣(郡山市生まれ)、ボッチャの個人戦と団体戦には、女子脳性まひBC1クラスの遠藤裕美(福島市出身)、柔道女子48キロ級(全盲)に4大会連続となる半谷静香(いわき市出身)の各選手が出場する。
各選手がパリの大舞台で存分に力を発揮できるよう、本県からもエールを送りたい。
共同通信社の全国の自治体首長アンケートによると、3年前の東京大会を経て共生社会の実現や多様性の尊重に向けた取り組みが進んだかどうかとの質問に「進んだ」「どちらかといえば進んだ」との回答は全国で73%と高い値となった。ただ、障害者スポーツの普及に向けては、体験の機会や情報発信、障害者の利用しやすい施設整備などの必要性を指摘する意見が多かった。
県内では小学校などで障害者スポーツを体験する機会などが設けられているものの、車いすを使った球技などの認知度は、五輪競技などと比べ、まだまだ低いのが現実だ。県勢の活躍が障害者スポーツへの関心や環境整備の機運醸成につながることを期待したい。
パリ五輪では、交流サイト(SNS)での誹謗(ひぼう)中傷で、選手らを傷つける事態が相次いだ。こうした行為は、全力を費やして出場権を得た選手らの努力を不当におとしめる行為であり、パラリンピックでも許されるものではない。
パラリンピックでの選手らの活躍は、障害を越えて奮闘する姿を通じ、障害者だけではなく、健常者にも希望を与えてくれる。その貴重な機会を中傷で汚し、本来注目されるべき選手らの努力から関心がそれてしまうようなことは避けなければならない。
近年は選手の競技レベルが上がり、その迫力や高度な技術には目を見張るばかりだ。「パラスポーツ」という呼び方が浸透するなど、社会の意識も変わりつつある。
国際パラリンピック委員会(IPC)が企画したキャンペーンである。選手は単なる参加者ではなく、鍛錬を積み重ねたアスリートだ。障害を乗り越えたという物語より、競技に注目してほしい。そんな思いがにじんでいる。
日本でも車いすテニスの小田凱人(ときと)選手のように、スポンサーの支援を得て国際舞台で活躍するプロアスリートが増えている。
スポーツの根源的な喜びは競い合うことにある。勝利至上主義には多くの弊害も指摘されるが、より高い舞台を目指して努力を続ける姿は尊い。
世界では今も戦火が広がっている。IPCのアンドルー・パーソンズ会長は「人類は平和に向かっていない。私たちが希望のともしびになる」と強調する。
多様性が尊重される世界への願いを込めて12日間の熱戦が始まった。共生の意義を改めて考える機会としたい。
パラリンピック 限界に挑む選手へ声援送ろう(2024年8月30日『読売新聞』-「社説」)
障害のある選手らが自身の可能性に挑み、栄冠を目指す。その姿をしっかりと目に焼き付け、障害者スポーツへの理解を深める機会としたい。
パリ・パラリンピックが開幕した。約170の国と地域から、約4400人の選手が22の競技に出場し、9月8日まで力と技を競う。日本からは、170人を超える選手が参加する。
これまで大会出場に向けて努力を重ねてきた選手たちに、エールを送ってもらいたい。
開会式は、パリの中心街で行われ、選手たちは晴れやかな表情でシャンゼリゼ通りを行進した。五輪に続いて、競技場外の開放的な雰囲気が印象的だった。
国は2017年、五輪やパラリンピックの有望選手を発掘する「ジャパン・ライジング・スター・プロジェクト」をスタートさせた。今回は、その出身者8人が出場する。プロジェクトは一定の成果を上げたといえるだろう。
一方、読売新聞が障害者スポーツの25競技団体に尋ねたところ、20団体が「活動資金が不足している」と回答した。
東京大会以降、スポンサーの支援打ち切りなどで収入が大幅に減り、合宿の日程を短縮するなど対応に苦慮している団体もある。
