田中敦子さん
彼女の声は、導く声だった。
時に荒くれ者の男たちを率いる少佐、時に厳しい教えを授ける師匠であり……。
その声で命令されると、不思議と従うべきだという説得力があった。
田中敦子さんは、聞いてすぐにわかるその独特なクールさ、艶のある知的な声と芝居で、数多くのキャラクターを演じてきた。アニメでは、『攻殻機動隊』シリーズの草薙素子少佐は、彼女自身のニックネームとなるほどのハマり役だ。吹き替えでは、シャーリーズ・セロン、ニコール・キッドマン、サンドラ・ブロックのような戦う女たちの声を担当していた。
30年以上のキャリアの中で演じてきた役は数えきれないほど多いが、その声は外国映画でも、アニメでも、シーンに凛とした空気を与えていた。出番の少ない作品においても、重要な役どころとして、作品全体を引き締めるようなポジションを担うことが多かった。それだけ、多くの演出家に彼女の芝居と声は信頼されていたのだと思う。
彼女の早すぎる死は、アニメ・吹き替えの世界にとって大きな損失であることは、いちいち言うまでもない。彼女の声を聞いて育った人なら、心に大穴が開いてしまうような、辛い一報だった。
「戦う女」の代名詞を作った声
「特に私のキャリアの中では、『戦う女』の役が大きな位置を占めています」。
田中敦子さんは、インタビューでそう語っている。(※)
戦う女といえば、『攻殻機動隊』の草薙少佐だ。この作品は田中さんの声なしに成立しえただろうか。屈強で一癖ある男たちを束ね、様々な政治的折衝をこなしながら、クールに自らの役割を全うし、敵と対峙するその姿は、戦う女の代名詞とも言えるほど、大きな影響を与えている。
このシリーズで田中さんの芝居は、その深遠な世界観を体現するような、深慮の効いた芝居だった。深く思索し、物事の本質を掴み取る。知性と情熱のほとばしるそのパフォーマンスあってこそ、草薙少佐は名キャラクターたり得た。
日本アニメには、戦う女性は数多く描かれるが、多くは少女である。その中にあって田中敦子さんは、大人の戦う女の理想像を体現したと言える。
田中敦子さんは、日本のアニメに戦う大人の女をもたらしたという功績は決して忘れられることはないだろう。
同時に彼女は悪役でも大きな力を発揮した。田中さんが初めて声優を意識したのは、峰不二子を演じた二階堂有希子の芝居だったそうだ。
田中さんは、悪役を演じさせても抜群の存在感を発揮した。そのクールな声質は、キャラクターに氷のような冷徹さを与えた。例えば、『Fate/stay night』のキャスター役(メディア)だ。権謀術数で相手を罠にはめ、利用できるものは利用しつくそうとする冷徹な女。しかし、氷は溶けやすい。その冷徹さがなにかの熱に触れたとき、もろくも崩れる繊細さがある役どころだったが、田中さんはそんな繊細さと冷徹さを併せ持つキャラクターも見事に体現していた。
その声は、誰かを導く声だった
「戦う女」と並んで、彼女のキャリアにとって重要なのは、「誰かを導く人」ではないかと思う。導く人には見守る人なども含めてもいいだろう。
あの声から発せられる言葉には、信じるに足ると思わせる力があった。同じセリフでも演じる人によってその説得力が変わる。彼女の教えを聞いていれば間違いない、不思議とそんな気持ちにさせるのだ。
『ジョジョの奇妙な冒険 戦闘潮流』のリサリサ、最近では『葬送のフリーレン』のフランメなどがすぐに思い浮かぶ。厳しくも温かく、誰かを導く役がなぜこんなにもハマるのだろうか。それは彼女のクールな声に温度が宿る瞬間の優しさだ。
アニメの中でも、またその長いキャリアでも、田中さんは素晴らしい芝居で、多くの人を導いてきただろう。彼女の声に出会えたこと、同じ声優業の方にとってはもちろん、多くのアニメファン・映画ファンにとってもかけがえのないことだった。
お疲れ様でした。数々の名演技は決して忘れたくても忘れることはないでしょう。僕自身、田中さんの芝居に導かれるように、アニメについて書く仕事をしている気がします。