12歳の子供が見た昭和23年 東条英機元首相ら死刑 父は戦地でどんな経験をしたのか(2024年8月18日『産経新聞』)

プレイバック「昭和100年」

東京裁判で判決を聞く東条英機元首相=昭和23年11月

<当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。>

戦争から帰ってきた父は以前のように勤めに戻ることができた。

昭和11年生まれの私は今年12歳。国民学校3年生の時に戦争が終わり、今は小学6年だ。私のような女子も多くの子供が学校に通っている。

父は30歳のころ南方で終戦を迎え、ボロボロになって帰ってきたが、詳しいことは何も話さない。というか、聞いても話してくれない。母も聞くなと言うので聞かないことにしている。

幸い私たちの学校は空襲でも残ったが、焼けた隣の小学校や新しい制度の中学校の人たちも交代で使っていて、校庭に机を置いて授業することもある。「青空教室」というが、夏は汗だくになる。

それでも給食が出るようになったのは感激だ。終戦直後なら考えられない。きょうは脱脂粉乳とトマトシチューだった。私は家から握り飯を持参しているけど、持ってこられない子供は全然足りないと思う。

帝銀事件の現場に棺がリヤカーで運び込まれた=東京都豊島区椎名町の帝国銀行椎名町支店(昭和23年)

この年は1月に帝銀事件という恐ろしい出来事があった。銀行に現れた男が、「近くで集団赤痢が発生した。この予防薬を飲みなさい」と言って行員らに毒薬の青酸カリを飲ませ、お金を盗んで逃げたというのだ。この事件で12人が亡くなった。中には8歳の子供もいた。

戦争であれだけ多くの人が亡くなったのにお金のために人を殺すなんて許せない。母からは「知らない人がくれたものはおなかがすいていても口にするな」と何度も言われた。

6月の福井地震では3000人以上の人が亡くなり、9月に東北を襲ったアイオン台風も800人以上が犠牲になったらしい。戦争が終わって、ようやく普通に暮らせるようになったのに、まだまだ悲しい出来事が多すぎる。

死者3769人、倒壊家屋3万6000戸の災害となった福井地震。写真は福井市内の大和百貨店=昭和23年6月

楽しくなれるのは、時々ラジオから流れてくる「東京ブギウギ」を聞いた時だ。踊りたくなるような歌詞とメロディーもそうだけど、父と渋谷に行った時に聞いた印象が強かったからだと思う。忠犬ハチ公銅像が駅前に復活したと聞いて見に行ったのだ。

空襲で焼け野原になった渋谷もかなり建物が増えていて、駅前の闇市はものすごい数の人であふれていた。近くに進駐軍の宿舎「ワシントンハイツ」ができて、アメリカの兵隊さんも機嫌良さそうに歩いていた。父もこの日は終始笑顔で、「ブギ」を口ずさんでいた。父はアメリカ兵とは戦わなかったのかな、とも思ったが聞かなかった。

暮れも押し迫ったころ、東条英機元首相らの死刑が執行されたというニュースを知った。父は部屋にこもり、すすり泣いていた。

なぜなのかは聞かなかったが、たぶんこの先も聞いてはいけないのだろうと思った。

※学校給食は昭和22年ごろから都市部を中心に復活、占領軍の食糧供出や米の民間救援団体からの援助もあり急速に普及した。29年には「学校給食法」が成立し法的に整備された。