障害の有無にかかわらず、誰もがスポーツを楽しめる社会が望ましい。官民を挙げて、継続的にサポートしていくことが重要だ。
パラリンピックは、負傷兵のための競技会が起源だという。根底には平和への願いがある。
パラ五輪開幕 共生社会への後押し期待(2024年8月30日『新潟日報』-「社説」)
障害者と健常者が隔てなく、共にスポーツを楽しめる機会を広げたい。共生社会の実現を後押しする大会になることを期待する。
パリ・パラリンピックが28日開幕した。来月8日までの12日間、22競技549種目が行われる。
初めてとなるフランスでの開催に、史上最多の167カ国・地域と難民選手団の4400選手が参加する。女性選手は過去最多の2千人近くがエントリーした。比率も45%と最多となる。
パリ五輪と同じく「広く開かれた大会に」をスローガンに、開会式は史上初めて競技場外で実施された。どの選手も晴れやかな表情で行進していた。
憧れの舞台で、日頃の練習成果を思う存分に発揮するとともに、国を超えた友好も深めてほしい。
日本からは海外開催では最多の175選手が出場する。2004年のアテネ大会の52個を上回るメダル獲得が目標だ。
東京大会などを通して、障害者スポーツ普及への対応は進みつつあるものの、取り組まねばならないことは多い。
「利用しやすい施設の整備」「指導員やボランティアの増加」などの課題も出た。
スポーツ庁の23年度の調査では、週1回以上スポーツを行っている20歳以上の割合は52・0%なのに対し、障害のある20歳以上は32・5%と少ない。
多くの障害者がスポーツに取り組める環境を整えたい。
健常者と一緒に試合をする機会が増えているボッチャなど人気の高い競技がある一方で、認知度が低くスポンサーや支援金が集まらない競技もある。
どの競技にも国民の関心が高まり、広く根付くパリ大会になることが求められる。
パリ・パラ開幕/多様性尊重の理念世界に(2024年8月30日『神戸新聞』-「社説」)
パラリンピックは、障害者スポーツを通じ、インクルーシブ(分け隔てのない、包摂的)な社会を目指す国際競技大会である。選手たちは困難があってもあきらめず、自らの限界に挑戦する。パリ五輪と同じスローガン「広く開かれた大会に」の言葉通り、誰にとっても平等で公平な運営を期待したい。
2021年の東京パラリンピックは新型コロナウイルス禍による緊急事態宣言の中で開かれ、原則無観客で実施された。今回、選手は多くの人たちの前で競技に挑むことができる。会場が一体となった盛り上がりが各競技で見られるだろう。
競技は五輪と同様、ベルサイユ宮殿、グラン・パレなどパリの観光名所や歴史的建造物を活用した会場である。開会式も史上初めて競技場の外で開かれた。選手らはシャンゼリゼ通りを進み、コンコルド広場での式典に臨んだ。華やかなパリの街が大会全体を彩るに違いない。
参加国・地域数は、難民選手団を含めて168と過去最多になり、女子選手の比率も過去最高の45%に達したという。計約4400人が22競技、549種目に挑む。選手の出場機会が拡大した点は喜ばしい。
日本選手は175人が代表入りした。海外開催のパラリンピックでは2004年アテネ大会の163人を上回り、過去最多となる。車いすテニスには、明石市出身で東京大会銀メダリストの上地(かみじ)結衣選手、金メダルを狙う18歳の小田凱人(ときと)選手らが出場する。ボッチャや車いすラグビーのチームなども頂点を目指す。
今年5月に神戸で開催された世界パラ陸上競技選手権大会で活躍した選手たちも、パリで躍動する。神戸で銀メダルだった男子車いすの佐藤友祈(ともき)選手は東京大会からの2連覇に挑む。それぞれの選手が持てる力を存分に発揮してほしい。
