薬草園伝説は江戸時代に書かれた「南蛮寺興廃記」「切支丹宗門来朝記」などにあります。前者は次のような文面です。
「(薬草園を)信長に願い出たところ、聞き入れられて、<山城(京都)に近い国のうちで適当な土地を選ぶがよい>と言われた。伊吹山を選び、五十町四方を開拓して薬草園として、苗や種を取り寄せて、三千種ほど植えた」
◆「植物送れ」と書簡にも
1568年の出来事といわれますが、信長が安土城(滋賀)を築いた76年ごろとも考えられます。安土にキリスト教会を建てる許可を出した時に、伊吹山の裾野付近をいわば寺領的な形で与えた可能性があるからです。薬草園は山頂付近とは限りません。
伊吹山の希少植物であるマメ科のイブキノエンドウについて、DNAの配列を調べたところ「日本の在来種」だと判明したのです。欧州からユーラシア大陸にかけて広く分布する植物ですが、日本ではほぼ伊吹山に限られます。もし宣教師が持ち込んだ「外来種」なら、信長の薬草園伝説を裏付けることになります。
ただ「在来種」ゆえ、残念ながら伝説は伝説のままですが、単なる夢物語なのか、宣教師が願った夢の薬草園の痕跡なのか、結論を出すにはまだ早そうです。
共同研究チームは今後もイブキカモジグサやキバナノレンリソウなど十数種類の植物のDNA解析を続けるそうです。
しかし、欧州の植物を宣教師が欲したことは確かです。ポルトガル文献を研究する東京大学の岡美穂子准教授が、当時のメスキータというイエズス会士がマニラを経由して植物を求めた書簡を見つけました。ローマイエズス会文書館が所蔵する文書です。
「尊師が、私たちの望む植物やマルメロの木を送ってくださったことに感謝しています。しかし、それらはどれも乾燥した状態でしか届きませんでした。塩水をかぶっていたためです」
そんな趣旨の書き出しです。マルメロはカリンに似た果実です。西洋イチジクは既に日本に多く植えられ、さらに希望する植物を次々と書簡に書き連ねています。
サクランボ、サワーチェリー、桃、良い品種のブドウ苗…。ブドウはキリスト教の儀式に使うワインをつくるためでしょう。
メスキータ書簡は1599年。信長は82年の「本能寺の変」で没しており、17年後の書簡です。
でも、95年の事情として、スペイン商人アビラ・ヒロンの「日本王国記」に、メキシコからオリーブの若木が持ち込まれたが、日本の気候に順応しないこと、マルメロは豊富な収穫を上げていることが記されています。やはり植物は日本に運び込まれていたのです。
メキシコからマニラまでの太平洋航路が開かれ、アフリカの喜望峰を回る航路よりもずっと早くアジアとを結んでいました。時間が早い分だけ、塩水に漬かる心配も減ったかもしれません。
信長の時代に「欧州の薬草を」と宣教師が望んだことは十分にありえます。
◆「山の日」に古人を思い
きょうは「山の日」。1年前のこの日、伊吹山に登ると、眼下に琵琶湖が広がり、地上より10度ほど冷涼でした。
数十年前に見た風景に比べるとお花畑の面積は狭くなり、柵や網で囲われてもいました。シカの食害から守るためだと聞きました。温暖化のせいだとも…。
どんな山の小道にも歴史の足跡があったりします。夏の山道に古人を思うのも楽しいことです。
登らずとも、史料で歴史の山路をたどり、史実を踏み固める作業もまた大事です。そんな地道な研究も登山を思わせます。