終戦から79年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京・千代田)で開かれた。天皇、皇后両陛下が参列されたほか、岸田文雄首相ら三権の長、戦没者遺族3055人が会場に足を運んだ。天皇陛下は例年と同様「深い反省」との表現を用い、平和を祈るお言葉を述べられた。
岸田首相は式辞で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」とし、「この決然たる誓いを、世代を超えて継承し、貫いてまいります」と述べた。「『人間の尊厳』を中心に据えながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組む」と強調した。
式典では新型コロナウイルス禍前の2019年以来、5年ぶりに国歌が斉唱された。
感染防止のため、式典は20年から参列規模を縮小してきた。23年にコロナが5類に移行し、今年は座席間隔を空ける措置などをとらず通常通りの開催となった。
追悼の対象は先の大戦で犠牲になった軍人・軍属約230万人と民間人約80万人の計約310万人。
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
終戦から79年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。全国各地の遺族らは惨禍が繰り返されないよう平和を誓い、先の大戦で犠牲となった軍人・軍属約230万人、一般市民約80万人の計約310万人の冥福を祈った。
岸田文雄首相は就任後3回目の参列となり、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持、強化を進め、人間の尊厳を中心に据えながら、世界が直面するさまざまな課題の解決に全力で取り組む」と述べた。
父親が中国で戦病死した福島県福島市の安斎満さん(86)が遺族を代表して、追悼の辞を述べた。「世界ではいまなお戦争が絶えることがなく、多くの戦争犠牲者が出ており、1日も早く平和が実現することを祈るばかり」とし、「私たち遺族は戦争の悲惨さと平和の大切さを、今こそ語り継いでいかなければならない」と力を込めた。
参列遺族の最高齢は、北海道の長屋昭次さん(97)。最年少は東京都の酒井清凪(せな)さん(3)だった。事前に参列の意向を示した遺族は、80歳以上が47・0%(1512人)と半数近くを占め、戦没者の妻は2人。父母の参列は平成23年に途絶えた。
青少年献花者の堤帆南さん=15日午前、東京都千代田区(山本玲撮影)
追悼式では戦争の記憶を次世代に継承する青少年代表も献花した。
京都市立久我(こが)の杜小の6年、堤帆南(はんな)さん(12)=同市伏見区=は、「戦争のことはあまり知らなかった。伝えていかなければいけない」と力を込めた。先の大戦では曽祖父の堤惣市さんが亡くなった。
惣市さんは昭和21年7月、出征先の北朝鮮の古茂山で、39歳で戦病死したとされる。食料不足や冬の寒さなどの厳しい環境で過ごし、栄養失調で亡くなったという。カメラが好きで、自身で暗室を設えるほどだったが、写真は焼け、1枚も残っていない。
「歩兵の一覧が書いてある本を見て、(惣市さんが所属していた)歩兵第148連隊を探した。いろいろなところに移動していたみたい」。収容所での生活についても、食料不足や衛生状態の悪さ、亡くなった人がまるで丸太のように扱われていたことなどに衝撃を受けた。
調べたことは年表にまとめ、巻物の形にした。戦時中の風景や当時の服装などのイラストも添えた。追悼式にともに参列した三原さんは「情報が多くない中、私以上に勉強して上手に脚半の絵を描き、本当に偉い」と話した。
テレビでウクライナ情勢のニュースを見ているとき、父から「おじいちゃんもシベリアに行っていた」と教えてもらったという帆南さん。追悼式に参列する話になる前は「太平洋戦争が何かまず知らなかった」が、今では次の人に伝える意義を考えるようになった。「今日来たことを学校でも話してみたい」。まっすぐな目で、そう続けた。(山本玲)
「慰霊は私の使命」。全国戦没者追悼式で最高齢遺族として参列した北海道網走市の長屋昭次さん(97)。中国で戦病死した兄の保さん(当時26)と特攻で出撃していった先輩たちへの思いを胸に、つえをつき、ゆっくりと会場に入った。
8歳上の保さんは鉱山や電機関係の仕事をしながら家族の暮らしを支えてくれていたが、もともと体の弱い人だった。
昭和17年7月、招集を受けたが、「使いものにならない」とすぐに家に帰された。戦況の悪化を受け、同年10月に2度目の招集。兵站部隊に配属が決まった。「帰ったら働いて、お前を進学させてあげる」。昭次さんにそんな励ましの言葉を残し、出征していった。
20年7月、中国・天津の病院に入院したという保さん。同年12月に肺結核で帰らぬ人となった。
「あんなにも体の弱く細い兄も兵隊に行かなければいけなかった」。今もやるせなさがこみあげてくる。大黒柱を失った家族の生活は困窮した。
「17歳で亡くなった先輩もいる。戦争が続いていれば、私もここにはいなかったと思う。生き残った私が慰霊にくるのは使命だと思ってきた」
ただ年を重ねるごとに体は思うように動かなくなっている。「最後になるかもしれない」。そんな思いを胸に今年も、追悼式への参列を決めた。
今も世界各地で戦争が続く。「戦争の怖さを忘れることはできない。戦争の怖さを知らない人たちが多い。戦争は絶対にやってはいけない」(三宅陽子)