残念なのは、昨秋の国連総会で五輪・パラリンピックでの休戦決議を採択したにもかかわらず、ウクライナやパレスチナ自治区ガザなどで戦火が続いていることだ。五輪・パラが真の平和の祭典になっていない事実を重く受け止め、大会を平和について考える場にしたい。
パラリンピックは多様性を尊重し合い、誰もが能力や個性を発揮できる場である。大会では勇気、強い意志、インスピレーション、公平-という四つの価値を重視する。社会の側にある障壁(バリアー)を取り除き、共生社会を実現させるために、大会の理念をパリから世界に向けて強く発信してもらいたい。
元気に駆けまわる子どもたちの傍らで、わが子が遊びの輪に加わらず、じっと孤独に耐えている。足が不自由なばっかりに。〈或(あ)る星をみつむる思ひ足病みて童(わらべ)仲間に紛らひゆかぬ子〉。歌人の島田修二さんには、そんな障害のある息子がいた
◆ごく普通の子なら、わけなく乗りこなす三輪車も、この子が遊べるようになるまで、どんなに苦労したことか。父親はこんな歌も詠んだ。〈足を病む汝(なんじ)が三輪車の影曳(ひ)きてかく美しき落日に遭ふ〉。もし何の不自由もない子だったなら、沈む夕日の美しさを、これほど実感することはなかったろう、と
◆何かを失えば、何かがプラスに変わる。生きるよろこびとは、悲しみの中からふと立ち上ってくるのかもしれない。一見マイナスに映る支障や不都合が当事者だけでなく、この社会を豊かにしたり、深めていると思いたい
◆パラリンピック・パリ大会が開幕した。県内からも2選手が大舞台に挑む。どのアスリートにも何かを失った悲しみがあり、それをプラスに変えてきた歩みがある。そんな人間の持つ力を、世界の豊かさを見せてくれる12日間である
◆第2次大戦後、負傷兵のリハビリから生まれた大会の歴史は、戦争の傷あとに向き合うすべを教えてもいる。やむことのない戦火が続くいま、人びとが互いを信じ合うことができるように。(桑)
パラリンピック開幕 共生社会実現の一歩に(2024年8月29日『秋田魁新報』-「社説」)
パラリンピック開幕 共生社会実現の一歩に(2024年8月29日『秋田魁新報』-「社説」)
パラリンピック・パリ大会はきょう開幕。12日間の日程で各競技が順次行われる。選手たちの活躍ぶりを世界に発信し、目標に掲げている「共生社会の実現」への大きな一歩にしてもらいたい。
17回目を数える今大会には、史上最多となる167の国・地域と難民選手団が参加。約4400人が出場する予定だ。困難を克服し、力と技を磨いてきた選手一人一人が、晴れの舞台で最高のパフォーマンスを披露することを期待したい。
パラリンピックは身体障害、視覚障害、知的障害の選手が対象。陸上競技や競泳など22競技でメダルが争われる。障害の程度や種類が同じような選手が同一のグループで競い合う「クラス分け」を行っているため、種目数は五輪の約1・7倍に当たる549に上る。重度障害者用に開発されたボッチャや、視力差をなくすためにアイマスクを着用してプレーするゴールボールなど独自の競技もある。
本県関係では、陸上男子マラソン(視覚障害T12)に秋田市出身の熊谷豊選手が出場する。21年東京大会では初出場ながら力強い走りを見せ、7位と大健闘した。2大会連続出場を果たしたのは、それに満足せず努力を重ねてきた結果だろう。今大会でも、日頃の練習の成果を存分に発揮してほしい。
自分と同じように障害がある人がパラリンピックの選手として活躍していることに刺激を受け、自分にもできる競技を見つけて挑戦する。そのようにして障害者スポーツの裾野が拡大していくのは望ましいことだ。自国開催の東京大会は、大きなきっかけになったはず。今回のパリ大会で、機運がさらに高まればと思う。
問題は、そうした障害者スポーツ拡大の機運をいかに後押ししていくかだ。
共同通信社が全国の都道府県知事や市区町村長を対象に行ったアンケートで、障害者スポーツの普及などに必要なこととして挙げられたのは「学校やイベントなどでのスポーツ体験や情報発信」が57%と最多だった。「利用しやすい施設の整備」「指導者やボランティアの増加」との回答も少なくなかった。
共生社会の実現には、障害者が健常者同様、気軽にスポーツを体験し、楽しめるようにすることが求められる。国や自治体は、そのための環境づくりに一層力を入れる必要がある。
共生社会の道探るパラ大会に(2024年8月29日『日本経済新聞』-「社説」)
ハンディキャップを背負いながら限界に挑む障害者アスリートの姿は、世界で興奮と感動を呼んできた。幕が上がるパリ・パラリンピックでも、その躍動に期待する。共生社会への道筋やヒントを探る契機にしたい。
史上最多の167の国・地域と難民選手団が参加し、約4400人が出場予定だ。日本勢も海外開催で最多の175人が参加する。
パラリンピックは第2次世界大戦で負傷した軍人のリハビリの一環で開かれたスポーツ大会に源流がある。そのため当初はリハビリの延長という印象が強かった。
だが近年は選手が高いレベルでぶつかり合う競技大会としての性格が際立つ。3年前の東京大会でも、力強く正確なプレーに息をのんだ人は多いだろう。純粋にスポーツとして楽しめることは、障害者を包摂する社会を目指すうえで大きなプラスになろう。
パラへの関心が高まった結果、ボッチャのように知名度が上がった競技をシニア層が楽しむといった光景も見られるようになった。好ましい流れといえる。
2011年制定のスポーツ基本法に障害者スポーツの推進が盛り込まれたことや、多様性への配慮を背景に、企業がパラ選手を支援する動きも広がっている。もっとも、注目が集まるのは一部の有名選手にとどまりがちとの指摘もある。より多くの選手に幅広い支援が届くことが望ましい。
国連はパラ大会の期間中も休戦を促す決議を採択している。だがウクライナやガザ地区での戦闘は止まっていない。途上国では障害者スポーツの推進体制が整いにくいともいわれる。大会を通じて、国際的な課題に改めて目を向けることも欠かせない。
「人間の可能性の祭典」といわれるパラリンピックの価値は▽勇気▽強い意志▽インスピレーション▽公平――とされる。いずれも共生社会の実現に重要な要素だろう。障害の有無を越え、誰もが個性を生かして活躍できる世の中に向けて着実に歩みを進めたい。
パリ・パリ・パラ開幕 選手の躍動応援したい(2024年8月28日『北海道新聞』-「社説」)
パラリンピックが開幕する。
障害のある選手が創意工夫し限界に挑む。その姿が感動を生み、スポーツの価値を高める。誰もが力を発揮できるよう、障害の特性への配慮は徹底されている。
日常のあらゆる場面で障害者差別は根強く残る。選手の全力プレーに声援を送るとともに、共生社会の実現に向け何をなすべきか考える契機としたい。
日本選手は道内関係の5人を含め175人が出場予定だ。
競泳女子の小野智華子選手は4年前、練習の拠点を東京から盲学校時代に水泳を始めた帯広市に移した。「子どもの時から知っている」という住民らが練習に協力している。
各選手や支える人々の根底にあるのは、障害が克服すべきものではなく個性だととらえる意識だろう。周囲の協力は当たり前のこととして行われる。そこに共生社会へのヒントがある。
今春施行の改正障害者差別解消法は、障害者にとっての障壁を可能な限り取り除く「合理的配慮」の義務化対象を、行政機関から民間事業者に拡大した。
障害者と支える側が対話を重ね、双方が理解を深め合いながら課題を解決していくことが何よりも重要である。
戦火が続く中での開幕だ。出場選手には負傷した元兵士や戦闘に巻き込まれた住民もいる。
選手に敬意を表するのと同時に、国際社会はいつまでもそうした我慢を強いてはならない。世界の分断が加速しないよう、戦火を止める努力が必要だ。